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神は乗り越えられる試練しか与えない、ということばについて。

先般、電通に東京労働局による大規模な捜査が入った、との報道があった。

三六協定を超える長時間労働の常態化という労基法違反、亡くなる人まで出たという事態に、捜査が入ったもの。

亡くなった方は若い女性。過重労働の末のじさつで、労災認定されたらしい。

かわいそうなことです。


亡くなった女性、逃げることができなかったのか、失踪する手はなかったのか、とか思うけど、それは何の責任もない考え。

当事者にしかわからない、耐えられない辛さがあったことは間違いない。




よく、巷で、神は乗り越えられる試練しか与えない、ということばを聞く。

私はこのことば、間違っていると思うのです。

今回の事例では、本人には乗り越えられなかった。
乗り越えられるのを乗り越えなかったのではなく、乗り越えられなかったのです。


世の中、病にかかり、頑張っても回復せず亡くなる方もおられる。
この場合も、病は乗り越えられない試練、といえるでしょう。

乗り越えられない試練、というのは、世の中に山ほどあるでしょう。


そうした中で、神は乗り越えられる試練しか与えない、なんて、他人に言ってはいけない。

それを言う人は、神のことを知っているのだろうか。世の中の事象を知っているのだろうか。

軽々しく、神に、試練は乗り越えられるのだ、という無知を結びつけるのは冒涜なのではないだろうか。




興奮してしまった。
画像のパフェで頭と気持ちを冷やそうか・・。
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