画像は肉素麺。サラッとどうぞ。
題名の汚泥の背広。
以前、森村誠一の小説、確か「鉄筋の畜舎」だったと思うけど、その中で、何か迫力のある海千山千の人物(主人公ではない)が出てきて、その人物の表現を、森村は「汚泥の中を泳いできたような」と表現していた。
この表現、私の中に印象深く刻まれていて。
「汚泥の中を泳いできた」とは表現じたいはパッと見、きたない感じがするかもしれないけれど、もしそうした人物がいたとしたら、ある意味、人間にものすごい厚みがある人物だと思うし、味方にしたらものすごく頼もしい者のようにも感じる。
私は今日も、職場で体が震えるくらい切羽詰まった対応が複数あったけど、トイレに立ち、ふと、「私は今、一種の汚泥の中を泳いでいるのかもしれないな」と思ったりしたのです。
そこで先の森村誠一の小説の中の人物のことが連想的に浮かんだということです。
いや、むしろ、「汚泥の中を泳ぐ」という表現は、私が森村から教わったのだと思う。
それがいつしか、あまりきれいでない大変な状況を経験するときの喩えとして私の中で、自然に使われるようになったのだと思われる。
汚泥の背広。
職場のユニフォームは思いっきり汚泥まみれになっても、自宅に帰るときは脱ぎ捨てよう。その経験だけを人間性の厚みに加えながら。
そう思ったりしている。