【「ふぁんそん気功」と命名/ふぁんそん気功に思う】10月11日  

 「ふぁんそんのない気功は気功ではない。」
 確かに気功は字の如く、気の訓練のことだ。
 気の訓練と言っても、自らの感覚として気を訓練しているという感覚がなければならない。
 従って、気の訓練は気の感覚の訓練なのだ。
 気の感覚の訓練として、気功では、意守、貫気、採気、周天、練丹などの訓練法が用意されている。
 そして、そのベースとして位置づけられているのが放鬆、即ち「ふぁんそん」である。
 ベースというのは条件のことだ。
 花が咲くには花が咲くだけの条件が揃っていなければならないように、気を感じるには「ふぁんそん」という条件が不可欠なのだ。
 そして、この「ふぁんそん」と気の感覚を条件として、貫気、採気などが成り立つのだ。
 従って、『「ふぁんそん」のない気功は気功ではない』のである。
 しかし、「ふぁんそん」を伴うことなく作品としての功法の習得が目的のような「気功」や、自ら気功体操と呼んでいるように、体操が目的のような「気功」も沢山あり、そういう「気功」と明確に一線を引くために、僕(和気信一郎)は、「ふぁんそん」を条件として位置づけている気功を《ふぁんそん気功》と命名した。
 だが、これは流派ではない。
 気功としての条件を整えている本来の気功のあり方なのだ。
 「気功」という名で、気功とはほど遠い内容のものまでが「気功」として流布している現状のなかでは、本来の気功というものを明確にするためにはやむを得ない措置なのである。
 「ふぁんそん」を伴う気功が本来の気功なのだという認識が定着してくれば、「ふぁんそん」という名を外すことは当然のことだと考えている。