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私が幽霊の存在を信じるわけ@

本当ならこのようなお話は、夏にすべきなんでしょうけどね。

今回の、この手のお話が苦手な方はどうぞこの記事を読まないでくださいね。


私、以前11月6日、「虫の知らせ」という題名で記事を書きました。

で、その際チラッと、私の祖母が驚愕する形で虫の知らせをなさったこと、そのことについてのお話を、亡き祖母に伺いを立ててから、機会があったら皆さんにお話すると申しましたよね。

実は、今回はそのお話についてなんですがね。

祖母が亡くなり30年が経過した今、今改めて祖母を偲び、縁あってブログで接点を持った皆さんにこうしたお話をさせていただくのも、祖母に対する供養になると私は思うんです。


さて、私はかつての「虫の知らせ」の記事の最後に、芭蕉の「旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる」の句を上げさせていただきました。

今回私が言う「幽霊」とは、生きた人の意思というか、テレパシーというか、生き霊?というか、いずれにしても、こちら側が精神的に不安定ではない状況において、位置的に離れた場所に‥どう考えても物理的にふつうあり得ない形で相手の意識、姿とかが映し出される現象があったと、それを実際に私の父母、私の親戚らが見たというお話なんですよね。


だから、厳密には「亡くなった人の魂」という意味での幽霊という扱いのお話ではありません。
生きている人の意思、意識が遠く離れているところに形となって反映されるという意味での幽霊というお話です。


まさにこの状況は、芭蕉の句にある「夢(意識)は枯野を かけめぐる」というイメージそのものの状況だと感じているのです。そうした出来事が「実際の現象」として私の父母、親戚らの目の前で実際に起こったというお話なんです。

前置きが長くなりました。

続きます。

自堕落な私でも人生変えられる奇跡のことば

今日は「現世」にちょっと戻ったので、今少し思っている「自己啓発」のことについて書きたいのです。記事自体は深夜書きました。

さて。自己啓発については、世の中には素晴らしい本が出回っていますよね。
例えば「和民」の社長さんが書いた本とかは素晴らしいことを書いていますよ。
ああした書物を座右の書として内容を心に刻み、実践できたら人間どんなに変われることでしょう。

私は「自己啓発」とか「格言」の本が好きで、感想文リストがある範囲で300冊は読んできましたが、どれも結局は娯楽本として片付けられているのです。

なぜか。

それは、啓発本等の内容に慣れてしまっているというかマヒしてしまっている部分は確かにありますが、それより何より、そうした本って実践するには内容が素晴らしすぎるからなんですね。素晴らしすぎて眩しすぎて、結局は「確かに素晴らしいけど魂には焼き付かないな」という諦めみたいな感じになってしまうのです。

弱い私には内容的にパワーがありすぎる。

ああした本を書いた人は例外なく「成功者」です。成功者だからこそ書ける内容です。失敗者が書いてもしょうがない。空論となりますから。

でも、そもそも成功者って殆どが最初からやる気、パワーを持った、いわゆる「素質を持った人」なんですよね。

確かに成功には「パワー、センス」を要しますよ。でも、他人に対して自分の成功談から影響を与えようということを目的とした場合、極端な話、徹底的に自堕落な、やる気のない人間が、いわゆる「成り上がった」その体験談を語る方が効果があると思うのです。
世の中にはそうした本が殆どないのです。あっても、いかさま的内容か、現時点で著者にパワーがありすぎて、結局、内容が空々しく見えたりしてしまうのです。で、いかさまを除いたとして、「パワーの人」って、最初からどこかに「強力なやる気」がある人なのです。そうした人が書く内容は、弱者には眩しすぎる内容なことが大部分なのです。

中にはちょっとは面白い本がありますよ。例えば、ここ数カ月前に読んだある本は、著者自身が「自分はいかさま占い師だ」と言っていたことから期待できるように、なかなか面白い話を展開していました。

その内容とは、「物事を最初から計ったようにやることは難しい。結局は挫折する。やるかやらないかについては、とにかくちょっとでも動かすことこそが一番大事なのだ」というものだったんです。

私はこの考え方、非常にいい発想だと思いましたね。

列車でも、最初に「ガタン」と動き出すのが大変なのです。一番パワーを要するのです。


さて、ここで、私が思うにそれよりも大事だと思うことがあるんですよ。

それは「何のために動き出す必要があるのか」というモチベーションの基を定めることなのです。

ですが、これを定めることこそが、はっきり言っていっちばん難しいのです。特に、真に自堕落な人には無理です。

私が確信します。自信を持って言いましょう。まず超自堕落な私には無理です。なんというか「なまけぐせ」があるんですよね。私って(なんでじゃ)

いや、私って動物に例えると「龍」なんですよ。龍が動物かどうかは別として。自分ではそう思っている。龍は天変地異とか、何かが起こらない限り、暗いねぐらでじっとしているのです。何かがあれば上り龍。ものすごい行動力がありますよ。あると思っている。でも、何も目標がないと「ジメ〜ッ」ですよ。私はそのタイプ。何もないとまったく動かず考えごとをするタイプなのです。

さて。
こうした「真に自堕落な私」が変われることば、「南無阿弥陀仏」みたいに短文、一言ですが変わるためのエッセンスのことばとして私は開発しました。見つけました。ここにあります。



お知りになりたいですか。

書こうかどうか迷っています。う〜ん、どうしようかな。


お教えしましょうか。来週。


なんですって、伸ばすなですって?


ウッフフフ。わかりました。お教えいたしましょう。でも、まったく期待しないでネ

あと、これは少なくとも「人生、よりよく生きよう」という気持ちを持っていない人にはただの駄文ですから。
「人生なんて、ラクで楽しければいいだけっス」という方には意味をなしません。


引っ張りました。


奇跡のことばとは



「やった方がいいんじゃないかな〜‥ということを1日に3つやる」



ということなんですね。


「は?」ですよね。
そっかー

でもこれ、自堕落、かつ300冊の私が行き着いた結論なのです。

これはもっとカッコよく「なさなければならないことを見つけ、まず3つ成し遂げてみよ」とか、チャーチルの言った「やるべきことを、やれる範囲で、やれるうちにやれ」とも似ているものがある。

で、このやろうという3つとは「部屋掃除、草花に水やり、ネイル処理」でもいいですよ。もっとヘヴィーに「本1冊読んで、懸案のAさんとの確執を解消し、債務について弁護士に相談し返還利息の取り分を確定させる」でもいい(内容がリアルだな)。まあ、いずれにしてもピンキリです。但し、やると決めた3つのこと、これは必ずやり遂げる必要がある。これだけは押さえたいのです。
あと、「3つ」はやり慣れるといずれ必ずレベルが上がっていきます。そして自信がついていきます。習慣化します。

「3つ」については、3つと言わず5つでもあり得ましょう。でも5つを超えてはいけない。5は片手の指の数。進化上、指が5本あるのには理由があるのです。話は違いますが。

とにかく私は3がベストだと思う。



「やった方がいいんじゃないかな〜‥ということを1日に3つやる」



私にとってこのことばは、裏に膨大な数式が隠されたエクセルの表の結果欄みたいな意味を持つのです。
自堕落でいて、かつ、変わりたいと真に思っているかたは、まずだまされたと思ってやってみてください。いや、一緒にやりませんか。私と。
結果を報告し合いましょう。

とにかく私、今、藁をもつかみたい状況なんですよね。変わりたい。

はー‥引っ張った割には今日は記事として全然おもしろくなかったなぁ‥。


以上、自己満な記事でした(あっさり終了)。



話は変わりますが、最近私、記憶すべき課題がなかなかたくさんありましてね。

なかなか皆さんと「ブログ界」ではご一緒できていませんよね。

でも、実際、私のような者が書く記事、書いて意味をなすのだろうかといつも疑問に思っているのです。

記事に自信がないのです。矛盾も多いし。



次回は私がほんと驚愕するお話をいたしましょうね。ちょっと修行&気合いを入れる関係でしばらく時間がかかりますけど…。

死ぬことを定めるとその後の人生が変わるのではないかと思ったこと

子どもの頃は、奇跡とかあって自分だけは死なないと思っていた。
死ぬことを考えること自体、恐くて、かつ縁起がわるいことだと思って考えないようにしていた。

けれども、私、体をこわし、体に翳りが出て、以前からうすうす考えながらも目をつむってきた「死」というものについてそろそろちゃんと考えなければならない時期に来ているように思っている。

いや、すぐ死ぬというわけでは決してない。でも、いずれ死ぬのです。

死を軽々しく口に出すこと自体慎まなければならないことです。

けれども、死はいずれ必ずやってくる。そして、それに向けての準備をするのとしないのとでは、今、私が思うに人生の結果にかなりの差がでるのではないかと感じているのです。

確かに、今バリバリと頑張っておられる人とか、若い方には、死というものは全く縁遠いものであり、考える必要はないかもしれない。

でも、人生を有限と観念し、例えば平均寿命の統計を確認し、確認しなくてもだいたいの平均寿命に予備をとってマイナス5歳くらいにして、それまでの余命を出して、そのうちに例えば何回ご飯を食べられるのかとか、何週あってどのくらいの余暇があって、何回元気に夏を迎えることができるのか、そのためにはどのようにして体力をつけておく必要があるのか、自分は80になってもかくしゃくと歩きたい、清水寺の産寧坂を元気に歩けるおじいちゃんになりたいとか、そうしたもろもろのことに備える気構えができるような気がするのです。


私は先月22日に胸部大動脈瘤に対しての手術をいたしました。

朝、手術着を着て、看護師さんに案内されて手術室に向かいました。

エレベーターの中では年配のおばあさんもいらして、そのおばあさんも同じく手術に向かうところで、私は、他に手術の人がいることで安心感も出たものです。私はおばあさんに笑ってもらうためにことさら看護師さんと私のダイエットのコツとかをおもしろおかしく話したものです。
で、手術室の待合室に行ったら、なんと4、5組の手術患者さんが看護師さんに付き添われて待っていて、私はさらに非常に安心感を持ちました。手術する不安を抱えているのは私だけではないんだと。

で、手術台に上がる時が来て、手術台に上がりました。

手術台はほんとうにフカフカで、あったかくて、執刀医を除いて7人のドクター、スタッフがいらっしゃり、至れり尽くせりの雰囲気がありました。

そこで私は思ったのです。この雰囲気は、あの世に行くときと同じではないのかなと。

死ぬ時には、やはり我々は霊長類の長、お迎えの使者などが来るのではないか、最初は今回の看護師さんみたいな雰囲気で使いの方が、で、途中からはあの世への案内の方々が。実際私の父には、幻覚かも知れませんが父の亡くなったお母さん、そして複数の方がいらしていたようです。父が指差して訴えていました。

で、あの世の入り口では、丹波哲郎さんの大霊界ではありませんが手術の待合室みたいに、あの世に向かう人が結構待っていたりして。

死者は死後、キョウカタビラ(死出の白装束)を着て、肉体はフカフカの布団が敷かれた白木の箱の中に入れられ、そしていずれ台に乗せられ、火葬されるのです。

手術に当たっては台に乗せられ麻酔がかけられ、ある段階で安らかに全く意識を失います。あのシーンはまさに、肉体が火葬され、あとは肉体も、肉体につながった意味での意識も、何もかも全く消失するという世界。あの世への旅立ちの場面と非常に似ているものがあると、私は思ったのです。

そう。人生は本当に有限で肉体もいざとなればあっけなく終わるのです。でも生きているうちは生きなければならない。ならば生きているうちはできるだけ充実した人生を送らなければならないのです。それが生きる意味なのです。

手術を経て、私はそう思いました。

まず死を定める。暗い話かも知れませんが、私は最近、こうした死の時について、時々考えるのです。今はやめろという意見もありますが…。


さて。長々と書きました。
私、今日20日から少々記事記載をお休みするかも知れません。昨年今頃もそうでした。私が修行と言っていることをするのです。

では。

松任谷正隆さん

今日11月19日は松任谷正隆さんの誕生日。
松任谷さんは言わずと知れた銘、というか超音楽プロデューサー。素質の上に若い頃からどんどん実力をお付けになってきた努力の人。いや、努力というかその分野の仕事がお好きなんですね。
それでどんどん登りつめていらっしゃった方だと思う。

今日テレビを見てましたら松任谷さん、ご自身では「何一つ満足に成し遂げたものがない、これから何か一つでも成し遂げたい」とおっしゃってました。
私もあんな感じで人生重みを持ってかっこよく頑張りたい。

松任谷さんといえばユーミンさんの旦那さん。私、ユーミンさんの大ファンなんですよね。CDは「ユーミンブランドパートU」以外すべて持っている。同じタイトルのCDを3枚持っていたりする。

先日マイケルジャクソンさんと「ハグ」した芸人さんがいて、「ハグ代40万円」と言ってましたが、私、ユーミンさんと同じ時代に生まれ、同じくこの世に生きているうちに、一度でいいからハグしてもらいたいというくらいに思っている。

なんというかなぁ、ユーミンさんって私の幼少時代からの憧れというか、お姉さんというか、他人とは思えないんですよね。ハグ代というかCD100枚でハグしてくれるというなら買う。それくらい思う。

私、自分自身の雰囲気としては松任谷正隆さんみたいな感じだと自分では思っている。
ちょっと地味で、なんというか…言えないけど似ているという感じがあると思っている。どうでもいい話ですけど。

あと同じく車好き。


体調良くなったらユーミンさんのコンサートに行きたい。

話がごちゃごちゃになってきましたが、

松任谷正隆さん、お誕生日、おめでとうございます。


画像は全然関係ありませんが今日食べたS&Bフォンドボー・ディナーカレー辛口です。ビーフとマッシュルームが比較的多く入った欧風カレーです。

牛丼の話

画像は私が気に入っている牛丼の素(冷凍)です。

良質の肉がいい感じで重なって入っている。そしてシャキッとした爽やかな歯ごたえの玉ねぎ、冷凍にしては適度な弾力が残ったこんにゃくが絶妙な塩梅のタレで煮込んでありおいしい。

さすがだ。

これ、アツアツのご飯にきれいに盛り、味噌汁、お新香、そして珈琲でも付けたら980円でもイケますよ。

因みにこのパック、私のルートでは250円で入手しています。

冷凍パックの牛丼の具もこうして肉、玉ねぎ、こんにゃくと、分けるように盛り付け、更に肉をきれいに並べるともう高級料理の感じがある。

これを古伊万里の器に盛ってごらんなさい。一流ですよ。

単なる冷凍牛丼の素でもこうですからアータ、人間だったらすごいですよ。すごいというかあなたの演出でも応用できます。

まず、第一印象。

人間はパッと見で相手の6〜7割を判断します。
ファッション、髪型を整えましょう。

装飾品、牛丼の古伊万里に該当しますが、これも少なくとも一点豪華品を身につけましょう。あまりごちゃごちゃだと却って下品です。さり気なく1、2品で行きましょう。

あと、会話もごちゃごちゃではなく、肉の話なら肉、玉ねぎの話なら玉ねぎ‥とパートパートで話していきましょう。

一気にごちゃごちゃあれもこれもと話したらちゃんこ鍋みたいな話になってしまいますよね。

ごちゃごちゃといえば、私はすき焼きでも鍋の中の風景を重視します。具材を追加するにしても肉の位置、シラタキの部分、ネギ、豆腐‥と、ちゃんと煮られる位置を一定にしないと気分が冷める。

卵も5回以上はかき混ぜない。これには私的な理由もあるんですよね。小学校1、2年のころ、朝、卵かけご飯をやろうと卵をかき混ぜていたら、目が回ったというか酔ってしまって、なんと吐いてしまったんですよね(ハァ?)。それ以来、卵をかき回すと具合がわるくなるのです。ハッハハハ‥

話が最初からずれた感じになっていますね。

牛丼から話を引き延ばすのもおもしろいものがある。

ところで、こうした不景気が続いていると、やっぱり吉野家とかすき家とかの牛丼店は経済的な面で味方になりますよね。

私はこうした牛丼店の雰囲気も好きなんですよね。
カウンターが向かい合っていて、そこここにいろんな人が座る。見える。

黙々と食べるおっちゃん、地味な学生さん、高級そうな服を着た人…「ああ、この人にも人生があるんだな‥」と、そして私もそのうちの1人なんだなと、しんみりしたりね。いちおう20時以降にその雰囲気は高まりますね。いいもんですシミジミ‥

は〜‥、それにしても私、以前は1食当たりすき家の「メガ牛丼」(肉、ライス2人分)2杯に卵4個、サラダ2個とか食べてたんですが(いちおう人です)、あんないい時代というかあんな体調がいい時代って、もう来ないんだろうなぁ…寂しいなぁ…
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