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人生の終わり方

パンナコッタ、ベリーのソースを添えて。
ブラジル、グァテマラ、タンザニアのブレンド珈琲とともに。
どうぞ。



さて、題名の「人生の終わり方」について。


人生の終わりを語ることは、決して縁起のわるいことではないのです。

人、いや、生き物すべて、生まれたからには必ず命の終わりはあり、それに目をつむることはできない。

これを無視することは、例えるなら車のガソリンメーターを見ないで長距離ドライブをし続けるようなもの。

やはり、「このままでいけば、必ずあの辺りでガス欠になるな、帰りの燃料分は残しておこう」とか、「あとこれしかないから、この範囲で行けるベストの着地点はあそこだからそっちに迷わず行こう」とか、定められるし、そうすることは、安定した人生を歩むのには必要なこと。


確かに、「いままでの人生、なんとかやってこれたんだから、これからもなんとかやっていけるだろう」というのもありだろう。
その間、予想もしないいいことにぶちあたるかもしれない。
あるいは、ふつうに人生、進むことができるかもしれない。


でも私は、個人的には「あとこれだけある」「あと確実、これだけしかないのだから、その範囲で充実させよう」とか、範囲を定めて計画を立ててやっていく、人生すごしていくのが、自分にとってベストなのではないかと思う。


人生、生と死、二点を結ぶ線でできている。

二点も、直線にしたら、死はずっと先にあり見えないけど、これは直線ではなく、半島の陸、海岸線を結んだ先に死があるととらえると、「海岸線のあの位置にラッキーな体力がある部分があって、その先あの部分に病になりやすい地帯があって、じゃあその前に頑張って片付けるものを片付けて、貯蓄だな」とか、「人生の目的のメインはあそこに持っていかなければ体力的に二度とは理想形をつくることはむりだな」、とか見えるのでいいと思う。


人生の流れを空想し、確実そうなものを紙に書いて忘れないようにして、毎日のようにそれを習慣にし、人生のよりよいシナリオをつくっていく。自分の器の範囲で。

そうやっていって、人生を終わるときは、「人生で自分なりにやることはやったな」と、不完全燃焼でない形で終わりたいものだ。


そんなことを考えている。



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