このお話は、前の記事からの続きです。
さて、一人で麦をまき、水をやり、育てた麦を刈り、粉に引き、パンをこね、パンに焼いた小さい白いにわとり。
その都度、ぶたや犬やねこに、労働しませんかと尋ね、その都度、みんなから「いやだ」と言われ続けた小さい白いにわとり。
最後に、このパンだれが食べますか?と聞いたら、ぶたも犬もねこも、「食べる」と言う。
小さい白いにわとりは、そのパンを食べさせたのか否か。
みんなにどう言ったのか。
私はいまだに、この答えがわからないでいる、と前の記事に書いた。
じっさい小さい白いにわとりは、みんなにどう言ったのだろう。パンをどうしたのだろう。
これは、ウクライナの民謡からの話だということだけど、やはりこの後の話はないようだ。
想像に任せる、ということだろう。
話からすれば、その都度、みんなに話しかけたにわとり、最後も、パン、だれが食べると聞いている。
食べさせないのに聞くはずがない。
聞くからには、食べさせてもいい、という気持ちがあると思われる。
ここで「上げませんよー」と言ったら、「じゃあ聞くな」と言う感じになる。
だから筋としては小さい白いにわとり、パンをみんなに上げたのだろうと推測する。
でも。
じっさいはどうだったのだろう。
どうあればよいのだろう。
実は前回の記事、書いてから、ずーっと一晩、考えていたのです。なかなか眠られなくて。
眠っても、夢の中で頭から離れなくて。
で、行き着いた結論は、「小さい白いにわとりは、みんなにパンを分けました。」ではないのか、ということになった。
ただ上げたのではない。分けて上げたのだ。
ぶたも犬もねこも、そこに生きている、ということは、それぞれ食べるにそんなに困らず、ぬくぬくといたのではなかろうか。でなければ、にわとりが麦をまいてから、水をやり、麦を育て、パンに焼くまで生きているはずがない。
ぶた、犬、ねこらは、単にデザート感覚で、にわとりが焼くパンを、「食べてもいいよ」という程度に思っていたのではなかろうか。
いや、そこまで読まなくても、世の中、社会保障が整備されている。
生活保護制度もあるでしょう。
一生懸命働いて、税金を納め、その中から、働かない、働けない人に、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する、という憲法の条文に則り、生活保護のお金を支払っている。決して飢え死にはさせないことになっている。
だから、小さい白いにわとりは、一生懸命作ったパンを、そのまま等分には上げないまでも、健康で文化的な最低限度の生活に相当する程度の分を、分け与えたのではないのだろうか。
しかし。
じっさい、これでこの話はハッピーエンドになるのだろうか。
一生懸命働いた小さい白いにわとりの労働、焼いたパンの対価は一切入らないのだろうか。
ほんとうならば、「小さい白いにわとりは、みんなにパンを売りました。」もありなのではないか。
でもでも。
小さい白いにわとりは、自分で一生懸命作り、育て、麦の成長を見守り、育った麦を刈り、粉にひき、パンをこね、パンに焼いた、その過程を、いちばん楽しんでいたのではないのだろうか。
そして、みんなにパンを分け与え、自分でも苦労して作ったパンを、みんなで一緒に食べることで、誰よりもいちばん幸せを味わったのではないのだろうか。
これで私の一晩の空想は終わるのですが。
皆さんは、どんな結末だったと思われますか。
画像は、話とはまったく関係ありませんが冷麺です。どうぞ。