よるねむれないふせん
です。

「たとえば自分にとってものすごくいい話が目の前にあったとするでしょう?」
「はい」
「これ以上はないような話」
「ふうん」
「でも、相手は、ふうん…と言うばかりで首を振らないの。どうしてかしら?」
「……どうしてですかね?」
甘すぎるからかな?



〈2017年は、牡牛座の人にとって「できあがった服ではなく、ミシンや型紙をもらうような年」と言えるかもしれません。
(中略)
「ここまでは決まっているけれども、後は貴方の自由にやっていいですよ」と、その内容を託され、それによって、貴方は心からの創造的自由を楽しむことができるはずです。〉
(石井ゆかり『今週の星模様 』から「今年の星模様」より)

甘くてもおいしくても、その型紙がお砂糖のようにばらばらになってしまったらと思うと怖いんですよ。橋が石でなくお砂糖で出来ていたら、叩かないし、足を乗せるのも躊躇する。

〈You know sugar never ever was so sweet〉
(Mariah Carey「Honey」)


ホットコーヒーにお砂糖を入れたとき、底のほうに砂糖がたまってだんだん甘くなるのを感じながら、ACジャパンのCM思い出しました。(いいことは、だいたい最後のほうに起こるっていうやつです)

「何かを好きになると、必ずそれがなくなってしまう。」
(佐藤多佳子『黄色い目の魚』)

さとうさんですね。(偶然です)
昔はみのりに気持ちを重ねていたように思うけど、今になると似鳥ちゃんのところばかり読んでしまいます。
あとで出すハルチカもこれも今日、本屋さんで読み返してああ、と思ったんですが、今年は、本が読めなくなる、という状態がしばしばあったので、こうして本を読んだり読み返したりして、日記を書けるようになっただけ嬉しいことだわあと思います。生きる喜びを食ではなく本で感じるわたし。またここに戻ってきてしまった、という悲しみもありますが。

「私」がこうして考えを書いていることが、とても気持ち悪いなと思います。自分は話しても書いても関わってもいけないような気がします。
つれづれなるままにひくらし、スマホにむかひて、こころにうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなくかきつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。自分の考えはもちろん、他人の考えもいつまでも変わらず繰り返されていることが気持ち悪くてたまらないときがあります。じゃあどうして日記を書くんだろうとも思うし。
感情と言葉と行動のあいだに矛盾しているところがいくつもあります。

「穂村さんも、ぎりぎりまで悩んでごらん」
(初野晴『退出ゲーム 角川つばさ文庫版』「クロスキューブ」より)

たまたま開いたページで、草壁先生にこう言われました。いや、穂村さんではないのですが、言われた……と思ったのです。

〈だがもし、立ちどまった場所から一歩を踏み出すきっかけをだれかがつくってくれるなら……〉


話が少しそれるのですが、草壁先生のこの「穂村さんも、ぎりぎりまで悩んでごらん」って、けっこう深い発言だなあと思うんです。この物語における謎解き係って、チカではなくハルタだし、むしろ草壁先生が誰よりそうなのに、それを伝えるのにふさわしいのは草壁先生ではないってことでしょう。謎解き係と真相を伝える係はかならずしも同じではなくて、草壁先生ほど早く、隠された真意にたどり着ける人であっても心を救えないことがあるということだから。だから、優しい場面でもあるし、人間特有の残酷さがみえる場面でもありますよね。
伝える内容ではなく、伝える人に重きをおくところがあるというか。
そのことによりスポットをあてて描いているのが、『ネウロ』なんですかね。だいぶ話が寄り道してしまいました。



二ヶ月くらい前の話になるんですけど、文具屋さんに来年の手帳を買いに行ったんです。
好きなものが近くのお店にはなかったから、遠くの大きなお店まで探しにいきました。
色を選んで、お金を払って、お店を出た後で……そうか、来年も生きるつもりなんだなと一人でぼうぜんとしました。いい大人なのに恥ずかしいですね。考えていることが。