子宮が痛い
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2023/3/16 Thu 00:54
【最近やたら】真面目に真面目な話をするよ【こんな気分】

某社会学者の先生がこうと嘆かれていた。
近頃の日本人は馬鹿になってきている。

皆さまおはこんばんにちは。麦子です。
やぁやぁどうも、どうもどうも。

先日の記事でまたしても腐女子の皆さまからぶん殴られそうなことを宣ったわたくしですが、反省はしてもまったく後悔はしていません。だって本当のことだもん。

まぁわたしもいわゆる“天唾”な立場なのですが、そんなわたしなんぞでもこうひしひしと肌で感じているんだから、これは相当な傾向ですよ。
日本の国力は量・質ともにかなり落ち込んでいます。
これは由々しき事態です。

というのも、これは何も麦子が、素人感覚でものを申しているわけではないのです。各界の著名な知識人たちが、昨今の日本人の馬鹿さ加減に警笛を鳴らし始めている。

まずお話ししたいのが、日本の最たる特徴として日本語の特有性があげられるということです。
日本人であるわたしたちにも自覚があると思いますが、日本語というのは実に独特な言語。
抽象的かつ難解。常に使われる単語は5000語を越え、世界的に見ても非常に珍しい言語であります。
使うときと場面で意味の変わってくる言葉があるのはどこの国にもあることですが、日本語はおそらくその数が比べ物になりません。

これは麦子個人の感覚ですが、日本語はただ単にその言葉の意味だけでなく、たったひと言で景色や状況、人の気持ちまで垣間見えることができる言語だと考えます。
例えば、麦子の大好きな詩のひとつとして、曹洞宗僧侶の良寛和尚の辞世の句があります。

『裏を見せ 表を見せて 散るもみじ』

良寛和尚の今際の際、そこに寄り添う奥方のお耳元で最後に囁かれたそうです。

この詩には、「わたしの悪い面もいい面も、すべてあなたはわたしを受け入れ愛してくれましたね。わたしももう生涯を閉じます。それこそあの散るもみじのように」という意味が込められていると解釈されているようです。
たったの17文字の中に、これだけの気持ちを込めることができる。日本の歌を詠む文化というのは、とても素晴らしいと心打たれる瞬間です。

ただ、今を生きる日本の方が、この意味を知ってどれだけ感動されるでしょうか。
わたしは思います。おそらく、「ふぅん……で?」と思われる方のほうが今は多いのではないか、と。

わたしが常々著書を拝読させていただいている某学者先生は、「昨今の日本人の馬鹿さ加減よ…」と大変嘆かれていました。
これは単純に頭が悪いということでもなければ、平均学力が落ちたということでもありません。
思考力、想像力が乏しくなってしまったという意味です。

先生は、その原因のひとつとして“インターネットの莫大な普及”を挙げられています。
今やインターネットはわたしたちの生活において欠かせません。殊一定の規模があるビジネスに関しては、インターネットとの剥離は死活問題に直結するでしょう。
企業がインターネットで収入を得る方法として、まず第一に広告収入が代表格として挙げられます。
安定した広告収入を得るためには、できるだけたくさんの人々の興味を引かなければならない。
まんべんなく興味を引くのに一番手っ取り早いのは、「シンプルで、分かりやすく、かつ、インパクトがあるもの」。
必然的に抽象的なものや繊細な表現は省かれます。“分かりやすく印象に残るもの”と、これは対極にある要素だからです。

先生はご自身でも執筆をされていますが、執筆活動をされる方というのは大抵書く量と同じくらい本を読みます。
その際にもちろん目を通す書籍を選別するわけですが、そこで先生は、奇妙な違和感を覚えることがここ最近増えたそうです。
その違和感の正体は、名作が駄作に埋もれてしまっている風潮であったそう。

どういうことなのかというと、皆さまもYouTubeなどで動画を視聴すると思いますが、広告などで宣伝されているタテコミ漫画などがありますよね。
ああいう類の、いわゆる脳になんの負荷もかからないような非現実的ストーリーが、現状需要の最先端にされてしまっているのです。
そのせいか、本当に実のある内容の作品たちが、まったく話題にならないことも多々見受けられます。
インターネット上で話題になったいる作品は、いかにもある一定の層のみに爆発的にウケそうな、ただ収益を集めるために特化した内容だと感じます(この違和感をわたしも長らく持て余していましたが、この学者先生のおかげでようやくはっきりしました)。
ただし、「こういう作品が好きだ」という人たちが決して悪いわけではない。趣味嗜好は人それぞれですし、たくさんの人が目を通す媒体で大々的に宣伝されていれば、注目を集めてもそれは当然のことです。
そうではなくて、こういうふうに世間の意識を改悪しようとしている、日本の風潮にものすごく不安を感じている、ということなのです。

日本人が培ってきた、最も素晴らしい文化。
多くを語らずとも、自然と人々の思考と想像力を働かせることができていたもの。
インパクト重視で少しでも簡素なもの、簡略したものを推し進めたあまり、これまでのこの国の良さが失われつつあると悲しくなる瞬間があります。

想像力は、思考力を育てます。
思考力は、想像力を助けます。
想像力を養うと、人は他者の気持ちを慮ることができます。
思考力を養うと、人はたくさんの可能性をひとつの物事に見出すのです。

わたしも普段は人の話を聴く仕事をしていますが、わたしから差し向けることではなく、わたしのもとに訪れる方々は皆ご自身の意思でいらっしゃいます。
「誰かに話を聞いてほしい」
ここに来るということはそうと願っているはずなのに、ここ数年“自分の気持ち、考えていることを言語化できない”人が急増しているように思います。
そういう人に口火を切る切欠を作るのも、もちろんわたしの仕事のひとつです。
でも、「話を聞いてほしい」と望んでいるのに、「何を話せばいいのか分からない」。
年齢が若い人であればあるほど、この傾向が多いような気がします。
こういう人は、むしろ普段は口達者だったりするのです。知識も情報量も豊富だし、未成年でも大人顔負けの口振りで淀みなく話します。
けれどいざ、「あなたの心は?考えは?」と聞かれると、とたんに口を閉ざしてしまう。若しくは闇雲にただ答えを羅列させるだけで、それで自分を誤魔化そうとするかのどちらかです。
心とは“抽象的”なもので、目に見えない捉えどころのないものです。だから、それを表す言葉を知らないのです。なので「分からない」になり、自分をつくろうかじっと押し黙ってしまう。

捉えどころのないもの。複雑で繊細なもの。
これらを考えることは難しいし、とても面倒です。
でも、普段はそう考えてそこに思いを巡らせることを避けている人たちが、「あなたの心なんて単純で、そう考えなくても容易く分かる」なんて言われたら、いったいどんな気持ちになるでしょう。
あなたのその気持ち、心はそんなに単純ですか?
表面に見えることだけで判断されて、それでいいとすんなり受け入れることはできるでしょうか?

別にすべての人に分かってもらえなくてもいい。
人が人を理解しようとする行為は、元よりとても得難く尊いことです。
少し前までは、この国にはこういう尊いことをしてくれる人たちがたくさんいました。
今はみるみると減っていって、その尊さが消えつつあるようにわたしは感じます。

皆さま、もっと言葉を読みましょう。
自分以外の誰かが記した文章を、なんでもいいからもっと読みましょう。
漫画でももちろん素晴らしくいいです。ただデジタルのタテコミではなく、ちゃんとした書籍でできれば読んでほしいです。

一枚一枚紙をめくり、言葉や物語を辿っていく行為。これが大切なのです。
なんでもないことだと思われるかもしれません。でもこの身体的に「読み進める」という行為が、画面越しでは得られない経験として、しっかりと体に脳に染みつくのです。

小説でもいいですし、漫画でもいい。
エッセイでも実用書でも、ビジネス書でも自己啓発書でも。
新聞もいいです。一般常用語を身に着けるには、新聞はもってこいなんです。わたしは地元紙が好きです。そこに住み知り尽くしたと思っていても、まだまだ知らない地域の顔を見ることができます。

二次創作なんて好きなものを書いて、描いて読んでなんぼ。
分かります。まったくもってそのとおりですし、本当にとてもよく分かります。
だけれども、わたしは今の二次創作界、正直あまり好きではないです。
時代の移り変わりと言ってしまえばそれまでかもしれません。でも、少なくとももう少し昔は、この界隈にも想像力豊かで人に優しい方が多かったように感じます。
今のほうが気軽でいい、という方もたくさんいらっしゃるでしょう。それはそれで確かに良い側面です。
なんでもそうですが、“程度”の問題なのです。
「簡単で面倒くさくなく、シンプルなもののほうがいい」
それもそうなのでしょう。でも、なんでもかんでもそんなことばかりでは、「それがいい」と言っている人こそ困る事態にいつかはなってしまいます。

シンプルなものは、元は複雑なものを「シンプルにした」ということです。
それはそれで誰かの試行錯誤のもと、そうなっているということを忘れてはいけません。安易なものほど裏側はぐちゃぐちゃとして、ひっくり返るのも容易かったりするのです。
そしてその影響の良し悪しは、時間が経ってからようやく分かります。それが本当に正しかったか、間違っていたのかは。
そのときに「あれは実はまずかったのだ」と後悔しても、もう遅いのです。

面倒くさい。分かります。
すぐに目に見えた結末が分からないことは、まどろっこしくて嫌だ。そのとおりです。

ただわたしは、面倒くさいことも分からないことも、それに“手間取っている”時間を楽しめるとより人生が豊かになっていくように思います。
面倒くさいことも複雑なことも、避けてもいずれは巡ってくるだけ。
そのうちやって来てしまうことなら、そのときに苦しまなくていいように、誰かを助け、助けてもらえるように、心の備えをしておく。

日本語は抽象的で分かりにくいぶん、人の心を柔軟にしてくれます。
日本語は人々の想像力、思考力を育ててくれる。
本を読めば、文章を読めば、それを書いた人の心が分かる。物語の登場人物の気持ちが分かる。分からなくても、必ずどこかに答えが載っている。
自分とはまったく違う存在の気持ち。考え。心。
これらを知ることは大切です。
普段の生活からは見えない。けれど、なんらかの文章を読めばそれが見えます。

わたしは、麦子は、時々そんなことを考えながら、炭治郎くんや義勇さんや煉獄さんを書いています。
うちのこの方たちはとても悩ましくしていることが多いけど、その葛藤から読んでくださる皆さまに、共感や共鳴を覚えてほしい。
ご存知のとおり、わたしは全然大層な人間ではないです。
でも本を読むこと、文章を象ること。人の心を垣間見る環境にいることのできている立場のひとりとして、そういうことを少しでもお届け出来たらな、とこっそり願いながら二次創作も書いています。

わたしの書くものを読むことは、面倒くさいと思います。
あまりヱロくもないですし、目をとおして「なんだ濡れ場ないのかよ」と、肩透かしを喰らった方もいるでしょう。
それでも本当にごくわずかの方が、「麦子の書く話が好きだ」と言ってくださいます。
そういう方は、わたしが常日頃考えていることを多少なりと身に感じられているのではないかな、と、わたしをほっとさせてくれるのです。

もしかしてそのうち、誰にも読まれなくなるかもしれません。二次創作なんて尚更です。
でもわたしは、ネタが尽きるまで大好きな炭治郎くんのお話を書いていきます。
その中でほんの少しでも感銘を受けてくださる方がいたとしたら、奇跡のように嬉しいです。



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