【気功の道を進んで行くと/気づき・思索/名古屋・気功教室】12月16日
昨日の《ふぁんそん教室》は、ふぁんそん感覚、気の感覚と空の体感を主にして、気功流軟酥の法や抱気静功、菩薩静功などを楽しんだ。
終わった後、みんなの話を聞いているうちに、また、気功って何だろうという疑問が起こってきた。
そして、考えてみた。
気功という体の中には、三つの違った要素が流れている。
病を回復し、元気な体になっていくのに役立つという要素、坐禅などと同じように、心の動揺を静めて、穏やかな心の状態を作ることに役立つという要素、それに、体のしなやかな動きを作り、武術やダンスなどに役立つという要素の三つである。
そして、それらのそれぞれの中に、「気を用いて」という血が入っているのだ。
この「気を用いて」という血が入っているという、それが、気功か気功でないかの違いなのだ。
そして、それら三つへの取り組みへの入り口は別々にある。
大きな洞窟があり、三つの別々の入り口から入っていくのだが、そのトンネルをどんどん進んでいくと、中は明るい一つの大きな空間になっていて、どの入り口から入っても、その空間に到達する。
そこに何があるのか。
その空間の中に上から明るい光が射し込んでいる。
見上げると、大きな穴がぽっかり空いていて、青空が見える。
夜には星空も見えるだろう。
風邪の音も小鳥たちの鳴き声も聞こえてくるし、芳しい花の香りも漂ってくる。
どの入り口から入っていっても、その明るい心地よい空間に辿り着くのだ。
なんて、宗教的な観念論みたいだが、心と体の安らぎを得られる気功って、そんな感じではないのかなと思う。
勿論、それらは人体科学、脳科学として解明されることになるだろうが。
【僕の気功の目指すところは何か/気づき・思索】12月6日
僕は何のために気功をし始めたのだろうか?
勿論、病気を治したい、弱い体を元気にしたいという思いはあった。
しかし、それよりも強く思っていたことがある。
それは、鍼灸師として「気」という訳のわからない神秘的なものを感じてみたい、触れてみたいという思いだった。
そして、気功の世界に飛び込んでからは、「気功とは何か、何をすることなのか」という問題に取り組んできた。
「気」を感じたり触れたりすることは、さほど難しい課題ではなかったのだ。
それよりももっと本質的な課題が観えて来たのだ。
それが「気功とは何か、何をすることなのか」といった気功観を見につける課題だったのだ。
そして、その問題も一定の目処が立った。
答えは実に単純だった。
気功とは「気の訓練」のことであり、「緩感貫採練(かんかんかんさいれん)」の手順に随って訓練することだったのだ。
で、いま僕が問題にしている点はそれではない。
それらの訓練の先にあるものは何かという問題なのだ。
何のために気功をするのかという根本的な問題かも知れない。
「何のために」という問題提起は、最初の動機にも当てはまるのだが、そういう入り口の問題ではない。
病気を治すとか元気になるとかといったことは、結果であって、僕の目指すところではなかったのだ。
僕の目指すところの気功的な課題は、個人として、社会人として、大きく言えば、人類としての目標なのかも知れない。
これに示唆を与えてくれる幾つかの言葉がある。
既に、何度も教えられてきた言葉だ。
●自らを光とし/自らを依り処とせよ/法を光とし/法を依り処とせよ/他を頼ることをやめよ。
※法とは真理のこと
●心静かなり/言葉穏やかなり/行ないも緩やかなり/この人こそ/正しき悟りを得/身と心の安らぎを得足る人なり。
●我が愚かさを悲しむ人あり/この人既に愚者に非ず/自らを知らずして賢しと称するは/愚中の愚なり。
●他の過ちを見るなかれ/他の作さざるを責むるなかれ/おのが何を如何に成せしかを/自らに問うべし。
これらの言葉は全て「法句経」に書かれていた言葉だ(訳した人によって多少、言葉は違うが…)。
しかし、これらの教えは、個人としての生き方や人間性の確率に限定されている。
社会人としての世の中への関わりについての教えはない。
問題はそこなのだ。
気功を通して世の中にどう関わっていくのか、いけるのかという問題なのだ。
気功もヨガも坐禅も、そのベースは同じだが、当然のことながらいずれも内的な己に働きかけ、己の精神的な価値を高めていくことはしても、他への働きかけはしない。
気を用いた治療はあるが、それは結局は個々への働きかけであって、社会への働きかけではない。
僕の目指すところの次の山の形はまだ見えてこない。