スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

編集中

明と出会ってから一年。ネックレスを受け取り、気持ちをぶつけてから半年。

空は冬の白っぽいものから、強烈すぎる原色の青に変わった。

空なんて気にしたことがなかった。雨や雪が降れば煩わしいと感じるくらいで、こんなにしみじみと時間の流れを感じる程眺めたのは、本当に幼いころ以来かもしれない。

私は変わったのだろうか。変わってしまったのだろうか。この一年ぽっちの時間で、十七年間を覆してしまったのだろうか。

「……めんどうくさ」

そう言って私は顔を空へ向けたまま瞼を閉じた。強すぎる日差しに溶かされそうな錯覚を覚えながら。 

日差しは、瞼を閉じても血の色の赤を瞳に映した。

拒んでも拒んでも駆け寄ってきて、膝を折り手を差し伸ばしてくる明の赤だと、私はそう感じた。




――――――――――――――――――――
キスより甘く、赤よりビタ−
――――――――――――――――――――




カラン。グラスの中で氷のタワーが崩れるのを、私は何となしに眺めていた。

通りから一本路地に入った場所の癖に、妙に洒落た外装と内装のカフェレストラン、Magnolia。

空調が効いていて、それでも女性の肌を冷やさない様な室温。真夏の昼間では、男性にとって快適とは言えない温度かもしれないが、この店のモットーは『女性に優しく』だと黄色い目をした女装店長はどこか自慢げに告げてきたのは、来店二回目の事だった。その店長は、先ほど総務の優男に怒られながら裏方へ引きずられて行き、繁忙の合間であるこの時間は客も店員も少ない。

開店したばかりの時間より、閉店間際の時間より、この時間帯が一番この店が静かだと私は思う。

朝は出勤前の社会人が店に寄って仕事前の一服。夜は閉店ギリギリまで酔っ払い達が騒いでいて。

私がそれを知ったのは、そう、しつこ過ぎる変な方向に根性のあるストーカーに付き纏われていた時だった。

誘われて、一度だけその男とデートした事があるのだが、期待の籠り過ぎた粘着質な目が気持ち悪くて、デートの最後にキスをせがまれて断った。そうしたら、何がどうなったのか、そいつが言うには

『僕との真実の愛に目覚めて意識して照れちゃったんだね!大丈夫、僕は待つから!君が照れ隠ししなくて良くなるまて、ねっ☆』

忘れられないほど気味が悪く、吐き気を催す発言だった。

それからそいつは私の行く場所行く場所に現れた。接触してくることはなく、一定の距離を保って、じいっと粘着質な視線を送り続ける日々が続くこと一か月。実質的な被害はなく、ただつけまわして視線を送って来るだけなので警察に行っても取り合ってくれないだろうと思い、いつも通りの生活を送りつつ、諦めてくれないかな〜、なんて軽く思っていたのだが、時間を置くごとに奴の視線はヘドロのようなものに変わり、嫌悪感が頂点に達したときにこの店にやってきたのだった。

「いらっしゃいませ」

そう淡々と迎え入れたのは、暮麻だった。同じ学校の先輩で、変人として有名だったので顔だけは知っていた。優秀で頑固で、その癖頭の中はお花畑で、奇行に走って職員室に呼び出されることが多々あったのだがその度に『自分の信念を曲げるつもりはない』と言い切り、今では何かあったら暮麻のせいか、と相手にされないことがあるほどだ、と噂されていた。

「最悪……」

そんな変人がバイトしている事は知っていたのだが、この店だとは知らなかった。

関わりたくない、と踵を返そうとして、ーー目が合った。

木製の扉の上部にはガラスののぞき窓があるのだが、そのガラス越しに奴がべったりと張り付いて目を見開いていた。

「っ……!?」

陸揚げされて三日経った魚のような目に、半身をひねった体勢のまま一歩後退る。その時になってやっと気が付いた。奴の距離が少しずつ近くなっていって、最初は車道越し程度だったのに今になっては背後に忍び寄るほどになっていたことに。

興味がなかったのは本当だが、危機感がなさすぎたことに今更後悔した。こうなってしまったら実害が出るまで時間はないだろう。

ギっと目に力を入れ、反骨精神を原動力に叩き潰そうとすると、ぽん、っと肩をたたかれた。

「その制服、同じ学校の一年生か?」

そう告げてきたのは他ならぬ暮麻だった。目線を辿ると、暮麻が注目しているのは学年指定のリボンで、そのせいで学年がバレたのだろう、と理解した。

「……何〜?私、ちょ〜っと今から用事あるから、邪魔しないで〜?」

そう言って私は暮麻の腕を払い除けた。暮麻はピクリと眉を寄せ、私と奴に目配せしてから腑に落ちたと言わんばかりの表情を見せた。

「なるほど、凡そだが理解した」

呆気カランとした言い草に、毒気を抜かれたと言うかなんと言うか。いや、馬鹿らしくて力が抜けてしまったと言うべきかもしれない。

「あれは俗に言うストーカーと言うやつか?それなら迷惑だな」

淡々と、朗読する様な言葉は何故か耳に心地よく、私は苛立った。何故変人の言葉が心地よいのか、と。

暮麻はなるほど、なるほど、と言いながらドアへと向かい、こちらが口を開く前にどういう思考回路をしているのか、奴を迎え入れやがった。

「いらっしゃれませ。お話があるのなら、どうぞ奥へ」

「はぁ!?ちょ、あんた何をやって……!」

「ん?お前を見ている限り、この男を撃退させようとしていたのだろう?ならば店の前で修羅場をされるより、店の中で修羅場をされる方が風評被害が少ない」

「はぁ!?」

意味がわからない。全く意味が分からない。面倒事だと理解しているなら、何故追い出すなり他所でやれと言うなりをしないのか。

怒りで暮麻に掴みかかろうとすれば逆に羽交い締めされて店の奥……丁度厨房の前に引きずられて行ってしまった。変人は力もおかしいようだ。まともな抵抗も出来ずもがいていると、気付けば厨房に一番近いテーブル席に座らせられていた。

はぁ、と怒りと困惑を込めた息を吐き、そっちがその気でいるなら大暴れをしてやろう。どれだけ損害が出ようとも、引き入れたのはこの店のバイトだ。そう腹を括って椅子にふんぞり返ると、暮麻は奴も引きずって来て、私の対面に座らせた。

空木が咲く前に 五十八

からんころん。下駄の音が静かな夜の街に涼やかに響く。
常の国は、意外にも静寂な夜を過ごしている人間が多いみたいだ。耳をすませば酔っ払いの怒号よりも、どこかの民家からの鼾の方が耳に入る。武家屋敷方面だから、というのもあるだろうが、それにしても静かだ。秋の虫が鳴いている音と下駄のからんころんという音が耳に心地いい。心地いいのに、それと対比するかのように胸の騒めきが大きくなってくる。
「なあ、明。静か過ぎないか?」
やや眉を顰めてそう問うと、明は背中をしならせ、目を伏せたまま少しだけいつもより高い声で返した。
「常の国は武の国だから、ってのはあると思うよ。簡単に言うと、堅物。国がどうなっても律儀に武士道守っているんだろうね」
「……それなら、自分の国の治安も気に掛けるものじゃないのか?」
「見たまま、ならね」
囁くようなその声に、俺は眉間の皺を更に深めた。
「その物言いは、まるで――」
心に呼応するかのように、手に提げていた提灯が揺れた。明が嘘やごまかしを言っているようには感じられなかった。だからこそ、不安が募る。
「うん。多分だけれど、合ってるよ、その考え。この国は、おかしい。何かが不安定だ。何かが演じている。何かが狂っている」
そう連ねる明の顔は、先ほど見たように澄ました顔だったがどこか楽しそうだった。今にも鼻歌でも歌いそうな、下駄で拍子を取っているかのようだった。
「狂っているのはどっちだか」
当てつけのつもりで囁いた言葉と、先導していた丁稚が足を止めるのは殆ど同じだった。どこか抜けたような困り眉は玄にどこか似ていて。道案内をしてくれた丁稚は、お世辞にも整った容姿をしていなかったが、その分頭はいいのだろう。武家屋敷の裏口からコンココンココンコンコン、とおそらく決まった合図をしてから「酸漿いらずですがご入用でしょうか」と淀みなく告げた。それも合図だったのだろう、裏口から少しやつれた様な中年の武骨な、正に武人といったような男が顔を出し、俺たちをじっとりと見てから僅かに口を曲げた。
「今日は子供じゃないのか?」
しゃがれた声で武人がそう問うと、丁稚は「そろそろ初物が終わるころだろう、と思い指導役を用意させて頂きました」とどこか力が抜けそうな顔で、しかしはっきり聞き取れる声で言って、武人に向かって手を出した。武人はそれを見て、困ったように顔を顰めて首の後ろを掻く。
「買ってください、後悔するような方たちではないから買ってください。そうじゃないと私帰れません」
「そう言われてもなあ……。こんなに大きな男は少し……」
もごもごと言いにくそうにしながら武人は俺たちを見た。まあ、お世辞にも少年とは言えない様な、寧ろ普通より一回りは大柄な男に金を出すことに躊躇いを覚えるのは当たり前だろう。
思うに、この武人はいつも少年を、と命じられ、その言葉通りに少年を買い、この丁稚に金を払っていたのだろう。それを数回は行っていた筈だ。その慣れが言いよどむ理由の一つでもあるのだろう。
人買いをしている事を知っている人間は少ない方がいい。金を積まれても口を割らない忠義に満ちた人間か、金を払っている内は裏切らないような人間か、任せられるのはそのどちらかだろう。
どうしたものか、どちらであっても決定権のない人間に何を言って潜り込むのか。そう思って明をちらりと見やると、明は小さく息を吐いてから、にんまりと、牡丹の花が咲き誇るかのような笑顔を浮かべて、困惑した武人に近寄りふぅ、と色気を滲ませた吐息で悲し気に笑った。
「買ってくださいまし。どうか、買ってくださいまし」
「あ、ああ?」
「わっちには興味がないのでしょうか。困りました。何をしても銭を稼がなければならないのです。どうか、どうか」
口の前に曲げた人差し指をやり、左手は胸の前でギュッと、それでいて可愛らしくこぶしを作る。一瞬、あり得ないし馬鹿げていると自分でも思うが、明が年端もいかない可愛らしい少年に見えて、自分自身が末期になったのかと思った。
しかし、明の目の前にいた武人は呆けたような、蕩けたようなだらしない顔をして胸元を漁る。明から目をそらすことなく、震える手で金を差し出した。

空木が咲く前に 五十七

「消えてしまいたい」

誰に言うでもなく口に出したその言葉に返答する者はいなかった。それは不幸中の幸いだったのかもしれない。手のひらに吐き出した白濁を乱雑に懐紙でふき取り、厠の穴に放り込んだ。

「詐欺だ。最悪だ。畜生、なんで明なんかで……」

肺一杯に吸い込んだ空気を吐き出すと、俺は乱れた着物を直し、呉服屋の裏庭にある小さな井戸で手を洗う。空はとっくに暗闇に包まれていて、月の位置で大よその時刻を図り、もう一つ溜息をついた。

時間をかけすぎてしまった。仕方ないことだとは思うが、それでも自責の念に駆られる。平たく言うと俺は今賢者状態なのだ。明の毒牙にかかり掛けた俺は、玄によって隔離された。どうすればいいか、という考えは、熱を持った自身を認識すると、もうしなければいけないことは一つしかなかったのだ。

汲み上げた井戸水を手拭いに含ませ、汗ばんだ体を軽く拭く。汗をかいている状態だと気取られる可能性が高いという建前で、僅かに残った明の香りを振りほどく、という自衛だった。

「−−六三四にどんな顔で会えばいいのだろうか」

その言葉にも、返してくれる人はいなかった。否、いなくてよかったのだ。自分だけで解決するべき事柄なのだから。

固く絞った手拭いを首に巻き、俺は再び明と玄のいる部屋に戻っていった。始めない限り、終わることは何もないのだから。

「待たせてしまい申し訳ない。では話の続きを……」

そう言いながら障子を開けると同時に、明はぱっと明るい顔で此方に振り向いた。

「あ、五六四さん! おかえりなさい!」

ぶんぶんと、犬の尻尾が見えてきそうな様子の明に、何よりも先に嫌悪感が生まれた。

「……こんなので」

「こんなので?」

「なんでもない」

こてりと首をかしげる明に、俺は眉を顰めながら視線を外した。敢えて言うならば、男の矜持が許せなかった。

俺は小さく溜息をつき、視線を玄に移す。

「それで、ええと、男娼の話だったな。基準、あるんだろう?」

そう尋ねる俺に、玄は困ったお人だ、と眉を下げた。

「明に聞きましたよ、耳の人、なんでしょう? ならはぐらかすのは得策ではないでしょうねえ。−−子供、ですよ。子供。少年とでも言うべきでしょうかねえ。雪定様はそういう奴にご執心ですよ、はい」

「うげ……」

玄の言葉に、明は大きく顔をしかめた。自分の経験から来るせいなのだろうか。

「少年愛、か。だったら俺たちがいくら着飾っても……いや、俺は着飾っても意味はないかもしれないな」

「ねえ五六四さん。なんで言い換えたの。五六四さんも可愛いよ?」

「世辞は止せ。と言うか自画自賛か?」

「自分の事は自分がよく知ってるからなあ」

ほら、俺好かれそうな感じだろう? そう言いながら明はにやりと笑った。その中にアキレアを含ませたのは、俺への当てつけなのだろうか。

俺は今日何回目になるのか分からない溜息をつくと、明の背中をバシッと叩いた。

「っい! え、何、五六四さん怒ってる?」

「怒らない、と思っているならお前は俺を買いかぶり過ぎだ。怒っているぞ、凄く。ああ、とても怒っている」

敢えて淡々と、目を合わせながらそう告げると、明はぎょっとした様子で目に見えて顔を青くした。

そんな明に少しだけの優越感を感じながら、半眼にしたまま、それで、と玄に顔を向ける。

「そんな少年愛好者な雪定様に、俺たちを何と言って売る気だ?」

「ふ、くく。面白いお方で。いや何、少年たちの初物も、もう少なくなってきましたからね、指導役として売り込もうかと。門前払いされたらそれはその時ですよ」

「指導役……まて、それではまるで」

嫌な予感をそのまま口に出すと、玄は少し困ったような顔をして、頬をかいた。

「はい、そうですよ。あなた様の考えている通りで。……私も、嫌なのですがね。帰ってきた様子はないのですよ。かと言って死体が上がっているわけでもなし。そうなると、考える事は一つしかないでしょう」

「……大よその数は?」

「私どもの所からは十程度。しかしそれだけ、とも言い切れませんねえ」

「なにそれ怖いんだけど。囲い込んで帰していない? ってことはまんま身売りじゃんか」

「まあ、そうなりますね。という事で、とびっきりの指導、やってきて下せえ」

のんびりとした玄の口調に、俺と明は目を合わせ、同時に溜息を吐いた。顔色は両者共に悪く、これからの事を思えば、偏に面倒くさいと感じた。何故俺が色事の任務に当たったのだろうか。六三四がこの仕事に当たる事より何倍もマシだが、それでも気乗りはしない。明は俺以上にそう感じているのか、虚ろな目でぶつぶつと何事かを呟いていた。

「さあさあ、せっかくおめかししたんですからねえ、行やしょうや、少年たちの花園に」

そう言いながら俺たちの背を押す玄だけが、何故か生き生きとしていて、心底鬱陶しかった。商人という者は、皆こうなのだろうか。そう考えながら、俺たちは夜の街を歩いた。

空木が咲く前に 五十六

髪に椿油を塗り、女性風の髷を作り、そこに櫛を指す。緑のトンボ玉が飾られている簪を二つ刺し、肌には白粉を、唇には紅を引く。最後は目尻に隈を入れ、手伝っていた俺は頭を抱えた。

「ん?」

朝顔のように慎ましやかに笑む目の前の『男』は控えめに言って大柄な女性にしか見えなくなっていて、俺はうめき声を上げることしか出来なくなっていた。

「ほっほ、相変わらず狐のように化けなさる。いやあ、いい金で売れそうですなあ」

そう厭らしく笑う玄の腹を思いっきり殴打したい気持ちを抑えて、畳を殴った。アキレアが進化した、どうしてくれる、という気持ちを存分に込めて。

明は、丸っきり女に見えるわけではなかった。しかし、首のしなりは女性的な雰囲気で、それでも男の太さで喉ぼとけはしっかりとあり。手のゴツゴツとした形は女性的ではなく、しかしゆったりと力を抜いている柔らかさは男性的ではなく。背中のしなりは男性的ではなく、肩幅と胸板の平坦さは女性的ではなく。つまり何が言いたいかと問われると、男性と女性の丁度中間ではない中性的な存在であるとしか言えない。

男性らしさと女性らしさの両方がいい塩梅で共存しており、しかしどちらかと言えば男性で、男娼としては及第点を優に超えていた。

ちらちらと目線をやる度に、俺は頬に熱が上がっていっている感覚を覚えた。男が好きなわけではない。だが女ではいけないというわけでもない。今までは六三四だけに覚えていた劣情が、この明を目にしては浮かぶ。そんな俺に対し、明は赤い唇をぷっくりと突き出し、眉を下げて不服そうな顔をした。

「そりゃあ両方ともお仕事だから仕方ないところはあるけど、やっぱり無理があるんじゃないかなあ」

「無理?何がだ」

冷静に努めようとするが、声が少し裏返ってしまった。そんな俺に明は扇のような睫毛を少し震わせただけで、特に何も返さず言葉を続けた。

「いや、五六四さんの方が線細いし。俺が叩き込まれたのは所作だけなんだけど」

……やめておく。お前に勝てる気がしない」

それは心からの言葉だった。ああ、確かに俺も男娼として叩き込まれているところもある。忍びとして、それは礼儀作法を叩き込まれるのと同じようなものだ。だが、ここまで劣情を掻き立てるような、無防備な姿になれる自信はとんとなかった。

「えー?出来るってー。こう、ぐりっと肩甲骨を引き寄せて、内臓の位置が変わりそうなくらい背中をしならせて、人差し指をプルプルしそうなくらい独立させてー、それから」

「益々やりたくなくなるな、それ」

女性らしさの為にそこまでする気はない、ときっぱり言うと、明はまあいいか、と唇の形を元に戻した。

「女みたいな男をご所望かどうか分からないしな。両方揃えておけばどっちか当たるでしょ。なあ玄さん。雪定さんはどっちが好みとか分かるの?」

「さあ」

のほほんと商人の顔で三つ顔の玄はそう言った。

……どういうことだ?」

「私どもとしても分からないものは分からないのですよ。分かっていれば選別の為にもう少し料金割り増しに出来るのですがねえ」

のっぺらい顔だ。商人の、手の内を見せないのっぺらい顔だ。玄は嘘はついていない。しかし隠している事はありそうだとすぐに分かった。

「じゃあ聞くが、今まで売った男娼はどんな奴だったんだ」

そう尋ねると玄は眉を八の字にしてぽりぽりと頬を掻いた。

「えー、まあここだけの話、と言ってもありきたりですがねえ、身寄りのなく金のない男を適当に勧誘していたので、特徴は様々でしたねえ」

「嘘だ」

「−−本当ですよ。赤、この御仁に何かしましたかい?店に来たばかりの時とは丸で違う」

商人の顔の中に殺し屋の目だけを入れた玄は、じっとりと明を睨んだ。だが、それがさっきの言葉に含みがあるという事を裏付けていた。明はふんわりと笑いながら、同じことをしただけだよ、と返した。

「同じこと?」

「うん、同じこと。玄さんが木蓮に誘われたとき、誰かにされたこと。五六四さんは、それが芽吹いたんだ」

「……芽吹く?」

俺はそう聞き返したが、玄は違った。一瞬で顔から血の気が引き、信じられないというむき出しの感情で此方を見やった。

「ああ、説明も何もしていなかったか。五六四さんにはさっき言ったよね、修羅場をくぐってきた人には五六四さんみたいな人が出てくる、って。でも誰でも出てくる訳じゃないんだ。梟さんも、資質はあるんだろうけどまだ芽吹かなかった。……ううん、芽吹かないほうがいいのかもしれないけど」

それは、明の独白に聞こえた。悼み、悲しみ、それでいて喜んでいるように感じる。いや、喜ぶなんて生易しいものではない。狂喜、とも言えるかもしれない。それだけ明の目は爛々と輝いていた。

「五六四さん、本当に欲しいなあ。木蓮に欲しい。玄さん、これは喜ばしい事、そうだろう?そうでなければならない。五六四さん、何が欲しい?俺たちに出来ることなら何でも用意してみるよ。六三四さんかな?お仕事だけしてくれれば六三四さんと一生優雅に暮らせるよ?おいで、ねえおいでよ」

ずりずりと畳の上を這い寄りながら、明は赤みがかった目で、強請るように俺の胸に頭を預けてきた。床を強請る遊女と同じだ。そう、分かっているのに、明から香るしっとりとした芳香に頭が揺れる。つつ、と指先で着合せの境界をなぞりながら明は視線を合わせてきて、赤茶色の瞳には狂喜があるのに、否、だからこそなのか、俺は心が揺れた。

この無邪気な笑顔をそのまま咲かせていたい。そんな気持ちと同時に、真っ黒に汚してしまいたいという感情が同時に溢れてきて、明の首裏に手を伸ばした。

温かい。

ゴツゴツとしているが、そうであるからこそ人の肌だと確信が持てる。滑らかであるからこの世のものではないような錯覚を覚える。しっとりとした肌が、まるで俺だけを誘っているかのように吸い付き、手の大きさとぴったり合っていて。


ぐらつく頭を自覚していくほどに、明は豪奢な牡丹の花のように笑顔を咲き誇らせていった。

唇が震える。吸い付きたいと、むしゃぶりつきたいと、本能が大声で叫ぶ。しかし、唇が明の首筋に当たるより早く、俺は玄によって引き倒されていた。

「駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ!それだけは駄目だ!戻れなくなっちまうぞ!」

戻れない。何に。分からない。戻れなくとも構わない。ああ、何故邪魔をするのだろうか。

「こじろーさん」

ゆったりと呼ばれるその名前に、芯が揺れる。何の、と言われれば、心にある折れてはいけない芯だろうか。今はもう、羊羹のように脆く感じる。

「あき、ら……?」

「ああ、くそ、だから赤と仕事するのは嫌なんでい!こじろう!戻ってこい!このまま傀儡になってもいいなら帰ってくるな!」

――帰ってくるな。

そう言われて、殆ど反射的に動きを止めた。自分でも言葉にすることは難しいが、やめろと言われればやりたく成るもので。ハッと我に返ると、明は不貞腐れた顔で玄さんを見ていた。

「なんで邪魔するんだよー!五六四さん引き入れれば木蓮の為になるんだよ!?」

「やり方が極端なんだよ手前は!そんなやり方じゃあ意思のない味噌っかすになることを学べ!」

「味噌っかす……。おい、明……」

非難の眼差しを明に向けると、明はうすら寒い様子でてへっと笑った。

「なあ、玄さん。俺ってそこまでやばかったのか?」

「極上にやばかったですよ。まあ、これで懲りて次は耐えて下せえ」

そう告げる玄の声は、何かを諦めたような声だった。諦めろ、とも聞こえる。

次は、きっとあるのだろう。多分、明が諦めるか、俺が受け入れるまで。

空木が咲く前に 五十五

「俺たちの仲間になってよ。ね、こじろーさん」

曇りのない琥珀色の瞳が、じっと俺を映す。それは艶々としていて、舐めれば甘そうで、人間味のない瞳だった。

「こじろーさん?」

こてり、とゆっくりとした動作で明は小首を傾げる。サラリと揺れる赤い髪の毛は赤く染めた金糸のように艶やかで。俺は改めて明が人間味のない容姿をしているのだと知った。今まで人らしかったのは、明がそう振舞っていたからであり、アキレア自身はそうではなかったのだろう。作り物の『明』を脱ぎ捨てた『アキレア』は、平坦で凹凸のあり、無臭の色香が香る、そんな存在だった。

アキレアの瞳をじっと見ていると、何故だか鼓動が早まっていく。恐怖が先に立ち、欲情がそれを追いかけ、俺の中には混乱だけが残った。

「はは、お前が身売りだけで見逃された訳が分かった気がする」

一つ例えるならば、道を歩いていてとても魅力的な石が転がっていたら人はそれを拾ってしまうだろう。そして手にしたその石が、誰も見たことのなく、それでいて価値があると誰にも思わせるような石だったら、それを胸元にしまい込んでしまうだろう。決して盗られないように。しかしそれは石ではなく人であり、意思がある。ここから出してよ、一晩だけ貴方の物にしていいから。そう言われて、断る事が出来るだろうか。明ではなく、アキレアにそう言われて。

アキレアはゆるりと瞼を閉じた。俺はそれを名残惜しくただ見ていた。

手を伸ばすのは簡単だった。アキレアを掻き抱いて、押し倒すことも実行することだけは簡単だろう。だが、六三四の事を思うだけで、俺は押し留まれた。

パチリと目を開いた目の前の人物は明に戻っており、にっこり笑うと、それまで恭し気に握っていた俺の両手を離し、うすら寒い困ったような表情で胡坐をかいた。

「まあ、そう簡単にはいかないか」

「……例えばなしだが、俺がお前に手を出していたら、強請る気だっただろう」

「うん」

あっけからんと言い放った明に、俺は大きく溜息を吐いた。

「やはり誘っていたのか。明ではなくなっていたのは釣り餌か?」

「耳の人に通じるかは正直賭けだったんだけどね。でも、失敗して良かった。益々五六四さんが欲しくなっちゃった。木蓮の事、本気で考えてみない?」

「先ほどの言葉は本気ではなかったのか?熱烈な勧誘に感じたがな」

「いやあ、色仕掛け?しちゃう位には本気だったよ」

「やめろ、薄ら寒くて仕方がない。お前の言う『耳の人』 が俺ならば、蛇足だろう」

眉を顰めながらそう言うと、明はまあそうなんだけどさ、と口をへの字に曲げた。

「作り物も、長ければそっちの方が使いやすくてなあ。よくある話だろう?元々左利きの人間が、矯正されて、淘汰されて、右利きになるんだが、右利きでいることしか許されない時期が長すぎれば左手を使うことにしっくりこないことって。まあ、俺右利きだけど」

「つまり実体験に基づいていないから確証のない例え話なんだな」

「うん。だから、暫くは明でいさせてよ」

そう懇願する明は、何故だか悲し気に見えた。嘘とか本当とか、そういう物とは別のところから感じた。分からないでもない。想像だけなら出来る。自分らしく振舞うことを禁じられた、のだろう。話を鵜呑みにするなら。自分らしくいられたのは身売りの時だけ。明自身にも、嘘と本当を使い分けられているのではないのかもしれない。

「まあ、いい。−−で、いつ戻るんだ、玄は」

「ああ。多分今頃厠で……」

「いや、言わなくともいい。把握してしまったから」

男が 厠で 長時間席を外す。となれば、男なら理由は分かってしまう。あの蕩けただらしなく気持ち悪い顔を見れは理解してしまえる。

「いやだなあ」 

呟いたその言葉は重なり、そして薄ら寒くなかった。 まあ、今はそれだけでいいだろう。
<<prev next>>