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お金は朝食に似ている

お金は朝食に似ている。


食べたい人にはたっぷり必要だ。


でも、あんまり食欲がない人には、たくさんあると無駄だ。

たくさん食べると、胸焼けや吐き気が催される。


もちろん、ここでの食欲の喩えは、お金を有効に活用できる実力をさす。

実力がないのに、たくさん食べよう、お金をたくさん持とうとするのは無意味なことだ。

食欲がない人は、ほどほどなところで「これが幸せなのだ」と思うのが幸せなのだ。




幸せ、といえば、他人の幸せをうらやんではだめだ。

幸せは、ほどほどで幸せなのだ。ちょっとの幸せを、幸せだ、と感じる気持ちが大事で、「もっと幸せが必要だ」と思うのは、わがままなのだ。


以前、誰かが、「自分の庭の手入れをしない人が、他人の庭の美しさをうらやむ資格はない。」と言っていたけど、そのときにそのことばは、私にはかなりこたえた。


たしかに、その人の置かれている現状は、たいていが自業自得なのだ。

努力をしないのに、他人をうらやむことばを口にすること自体、その資格がないのだ。

深く納得してしまって、それ以来かどうかはっきりしないけど、言ってもしようがないことばは言わないようにしている。



最近、おもしろいと思うことがなくなった。

新聞を眺めても、興味にひっかかるものがほとんどなく、さらっとすぐ眺め終わってしまう。

昔はこうではなかった。

歳だろうか。


物欲もなくなった。


興味があるのは、自分がおいしいと思う食べ物や飲み物についてのみになってしまった観がある。



画像は、そうしたものの一つ。生エビ。

生エビの刺身には、高揚感が出る。ありがたい。

ラップ現象

最初、極めて慎重に対処しないと、その後、莫大な労力を投入しなければならなくなることが、世の中にはある。


その体表的例が、クレラップとかサランラップの使い始めである。


ご承知のとおり、クレラップやサランラップの使い始めには、巻物のところに色がついたテープがくっついている。

このテープのところから、慎重に、ゆっくりと、力をあまり入れずに剥がさないと、我々は取り返しのつかない事態に突入することになる。

どこが剥がれる箇所なのか、分からなくなるのだ。

で、それを探したり、一部だけ剥がれたりしている他の剥がれ箇所を探したりするのに、莫大な時間と手間と労力と神経の磨り減らしを要するのだ。


だから、ラップの使い始めには、ばかばかしいくらいの慎重さを要するのだ。


しかし、それにしても、ラップって、一家に一つは必ずといってもいいほど存在するものですよ。

そうした、極めて広く普及しているものであるにも関わらず、使い始めにこれほどの神経と慎重さと配慮とかを要する、要しなければならないというのは、考えでみれば非常にバカバカしいことである。

世の中の大部分の人が、必ずといっていいほど使い始めにそうした気を使わなければならない商品、その過程を必ず要するという商品、その辺りが、私には腹立たしい。


人には叡知があるはずだ。

こんなことが、これからもずっとあり続ける、必要だというのは、残念だ。


これからますます、世の中は高齢化が進行する。

高齢者になると、手先や視力や微細な対処能力が衰えてくる。


そうした人々にとっても、このクレラップ、サランラップ使い始め問題は、極めて大きい問題なのである。
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