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新しい希望

【能力がないからこそ、きちんとしたものを後世に残せる気がする】


 新しい問題が生じてきた。
 それが何かということについて記してみる。

 気功を学び深めていく手順は「緩感貫採練(かんかんかんさいれん)」である。
 最初の緩(かん」、即ち放鬆法について言えば、五感や思考に用いられている動物性機能(体壁系)としての脳の活動を抑制させる為に体内感覚を体感する体性感覚を用いるという仮説の下に実践することで、体内の副交感神経優位への状態を体感することが出来るようになり、「ふぁんそんテクニック」は一定の確率を見せたと感じている。
 そして、いま、二つ目の感(かん)である意守法に取り組んでいるのだが、ここは副交感神経優位の状態の体感を脳からのフィードバックによって作りだそうとする取り組みで、副交感神経優位の状態を体感している時の脳の状態を如何に脳に記憶させていくかに掛かっているようなのだ。
 その為の訓練法は色々あるだろうし、段階もあるだろう。
 しかし、いま僕が頭に浮かんだものはそれではないのだ。
 緩感の段階、即ち、放鬆法や意守法にも、それを身に付けていく練習法、きちんとした技術論を伴う練習法が必要であったように、次からの貫気法、採気法、練丹法にも、段階を踏んだ技術論を伴う練習法が必要ではないだろうかという問題が発生したのだ。
 いまの僕は意守法の完成、即ち、気沈丹田と意守丹田のための訓練法で頭がいっぱいだが、それが終わっても、次の課題が待っているということに気づいたのである。
 これら全ては、僕もその一人なのだが「わからない」、「感じたい」という仲間たちの願いを叶えるためにはどうすれば良いかといった問題意識から出た訳で、、能力のある先生による長嶋式教授法では出て来ない問題だっただろう。 従って、僕たちが取り組んでいる細かな点まで観察しながらの練習法への模索が、後世に残る気功法を作っていくんだと思う。

 自分の能力の無さに感謝である。
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