子宮が痛い
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2022/1/2 Sun 10:18
今年の初夢は(なんか自分語りしてるのでご注意です)

覚 え て な い …!!



なんてこった…( TДT)あんなに意気込んでたのに…!

わたしのスピ先生のお知り合いの談によると、生き物というものには、そのすべての命に『類魂』という本来の居場所があり、寝ている間は意識がその『類魂』たちの元へと帰って、今後の自分の宿命や課題といったものを如何に達成するべきか、類魂同士で作戦会議をしているのだそうです。
この場合の“宿命、課題”とは、生き物すべてが持つ“ハンデ”というべき因縁、それによる苦しみのことです。
この生きる苦しみをどう乗り切り、命を正しく全うするべきか、というのが、この世に出でた生き物としての絶対の宿題です(だから“自サツ”はこの宿題を途中放棄したと見做され、来世への課題の持ち越し、果ては類魂たちの連帯責任となり、根深い瑕疵となってしまうのです)。
だから睡眠とは生きとし生けるものたちにとって最も優先しなくてはならない大切な本能であり、これを疎かにすると体だけでなく、人生まで崩れていってしまう、ということらしいですね。
で、夢というのは目覚める一瞬の間に脳が見ている幻のようなものらしく、夢占いというのはあんまりあてにはならない、とのことでした。
とはいえ、見た夢の内容から当人の潜在意識はある程度推し量ることが可能だそうです。
これは“占い”というよりもどちらかというと“心理学”のほうに寄るようで、当然個人個人によって傾向が違うので型に嵌めるべきではない、というのが正しい言い方みたいですね。

以上のことを踏まえて、麦子さんが今朝見た夢は…
うっすらと、ほんの少しだけ覚えているのは、どうも母親が出てきた気がするんだよな…。
仲違いをしていたわけでもなく、なんかすごく穏やかな夢だった気がする。意外。


実は麦子さん、母親との仲が最悪です。
絶縁というわけではないけれど、赤の他人よりも遠い存在、と言えばいいかな?という感じ。。
とはいえ母親は父親とともに実家にいるし、会おうと思えばいつでも会える距離感ではあるのです。好き好んで会わない、というだけで。

母親はその生い立ちからとても精神が不安定な人で、分かりやすく言うとひどい癇癪持ちでした。
本人も自分の親からそうやって育てられてきたみたいなので(親戚などから伝え聞いても、きっとそうだったのだろうと推測できます)、おそらく母親としては、自分の親よりは立派に子どもを育ててきたという自負があるのだと思います。
駄菓子菓子。←
世間一般から見ると、どうにもその諸行が考え難い母親ではありました…。
いつどこで癇癪のスイッチが入るか分からない。
母親の機嫌を損ねようものなら、どんなにひどい仕打ちが待っているか分かったものではない。
一度怒ると、相手を心身ともに完膚なきまでに叩きのめすまで気が済まない。
殴る蹴る、罵詈雑言は当たり前。
父親とは、血を見るまで殴り合い、怒鳴り合う夫婦喧嘩が三日とおかず夜な夜な繰り広げられました。
このままでは父と母のどちらかが死んでしまうのではないかと思うほどの恐怖。最初は布団を頭から被って妹と震えながら堪えていましたが、とうとう我慢がならず、駆けつけて号泣しながらふたりの背や足に取り縋ったことも、一度や二度ではありません。
怒りに身を任せた母、ひどいときはいつも冷静であった父までもが、そういうときはわたしのことを「邪魔するな!」と邪険に振りほどきました。
両親が結婚した当時、まだまだ夫婦はお嫁さんが夫の実家に入ることが一般的でした。田舎でしたし、更にその傾向は顕著だったのでしょう。
我が家は昔、祖父が開業した小さな店舗を営んでいました。
店舗の2階に息子夫婦が居住し、少し離れた母屋には、その両親つまり、わたしの祖父母と父の妹が住んでいました。
今の2世帯住宅の走りのような形態ですね。当然わたしも妹も店舗の2階で寝起きしていましたが、お風呂や食事は祖父母と伯母のいる母屋で賄っていました。
この形態は母にとっては救い、でもその子どもにとっては、とても悪いものでした。
母親の性格から考えて、義家族との完全同居はおそらく耐え難かったことでしょう。
それでも母親には完全別居でなく、2世帯とはいえわたしたちにとっては優しい祖父母の近くで生活をしてくれたのですから、そこは感謝してもしきれません。
でもその反面、店舗の2階は、祖父母が安易には踏み込めない禁足地のようにもなってしまいました。
あんまりにも母の癇癪や夫婦喧嘩が激しいときには、祖父母も事態を危ぶんで止めに入ってきてくれたこともあるにはありましたが、それも毎度というわけではありません。
「こんなに騒いでいるのだから、ご近所の目もあるし、助けてくれたっていいのに。おじいちゃんもおばあちゃんも大人なのに」と、幼いながらに恨んだこともありました。
でも、いくら息子夫婦とはいえ、自分たちとはまた違ったひとつの家族です。
2世帯住宅ってそういうことになりがちなのかな、と今でも思うのですが、おそらく両の世帯の間で少し、隔たりのようなものが生まれがちなのでしょうね。
別居よりは近いけど、ひとつの家族とするには遠い、というんですか。
祖父母としても「今日もまた始まった。少し様子を見てみよう」というのが常習化し、段々と感覚が麻痺していったのだと思います。

そんな中で幼少期を過ごし、体には母親から受けた生傷が絶えない中。
でも目に見えて傷ついた体よりも、毎日のように浴びせられる暴言のほうが、こちらにとってはつらいものでした。
特にわたしは、母にとっては姑にあたる祖母にとても懐いていたので、愛情もあったのでしょうがそのぶん、とても憎らしかったのでしょう。
「あんたはすぐにそうやってあのババアに言いつけて」
「どうせわたしが仕事でいない間、あのババアとわたしの悪口を言っているのだろう」
「あんたは苦労ってもんを知らないから」
「妹のほうがわたしのお乳をよく飲んだ。それに比べてあんたは、わたしがどんなに飲ませようとしても嫌々して、口に含もうともしないで。妹は母乳で育ったけど、あんたは人工の乳で育ったんだよ。だから血も涙もないような子に育ったんだあんたは」
「妹のほうが可愛い」
「あんたなんか生まなきゃよかった」
「なんなのその目は。媚びるような目をして、気持ち悪いったら。あんたの大好きなあのババアのところへ行けばいいだろう。あんたなんか捨ててやる。二度と2階へ来るな」

いっぽうで、機嫌がいいときの母は、とても愛想がいい人なのです。
怒っているときとは別人なのではないか?と思うくらいに優しくて、でろでろにわたしたちを甘やかしてくれます。
そういうときの母は何を言っても許してくれたし、欲しいものをなんでも買ってくれ、美味しいものを食べさせてくれました。
そのぶん、機嫌が悪いときは何を言っても憤るし、勝手に私物を捨てられ、食事も摂らせてもらえません。
わたしは妹のほうが愛されている、と思っていましたが、妹は妹で、また姉とは違う葛藤があったようです。
やがてわたしたちは思春期を迎え、それぞれまったく違う性格へとなっていきました。
そのときになると妹は非行に走り、母はそんな妹に翻弄されていくようになりました。
比較的落ち着いていたわたしは、母親の意識が今は妹に偏っていることに安心し、気の合う友人たちと楽しい学生生活を送っていましたが、小学低学年から続く抜毛症に悩まされていました。
実は、いまだにこの抜毛症は治っていません。
妹も、自らが母親となった今でも、いまだに自傷癖があるようです。

母親を、心から憎いわけではないのです。
親子とは不思議なもので、たとえどんな仕打ちを受けても、完全には嫌いになれないようです。
でも、できれば関わりたくない存在でもあります。
わたしは自分の生活力を身に着けたとき、一番にしたことは母親から離れるということでした。
母はそうすると寂しいのか、しきりに「会いたい、会いたい」と言ってきます。
母の日や誕生日に、何度か旅行をプレゼントしたこともありました。
母親は自分が幼い頃、両親にどんなに強請っても、どこにも連れて行ってもらえなかったそうです。
そういう母の過去が不憫で、思い浮かべると小さな母が可哀想で、つい請われるがままに母の行きたいところへと連れて行ってあげたくなりました。
なんで、こんな人と結婚したのだろう。周囲の反対を押切って、駆け落ちめいたことをしでかしてまで。
なんでこんなに喧嘩ばかりして罵り合っているのに、離婚しないのだろう。父はわたしたち子どもの未来よりも、自分の寂しさや世間体やエゴを押し通したんだ。
そういう父に対する恨みもありましたが、でも、思えば父も、自分の妻に対する同情のようなものがあったのだと思うのです。
わたしと同じように、両親に虐げられてきた幼い母の姿を思い浮かべると、とても突き放すことなどできなかったのだと思うのです。
それは何を犠牲にしてでも、というよりかは、父も家庭円満を目指して若いながらに必死だったのでしょう。
もう歳もそこそこに経た、今のわたしだったらその気持ちが分かります。
とはいえ、
とは、いえ。

母と父を心から許すことが、まだできそうもないわたしも、心のどこかに確かにいるのです。

わたしは、これまで生きてきた中で、誰の一番にもなれたことがないと思っていました。
わたしはどこの誰にとっても、“そこそこ”の存在であるのです。
いなくなったとしても、きっと死んだとしたって、誰の気にも止められない。若しくはすぐにでも忘れ去られる存在なのだと思っていました。
だからいなくなりたかったのです。
この世の何処からも消えてしまいたくて、大好きだった祖母の元へいきたくて堪りませんでした。
祖母だけが、唯一わたしを「世界一可愛い。いつも頑張ってて毎日偉いね。つらいことなんでも我慢して、すごく辛抱強い子だね。とってもとっても、誰よりも可愛いよ」と言ってくれた人だったのです。それが本音だったのかどうかよりも、とにかくその言葉が本当に本当に嬉しかったのですよね。
わたしが女性に惹かれるのは、この祖母から受けた母性に、いまだに焦がれているからかもしれません。
それか、もしかしたら、母親の愛情めいたものを、今を以てしても求め探しているのかも。
わたしが薄暗くて報われない話ばかり思い浮かべてしまうのは、この世の摂理というものは、得てしてそこまで美しいものではない、と思い込んでいるからかもしれません。
人間というものは、そこまで美しくない。
というか、全然美しくない。
みんなみんなどこか狡くて、弱くて、自分の責任を何かに擦り付けてそれとなく生きているのだ。

でも、だからこそ愛おしくもあるのだ。

母が、過去のことをどう考えているのかは知りません。
彼女も年をとってさすがに丸くなっているかもしれないし(父の話を聞くとそうは思えないけれど)、自分のこれまでの言動を省みて、後悔することもあるかもしれない。
今更話し合う気は更々ありませんが、それでも親子の情みたいなものは、いまだに確かに、まだわずかばかりにあるのです。
ですが、母と綿密に関わり合うことは、おそらくもうないでしょう。
そんな母との夢を今年一番に見ました。
詳細は覚えていませんが、たぶん穏やかな内容だったと思います。

この一年で、また母との思い出が少し、そして確執や恨みも少し、薄らいでいくのでしょう。
わたしももう立派な大人。そういうものは、振りほどいていかねば。

こうやってここに書き出せたことで、徐々に解放されていけてるんだな、と実感します。
長々とした自分語りを申し訳ありませんでした。
子育てって難しいものですね。


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