※悲恋注意








コポリコポリと煮立つような音で目が覚める。コーヒーの香ばしい薫りが鼻について、ああ寝てしまっていたのかなんて不意に思う。ふらふらと昨日のことが脳裏に浮かんで、くしゃくしゃになったカッターシャツの襟を引っ張って小さく息を吐いた。

昨夜二階のこの部屋まで声が聞こえてくるほど賑わっていた宿屋は嘘のように静まりかえっていて、全てが夢のような気がした。けれどもちろんそれは夢などでは無くて、二日酔い特有の鈍器で殴られたように鈍く痛む頭でもはっきりと、これは現実なのだと認識していた。それは昨日の彼女の鮮やかな白が自分の脳に根付いてしまっていたからに他ならなかった。

―グレイ、私、結婚するの。

聞かされて気が付いたのは、全てが手遅れなんだという事実と、何も出来なかった自分だった。手を伸ばせば届く範囲にいたはずなのに、たった数日で声も届かないほどに遠くなってしまった。そして昨日彼女はとうとう何をどうしたって埋められないほど遠くへ行ってしまったのだ。パートナーの居る相手をずっと想うなんて悪趣味なことをするつもりは毛頭ないし、だからつまりそれは、とうとう訪れてしまった"サヨナラ"なのである。

「はは、俺も大概…」

ぐしゃぐしゃなボロ雑巾みたいに床に横たわっていた自分の上体を起こして俺は小さく苦笑した。目の前のベッドではこの季節には不似合いな夏男が酔い潰れて眠っていて、まだ春なのに黒く日に焼けた肌に相変わらずだなぁ、なんて意味のないことを思った。

「グレイ、いる?」

突如コンコンとノックされた自室のドアに驚いて、俺は反射的に視線をそっちへ動かした。よく聞く声だから声の主は聞かずとも分かっている。

「ラン?どうした?」
「えーとね、上で音がしたからグレイ起きたのかなって思って。もしかしてカイも起きてる?」
「あー…ううん、カイは起きてない。俺だけ」

やっぱりね、と言いながらドアを開けたランはコーヒーの入ったカップを2つ、お盆の上に乗せて現れ、「カイは昨日ひどく酔ってたから、まだ起きないだろうなと思ったんだ〜」と笑った。

「あ!いつもみたいにコーヒー淹れちゃったんだけど、もしかして水の方が良かった?」
「あ〜…いや、ううん。コーヒーでいいよ」

カップを俺に手渡しながら、ランはハッと思い出したようにそう言った。ランはしっかりしているけれど、たまにこんな風に抜けている所がある。

「ねえグレイ」
「なに?」
「好きだった?」

クレアさんのこと、と続けたランに驚いて俺は危うくコーヒーを溢しそうになりながら「なっなっなっ…!」と気付けば言葉にならない声を発していた。

「やっぱりそっかー」
「んなっ、ちょ、何で知っ…!」
「グレイってバレバレだよね〜」

クスクスと円形のお盆で口元を隠して笑うランに、気持ちをまんまと言い当てられた俺は熱くなる顔を必死にどうにかしようと焦って、でももうこれは意味のない気持ちなのだとふと気付いて下を向いた。

「…でももう、この気持ちは意味がないよ」
「そうだね、結婚しちゃった、もんね。昨日」

そう言って気付くとカイの為に用意したと思っていた2つ目のカップにランはいつの間にか口を付けていて、「苦っ」と言って顔をしかめた。

「どうしたらいいのか、分かんないんだ。忘れなきゃって思うよ、けど」
「時間が、掛かるよね」
「うん」
「ねえグレイ、あのね」
「うん」
「わたしね、クリフが好きだったんだー」

いつもの彼女の口調で軽く放たれたその言葉は、声の調子とはかけ離れた重い内容だった。驚きの余り彼女を見れば、泣きそうな顔に精一杯の笑みを浮かべていて、よく見れば昨晩どれほど泣いたのかと思うほどに目の上が赤く腫れていた。

「気づいてなかった?」
「……全く」
「そっかぁ」
「…なんか、ごめん」

言葉が見付からず目を泳がせていた俺がようやく出せた言葉はありきたりな謝罪のそれでしかなくて、ランはそんな俺に「何でグレイが謝るの」と笑った。
彼女の気持ちが痛いほど分かるのに、何も言えない自分が情けなくもあって、でも自分と同じ痛みを同じ時期に感じている人がいる、という事実が妙に心強くもあって少しだけ救われたような気持ちになった。
人は本当に何て壊れやすくて繊細でそして単純な生き物なのだろう。少しの波が大きな波紋を描くように、感情は些細な出来事でいとも容易く大きく揺れ動く。

「私もグレイもお互い、不毛だね」
「はは、言えてる」
「何だかいつもよりコーヒーも苦いし」
「それはランが淹れたんだろ?」
「そうでした」

あはは、と俺たちは互いに笑ってそれから苦いコーヒーを一気に飲み干した。飲み慣れた筈のブラックコーヒーは何故か少しだけ舌をピリリと痺れさせて喉を通っていった。

「やっぱり苦い〜!豆のブレンド間違えたかなぁ」
「え!まじで!?勘弁してくれよ〜」
「あはは、面目ない」

俺たちはそんな他愛もないやり取りをしながら、時折声を出して笑い合っていたが、「何だかスッキリしたね」というランの言葉に代表されるように、泥のように濁った場所から這い出したような気分になった。これはきっとランが隣に居てくれたからだろうと思う。


ランは明るくていい子だし、よく気も付く。おまけに料理も出来て、世間一般的に見て可愛いと思うし、悪いところなんてない。でもそんな子でも実らない、叶わないことはあって。

それはつまりランに非があったとかランに何かが足りなかったとか、そんなことではないのだ。ただ、ランでは無かったというだけ。

誰かの幸せは誰かにとっての不幸せになってしまうこともあって、そんなとき、喜んでいる人の傍で悲しむ誰かが存在してしまう。そして今回それがランと俺だったという、ただそれだけのこと。

正解も不正解もありはしない関係性と感情の渦の中で俺たちは生きていかなければならないんだ、これからも。
ただそれだけは紛れもない現実なのだ。

「グレイ、頑張ろうね。お互い。幸せになれるといいよね」
「幸せになれるといい、じゃないよ。幸せになろう、だ」
「ふふ、うん。そうだね。幸せになろうね、グレイ」

隣で赤くなった鼻をすすりながらそう言って笑うランを見て、今度は彼女が幸せになれることを心の底から願った。




2つのアプリコット・ブラック





120310


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なつまちの影響で書いた両悲恋ネタ。ぐしゃぐしゃな恋愛模様もたまにはいいですよね。








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