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「絆」 (ほだし) について触れた縁に逆らわず、徒然なるままに第二夜へ流されてみよう ここに 兼好法師 (吉田兼好) が書いた徒然草の中で、絆 (ほだし) について触れてある一節を載せておく 【徒然草】 ・第二十段 <古文> 某 (なにがし) とかやいひし世捨人の、『この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき』と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。 <現代語訳> なにがしとかいう世捨て人が、『この俗世に縛られるような物を持たない我が身だが、ただ空を眺めて受ける感慨だけは捨て難い』と言ったのだが、まことにもっともである。 …… ここで頭に浮かんでくるのは西行法師の詠んだ歌である * いつか我 この世の空を 隔たらむ あはれあはれと 月を思ひて 正にこれは、この世を去る際にも 月の美しさを想うであろう西行自身の心情を表している … こういう歌もある * 花に染む 心のいかで 残りけん 捨て果ててきと 思ふわが身に ※ ( 何故こんなにも桜の花に心を奪われるのだろう‥ この世を捨ててきた身のはずなのに ) ‥‥これらの歌を見るに、様々なものを断ち切って人生を歩んだ者の目に最期に映るのは美しい自然の景色‥ということか‥ その景色の向こうに見えるものは何だろう‥ 出家し、「月」と「花」を多く詠んだ西行らしい歌である 江戸時代に広まった『西行物語』の版本には、西行は 出家の際、すがりつく娘を蹴落として家を出た‥と書かれてあるらしい 西行物語は西行の生涯を忠実に記録したものではないようだが、いずれにしても 昨夜も書いたように、仏道に入る者にとっては娘もまた絆 (ほだし) であり、全ての絆 (ほだし) を断ち切るというのは 嗚咽を伴う程の苦しみがあるということだ 現代の坊主達の有様とは随分違うものだが、『出家』とは本来これほどのものだったということである 諸々に媚び諂 (へつら) い、富を得て 贅沢三昧に暮らす者もおれば、 世の無常を見て全てを捨て、己の道を研ぎ澄ますことで何かを求めんとする者もいる‥ 古から今に至るまで 何時の時代も 人とは真に面白い生き物である |