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ブログの常習性

今日は疲れているのでこんな感じで珈琲タイム(なんだこのハートは)

皆さんこんばんは。
自分で30,000回目のヒットを刻んでしまったボスです。泣き虫ボスですよ



はー‥3万回か…

このうちのほとんどが自分で訪問した数なんだよね…(ンな)


いやしかし皆さん。あなたは1日何回ブログをお開きになりますか。

私は20回から30回は開くかな。

これって病気ですか。さみしいとか。心が満たされていないとか。

かといって、ほうぼうのブログを訪れているわけではないのです。

どんな人があしあととかつけてくれているのかな、とか思ったりして見たりしている。

でも、自分ではあんまり積極的にほうぼうのブログを見ないものだから、訪れてくださる方はまれ。

私は他の方のブログ、55ほど購読しておりまして、新着記事を見ているのですが、かなりの人は休眠状態なんですよね。

ブログをしなくなったのか、エムブロをやめられたのか、他のアメブロとかに乗り換えたのか。
あっ、アメブロに移行なさった方は結構多いようですね。

で、こんな感じで私はブログ見ているものだから、当然訪れてあしあと残してくれる方は少ない。

あしあと残してくれる方はなかなか勇気のある方だ。といっても私は別にあしあと残してくださるかたを取って食べるわけではありません。ストーカー行為もしないし(当たり前じゃ)。

ただ、うれしいと。喜ばしいと。



さて本題です(長いな)。

ブログの常習性。

実は昨晩、記事書いて、なんかしっくり来ず、気持ちもささくれ立って、過去の記事をリバイバルシリーズで上げたりしてごまかして、結局今日また記事の順番を変えたりして、夜中2時になり、「こんなことじゃブログしばらくやめようかな」とか「記事アップして、どこの誰かもわからない不特定多数のかたがたの目を気にしたりくよくよ記事を見直すとかだったら、もしかしたら、いやきっとブログって自分に合わないんじゃないかな」とか思ったりして、しばらく記事を書かないことにしようと今日朝からずっと思っていたのです。


ですが、今こうしてまた記事を書いている。

これはもはや、病気ではあるまいか。

で、きっとこの記事も見直して、「どんなかたがたが読んでくれるのかな」とか気にするんでしょう。

で、また眠られなかったりくよくよ考えたりすると。

ブログの常習性。

魔性のブログ。

私にとって気楽に書けないブログ。

やることがたくさんあるけど、記事を書くと簡単に寝る時間になってしまい、自分の勉強の時間がなくなってしまう、なくしてしまうブログ。

記事を書いてもくよくよ気にして他のことに集中できなくなってしまうブログ。

魔性のブログ。


魔性のブログ。


こわいこわい。


こわ…

たまにむしょうに餃子が食べたくなる

餃子は必ず2皿以上注文する。

店の人にわるいからだ。

わずか1人前を作るために油を敷き、餃子を並べ、焼き具合をみながら水を足したり蒸したりしてもらうのがむしょうにわるい。

だから私は餃子、いつも2皿以上注文する。

もちろんラーメンといっしょに。

餃子だけ注文するのは店の人にわるい。

必ずラーメンといっしょ。

ラーメンだけ注文するのは店の人にわるい。

だから、餃子がある店ではラーメンの他にたいてい餃子を注文する。

あと、ラーメンの場合、必ず大盛りにする。

でないと店の人にわるい。

ちっちゃな生ラーメンの玉一つだけを煮てもらうのはわるい。

で、ラーメンの場合、必ずたいていただのラーメンではない。

必ずと言っていいほどチャーシューとか、五目とか、野菜とか、湯麺とかにする。

ただし、同行した他の人が皆、醤油ラーメンだったら、私も醤油ラーメン。一人だけ餃子ラーメンとか焼き肉ラーメンとかには決してしない。なお、醤油は注文するが大盛りにはする。

なお、一人だけで行った場合、煮卵、シナチクとかがトッピングにあればそれは追加することが多い。

あと、スープはたいてい全飲。

でないと店の人にわるい。
捨てられて、河川に流れることを考えると環境にもわるいし。

だから全飲。

それは体にもわるいかもしれない。

そして、全て平らげたのち、丼とかお皿とかコップとかができるだけ美しく見えるように並べ、場合によっては重ねたりして、退席する。

「客のなり」とか「美意識」を常に意識する。

注文も退席も極めて早い。即座。
食べ物を決めるのに店の人を待たせることは決してない。

店の人にわるいから。

いや、それ以前に、店に入る時点でほぼ食べるものが決まっている。それが習慣化している。

ラーメン店での食事中は決して読み物は読まない。できるだけ会話もしない。

ただひたすら、怒涛のごとく食べる。ただし、食事風景を誰に見られてもはずかしくない姿勢、姿、箸づかい、1回で口に運ぶ量とかはいつも意識している。

これは自分でも窮屈ではない。自然。


これがラーメン店での私の流儀、姿勢。


餃子がむしょうに食べたい。五目ラーメンと。

ブログには人格が宿る

私はたまに「画像つきブログ」から記事を見たりするのですが、もう深夜であろうがいつであろうが新着記事が数秒単位で次々にアップされるんですね。
これほどまでにブログ、エムブロ人口はいるということ。数十万人は登録人数があるんじゃないでしょうか。

そうした中で不思議なものです。それぞれのブログには特定のブロガーさんが集まり、その集まったブロガーさんのところに行くと、かなりの人数の、自分が訪れたりしょっちゅう見たりしているブロガーさんらが名前を連ねていたりするのです。

数十万、いや百万人はいるかもしれないブロガーさんの中で、特定の集団が島を成しているこの不思議。

以前、今は亡き丹波哲郎さんが「大霊界」という映画、あるいはその著書で、「霊界に行くと、ステージ、前生・前世での同じような性格を持った者達が集まる世界、ステージに行くのだ」というお話をなさっておりましてね。

あの世に行くと、見渡す限り似たものどうしが集まっているという‥。

ブログ上でも期せずしてこのような集まり、グループが自然にできていることを考えると、霊界というものがあるとすれば、あながちこの霊界の話はありえないことではないなと思ったりして。

とにかく、こうした同じような性格、趣味、嗜好・指向・思考、ステージみたいなものを持った方々が、この限られた文章表現の場であるブログに集っているのです。

更に、その方のブログの足跡に、特定の、少数の方々が頻繁に集うのが見られる場合、もうその方の世界はなかなか明確なものがある。出来上がっていることが多いのではないか。

思えば非常に不思議。縁という意味でも。


さて。ブログの世界はご自身が自分の実名や所在が他人に知れたり、あるいは自分の知り合いが見たりしていない限り、好き勝手なことを書いてもいいわけですよね。いわゆる公序良俗に反しない内容であれば。

でも。なぜかしらブログって、そうしたことがなくても、記事を書くときには気を使ってしまうのですよ。皆さん。

そうじゃありませんか。

これって、やはり今まで自分が書いたブログ記事で構成されるご自身のブログに人格めいたものができたり、宿ったりしているからなんじゃないでしょうか。

そして、どこの誰かもわからない方々との交流ができたりして、そうした方々に気を使うようになったりして、そうした方々が自分に持ってくれているイメージを崩したくないとか、そうしたことを知らず知らず気にしてしまうようになるからなのではないでしょうか。

特に、その方のブログにご自身のお顔の一部とかが掲載されたりしているならこれはもう、自分のイメージがブログにかなり宿っていますよ。


文章に強い思いを込めてご自身のことを書いていれば、これもまた完璧、ブログにその人の人格が宿っている状態なのではないでしょうか。


で、ブログにはそうした人格が宿り、喜怒哀楽が渦巻いている。

私は思うのです。人間の意識、喜怒哀楽、念とかというものは怖いものだと。
ひとり歩きしたり、集団化して徒党を組んだり、大きなうねりとなったり。

霊界みたいなもの。

だからブログ、やっぱり書くにはちゃんと気持ちをしっかりもたないと、いろいろな意味で

 魅 入 ら れ ま す よ ね 。


(怖い終わりかたですみません。)

飽きない食べ物

ボスリバイバルシリーズ
2010年12月8日の記事。

・〜・〜・〜・〜・〜・〜

この、アロマ珈琲のブログ書き出しのころ、同じ題名で記事を書いたことがあったのですが、また書きますよ。扱う素材も同じです。

で。

私にとって飽きない食べ物といえば、卵なんですよね。

なんでこう、飽きないんでしょうかね。

私は目玉焼きの熱のとおり具合としては、画像のような状態が好きなんですよ。

朝食は豪華でなくてもいいんです。こうして、あったかごはんとお味噌汁、そして目玉焼きがあれば。ちょっとのお醤油と。

これでゆったりとした気分でいただくのが好きなんです。


そういえばぜんぜん話は変わりますが、以前、伊丹十三監督の映画「マルサの女」で宗教法人を扱ったものがあったのですが、その中で、宗教法人の黒幕役の三國連太郎さんが朝、査察に入られる場面があったんですよね。

あの場面は強烈でしたね。

その場面は朝食のシーンでした。そこに今まさに査察が入る切迫した事態ですよ。一刻も早く証拠隠ししなければならない事態に三國さんはお皿に乗った目玉焼きに直接口をつけて卵の黄身だけを啜るんです。

私はいつも、朝慌ただしく朝ごはんの目玉焼きを食べるときには必ずと言っていいほどそのマルサの女の音楽と、三國連太郎さんのそのシーンが思い出されるのです。

やっぱり伊丹監督はすごい監督でしたね‥。


目玉焼き、くどいですが今回の画像、気に入っているのです。
待ち受け画面にしたいくらい。実際、現在待ち受けにしていたりして。(じつはこれマジです。)

理論でロトを当てる

ボスリバイバルシリーズ
2010年3月26日の記事。

・〜・〜・〜・〜・〜・〜

TKG、すなわち卵かけごはんは飽きない。

だいぶ以前見た雑誌に、有名人に「地球最後の日に何を食べるか」という問いをしたものがあって、その中である女性が「卵かけごはんをツルッと食べて潔く迎えたい」と述べておりましてね。

その時分、血気盛んな年齢だった私、「ずいぶん欲がない方だなぁ」と思って見てたんですが、今、こうした状態になってみると、「なるほどね‥気持ちはわかるな‥」と思ったりするんですよね。

卵って、ほんと飽きない食べ物ですよ。

私、いろんなものを食べ尽くしてきたつもりですが、いまだにカツ丼とか親子丼とかの、あの卵がトロッと半熟よりちょっと熱が入った状態で乗っている風景を見ると、ほんと、たまらないんですよね。

あの風景って、ほんと、まさに永遠のごちそうというものですよ私にとって。

いや〜‥、卵って、ほんっとうにいいもんですね(水野晴郎さん風に‥って古っ)

いや、卵ってほんと安いし、おいしいし、飽きないし、私はほんと好きだなぁ。


ということで、話はぜんぜん変わりますが、今回のロト6は全滅でした。予測の網を潜るようにはずれている。
当たりと紙一重状態。当たりをかすめるように外している。近い。

ところで、ロト6って、当たる人ってまったくの偶然に当たっているんだろうか、それとも当てようとして当たっているんだろうか。

私思うに、当たった人の多くは、当てようと思って、何年か買い続けて当たった人たちなのではないかと思っているんですよね。

たまたま思いついて買って、彗星のごとく当たった人って、いることはいるでしょうが、それは極めて少数割合なのではないかと。

マニアが当たっているんではないかと。

そう思う。思っている。

でも、ロトにおいては、例え映画「ガリレオ」の福山雅治であっても当てることはできないでしょう。

どんな天才といっても当てるのは、まずムリだと思う。

でも。私は当てます。

私独自の理論と、昔から見えないものを見ようとし努力して培ってきた勘と、あと誠意と信念とで。

今となっては当選金云々よりも、「ロトには神様がいらっしゃる」ということを証明したくてロト予想しています。

理論でロトを当てることができたなら、まさにこれはロトの出目は偶然ではなく必然、神様がいらっしゃるということになるのではないでしょうか。

無機質な玉をかき回して選ばれる出目、これがある理論で予測でき、当たるのなら、これはほんと、すごいことですよ。

それが私にはできるような気がしてならないのです。
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