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轍(わだち)

轍(わだち)とは、道路に車がつけた跡、窪みのことです。
これについての私にある強いイメージとしては、未舗装の濡れた粘土質の道に馬車がつけた深い跡という画像がいつも思い浮かぶのです。

私のブログ「アロマ珈琲」は今、この轍にはまっています。轍は崖の下に繋がっているという‥。

私は新聞記者でもなく学者でもないので、ブログ記事には間違ったことも書くし大失敗もします。

この間の記事「臨時営業」では読む人を傷つけてしまう部分がありました。ごめんなさい。でもあの記事、少なくとも私のブロ友さんのことを言ったのではまったくないのです。仲良くしている人を敢えてピックアップして傷つけますか。巷の見知らぬ人のブログ巡っていて感じたことなんです。だからほんとうはブロ友さんには謝りたくないのです。


手術前後からブログの雰囲気が変わりました。妙にペースというか雰囲気が乱れ、その頃から嵌った轍から逃れられないでいます。で、その轍は崖の下に繋がっています。

先日、私は「臨時営業」の記事で、両面ある内容のうち片面しか公表しなかった。陰陽あれば陰の面しか公表せず、読む人をがっかりさせた。ここに陽の面の原稿があります。私なりに心血注ぎ書いた原稿があります。先日は陰陽一気に書いて出せる力も気力もありませんでした。

でも。

もう手遅れのような気がします。もうすでに「覆水盆に還らず」「瀬戸物に一度入ったヒビ」みたいな現象を見てしまいました。


私は、間違った記事というか、表現が半端だった記事を読んで傷ついた方々全員に謝って歩く元気がありません。

で、そうした人たちに軽蔑されたまま、平気で楽しい記事を書いていく自信がありません。

崖下につながるぐちゃぐちゃの轍が乾き、車輪が脱しやすくなるまで時間を置くか、熱にうなされた体と足を引きずってほうぼうに謝って歩くか。

こんなに他人を傷つける可能性があり、かつ自分自身苦しむのならもうブログの記事を書きたくない。
記事を書くとすれば、他の方には私の記事は「アカの他人が書く戯れ言」のように読んでもらいたい。世の中にはそういう前提で書かれた記事、たくさんありますよね。

あの記事も前書きで深入りしないように注意を促していました。でもブログ記事での中ではそんなの、何の意味も為しませんでしたね。
やはりブログでの付き合いには限度がある。いくら気心が知れたつもりでいても、歯に衣着せず書いて理解してもらうことは難しい。

生身の親しい人との間だったら「何言ってんの、あんたの意見は違うよ」と情報交換できるのにやはりブログには制限がある。

ブログはやはり完全無欠な記事を書かなければならないのだろうか。「今、間違っているかも知れないけれどこんなことを考えている。」と公表することは私はしないほうがいいのだろうか。当たり障りのない、だれからも批判されない記事だけを注意深く書いたらいいのだろうか。

でも私は、間違ってはいるかも知れないけれど、今思う悲喜こもごものことを自由に書きたいという気持ちがあるのです。で、他人には「また戯れ言書いているな」と読み飛ばしてもらいたいのです。教科書のように本気で読んでもらっては恐縮するのです。

あの記事をあっさりとやり過ごして、何事もなかったかのように交流してくれている友人にはわるいけど、やっぱりブログとか名前を変えて全く新しく出発したほうがいいのかなぁ…

最近このことしか考えていません。日常何の建設的なこともできないでいます。読書、勉強もできないし。

私にとってほんとうにブログをやるメリットって何なのだろう。

多くの人にはメリットがあるでしょう。だけど、私みたいに気の小さい人間だと、延々とモヤモヤ悩むことが多い割に実際建設的なことがほとんどないのです。

温かい交流はありますよ。今の私にはそれだけでもブログをやる意義はあると思っています。でもブログは後味がいい結果が出るばかりでありません。


今、ほんとうに私にとってのブログの存在意義が問われています。
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