腰だろうが、腹だろうが、仙骨だろうが、身体はそもそも、これすべて「部分」なのである。
では身体をどうこうしたところで中心は、中心力は得られないのか。はい、得られないとおもいます。
肥田春充は身体をどうにかした結果中心力を得たではないか馬鹿者め、とおもわれるかもしれませんが、私は、そうはおもわない。
聖中心に至ったというときの彼の記述は
「純真なる本我において」ひたすら強健術に没頭していたとき…的な表現だったと記憶している。
純真なる本我…私はそれがそもそも中心力であったのだと感ずる。肉体や肉体意識では、チュウシンをどうこうすることなどできない。チュウシンが肉体をどうにかするのだ。
純真なる本我。これをまた肉体意識やスピリチャル知識で理解しようとしないほうがいいとおもいます。
肉体や肉体のエクササイズや肉体意識を否定しているわけではありません。肉体や肉体意識は、主人ではないというだけです。肉体や肉体意識は、部分力9の脇役であり、「観る者」なのではなく「観られるもの」なのである。