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疲れたときこそ笑顔でね



明けましておめでとうございます(遅)


そして数年間の放置からの記事投稿
なめてンのかって感じかもしれませんが、ちょっと個人的な都合で久々に記事を書く機会がありましたのでm(__)m

さてさて、書く内容はタイトルに記した通りなんですが…

過去の記事に書いたかどうかは、もう数年間なので覚えてないのですが、ワタクシは飲食店勤務でして、忘年会シーズンである年末は、もう忙殺とかいうレベルを越えてる域なんです。

そんな中で、これは職場の人にも言ったことですがーーーーー

『疲れた時に「疲れた」と言わない』
『疲れた時に疲れた表情を見せない』
『愚痴をこぼすな、弱音を吐くな』
『ただやるべき事をやるだけだ』



ーーーーーーと。

まぁ、飲食業界なんて基本ブラックですからね、それらを言いたくなる気持ちは充分に解る。
またそれらを言うことで、親しい人から慰めや労いを貰いたい、って気持ちも解るし、時には必要かもしれない。またそれによって活力を得られる人もいるかもしれないが、、

でも基本的には、疲れた時に「疲れた」と言っても疲れが取れるわけでは当然なく、『疲れた』という状況の根本的な解決には繋がらない。
むしろ、自分が発した「…疲れたぁ」なんて言葉で自己暗示的なものに掛かってしまって余計に疲れてくるものなんですね。
これは愚痴や不満も同じだと思います。
もちろん、愚痴や不満は本人には正当な理由だとは思いますが、やはりこれも根本的な問題の直接的な解決には繋がらないと思うのです。

精神と物質が親密にリンクしてるように、心と身体も繋がってる訳です。
能動的な力には受動的形が必要となる、これは精神的な領域も物質的な領域も同じ。
たまに、精神は崇高な領域で、俗的な物質とは縁も所縁も無いと考えちゃう人も居ますが、それは大きな過ちを犯すことになるだろう。

心が「疲れた」と折れてしまえば、身体もそれを受け入れてしまう。
これは心が能動的役割を果たし、身体が受動的な形になっちゃう例。
心が折れなければまだまだ行けますよ。

もちろん本当に肉体的限界が来ればぶっ倒れますがね、「疲れた」なんて言う暇もなく
「疲れた」と言う言葉が自分の限界を決めてるのかもしれないですね。


さて、ここまででワタクシが記載した文章は極めて「当たり前」の事しか書いてません。
これは過去の記事にも言えるでしょう。

しかし、当たり前の事って意外と出来てないんですよね。
当たり前だからあまり重要視しない。
当たり前のことより、新しい知識や技術を求めだがるものなのです。
それは人間誰もが持つ「向上心」から来るものなんでしょうが、、

しかし、このように向上心ってやつは必ずしも人間にとってプラスになるわけでわない。
地盤のしっかりしてない所に家を建てても崩れるだけ、って言葉が新訳聖書にもあったかと思うが、まぁ、足下は確りと大地に固定し高みを目指す。これで精神と物質が親密な関係である説明にもなるだろうか?


ーーーーーと、まぁ、大きく話しはずれましたが、、


疲れた時にこそ笑顔でいたほうがカッコ良くない?
まぁ、個人的な価値観ですがね。




貴方の世界

「大天使といえど、地上に降りるならば人間の姿をとらざるを得ない。」

これは西洋の神秘学者の言葉である。

短い文章ではあるが、これは我々の物理的世界と精神的世界の双方の状態と関係を見事に言い表しているように思える。



要するに、存在形式が違うのであろう。
神々の世界は我々と存在形式が違う故に認識が難しい。
ではこの現状において双方の意見が正当化される。

「認識できないのであれば、神は存在しない」

「神は存在する、しかし我々と存在形式が異なる故に認識し難い。」

神々は存在しない、物理的事象で説明できない事は存在しない。
こういう意見も確かに一理あるだろう。

しかし、我々はそれで納得出来るだろうか?
皆様方はこれまでの人生で必ず経験している。
物理的理論では説明できないあの日の出来事を。
人として生まれた以上、神秘的経験はなからずある。それを認めるか認めないかの違いであると小生は考える。


当ブログの過去の記事を読んで頂ければ解ると思うが、神を信じることが唯一の救いだとは思わない。
俺自身、それを強要されたら全力で拒むだろう。
だが我々がかつて見、経験したあの神秘的領域は否定しきれるだろうか?
ただその神秘的経験を他人の好きなように踏みにじらせてはならない。
新興宗教やスピリチュアル(笑)な方々が有り難く唱える教義に支配されてはならない。
誰もが感じているだろう。
お金があれば幸せになれる、だとか。そんな事は誰もが思ってはいないはず。
我々は生まれてきた意味を渇望しているだけである。
その先に神々の世界があるのか無いのか、それは大きな問題でも無いだろう。

ただ「知りたい」
この世界を、そして自分を。
そんな知的好奇心旺盛で、小生のような欲張りな方のために、当ブログはその入り口になり得たら幸いだと思う。

己の知的奇心や神秘を重んじる心を他人に利用されてはならない。
新興宗教やスピリチュアル(笑)の教祖様(笑)の好きにさせてはならない、と言っている。
貴方の知的好奇心は貴方だけのものである。
他人の意見は大いに参考にすべきだ。
だがそれらを好きなようにさせてはならない。


かつて我々は悪ガキの如く、知的好奇心旺盛であったが、世間の常識という名の普遍的価値観に抑圧されている現状である。
新興宗教やスピリチュアル(笑)も同じだ。
教祖様(笑)や教団の価値観に支配される事になるだろう。
あなたの神秘的探求心はあなただけのものである。

ならばあなたが育て上げねばならない。

失楽園

人は何故生きるのか?
その明確な答えを我々は未だ知らない。

我々先進国において
かつて我々の先祖は貧困の時代を、生きる事に、裕福な暮らしを目指して一生懸命に頑張った。
だから戦後の急成長を成し遂げ、我が国は世界に誇れる国となる。

だが現代、我々は生きる事に関して、懸命にならなくともある程度の食料、衣類といった日常生活に困る事は少ない。
だが、生きる目標、人生の意味を見出だせなくなった。
いや、おそらく、逆に現代人は「人間」という自分自身の問題を突き付けられたのだ。
今はそんな時代だと思う。

生きる意味、
即ち我々の「命」とは何なのか?
我々は日々の課せられた仕事や、日課に追われる毎日であるが、最終的には我々の命題である「命」の意味に繋がる。
それを理解すれば
命、生きる意味、それらは我々が我々に対して放った至上命題であることを知るだろう。
そしてこの問題は、

多くの人が、
多くの歴史を経て、
多くの議論を重ねてきた問題である。


最近の新興宗教である唯物論者は、命は肉体が滅びれば消滅、無に帰するという。

キリスト教以降の新興宗教は、命は「神の権限により無限性を保証され不滅である」という。
ただし悪し命は最後の審判に架けられ無限性は保証されないらしい。


頑なな唯物論者ならば前者
未熟な精神論者ならば後者が正しく聞こえるかもしれない。

しかし、実は両者とも同レベルである事は少なくない。


宗教論者は命は有限ではなく無限であり、肉体が滅びても永遠に不滅であるという。
しかし、それを理論で説明することが極めて困難であるために、自らの演説舞台にゲストとして「絶対者」を招かねばならない。


唯物論者の多くは無神論者であり、神やら永遠の命を否定する。
これは永遠や無限というものを根拠があって否定しているのではない
否定しうる根拠がないのである。
要するに「解らない」のだ
これはそれらの人達が無知である、というよりは対象が人間の理解の限界、そして言語の限界を越えている為にこのような問題が生じる。


過去の記事にも書いたが
我々の「認識」は「限定」によって成り立つ。

例えばAという対象の状態が我々の認識と一致した場合が真理となる。
これが一般的な考え方。
しかし、対象と我々の認識の一致は何を以て保証されているのか、と問えばそれは観測者の判断以上のものではないのである。

また我々の認識は比較対照によってのみ、対象の状態を認識出来る。

例えば目の前のボールが大きいのか小さいのか
卓球に使われる玉はバスケットボールよりも小さい
バスケットボールは大きい。
しかしこの世に自分自身とバスケットボールしか無い場合、それが大きいのか小さいのか判断することはできない。
自分の身体より小さいと言えるのかもしれないが、そもそもカテゴリー分けする必要もないだろう。
ある人が悪人である、と断定するにも、法律に対してなのか、一般常識に対してなのか、倫理的、人道主義的なのか
何と照らし合わせるのかで大きく変わってくるはずである。

実に我々の認識というものは安定が無い。

ましてや対象が、神という絶対者であり、人知を越えた存在であるならば、我々が認識出来る、と考えるのは極めて高慢であり、その存在を否定しうる材料も、少なくともこの地上には無い。
そのような対象を認識して肯定、否定が我々の認識や言語で説明出来ると考えるのがそもそも間違っている。

「こうする事が神の御心に…」など、そんな事は我々が解るはずもない。



ならば「生きる意味」は誰によって明確にされるべきか?
誰にも出来ないが、誰もが見いだすことも出来る。

実はすべての人達が知っている
「幸せになりたい」という事だ。
ただそれはあまりにも漠然として、抽象的である故に明確な答えがないのである。

聡明な読者ならお気付きなさると思うが
実は我々の思考は、複雑なものよりも「命」「生きる意味」「幸せに」といった
『人間の本質に対しての単純なる議題』
というものこそ分かりにくいようになっている。

ならば我々は認識出来ず言葉にも出来ない対象とどう向き合うのか。
それぱ皆様の命の中にこそある。
それは他人の意思ではなく
貴方の真の意思。
誰もが言葉では言い表し難い理想をもっている。
それは地上の物欲的なものではなく、誰もが持っている理想、あるいは持っていた理想。
それは我々の「認識」という不完全なフィルターを通す為に未熟だった訳であり、実は人間が本来持つ理想は極めて崇高な為、我々の認識やら言語が追い付かないのである。

無我の境地?

久々のブログ
ちょっと忙しかったり体調崩したり、辺境の地に行ったりで1ヶ月以上放置しちゃいました。

まぁ、自分自身、初心に帰るつもりでまた、グダグタと下らない文章を書いていこうかと思ってます。



――さて

精神的な世界を好む方々の中には

「無の境地」あるいは「無我の境地」といった言葉を好む方々が居る。
もちろんそれは良いことであるが
では「無」とは何なのであろうか


我々人間は必ず一度は
「無」というもに対して考える事があるだろう
宗教的視野、科学的視野
どちらでもよい。
どちらが正しい訳でもない。
ただ、どのような学術で挑もうとも、
如何に優れた表現力と、言語能力、文章力があったとしても
「無」を定義することは不可能だといえよう。

定義するという事は
ある対象に一定の枠組みを与え、限定し、有限化させる行為であり
無を定義するということは、その行為自体が対象に矛盾してしまうのである。

まず定義というもの
これは、ものを明確に認識するには便利であるが
もの自体の真相を測るには役不足になる場合がある

「卵焼き」というものを定義した場合

「卵を何らかの形で熱を加えたものである」と定義するのと

「卵を割り内容物を溶いてフライパンで熱し、固形化させたものである」
と、するのでは
後者はかなり明確であるが、その自由度を大幅に奪われてしまう。


人生や命、または宗教家が神といったものを明確に定義しようとして、いつのまにか自分の伝えたい事から大きくかけ離れてしまう、なんてことはよくあると思う。
実は我々が明確に定義できないもの、または肉体的感覚で捉えにくいものほど、実存在であり
強烈な存在なのである。
肉体的感覚で捉えやすく、明確な定義が及ぶものほど、実は仮存在であると言ってもよい。
ただし、それは精神至高主義者の言い分を保証する意味ではない
霊より物質が劣り、無価値な存在であるとの間違いを犯してはならない。
霊と物質はその存在形式が違うだけなのである。
無から有へと移行し
再び無に帰るのは、カルマであり
カルマとは果たさなければならない義務でも、強迫観念でもなく、罰を与えるものでもない。
それは単なるひとつの法則であり、特定の効果をもたらす他のすべての法則を、それぞれの因果関係での決まった在り方に沿って、誤ることなく、そしていわば盲目的に導いているにすぎないのだ。


「無我の境地」というものを好む人達の中には
そのカルマの流れに逆らってしまう人も居る
よくあるのが
自らを犠牲にして他者の為に尽くす、とか
物質的な幸福を求めず、霊的な幸福を求めなさい
など、

もちろんこれらの言葉自体は間違ってはいない。
それらの形式に自らの内から溢れ出る力が注がれているならば、それは間違いなく無我の境地なのかもしれない。

しかし
そうした行為そのものが無我の境地になることは決して無い。

無我の境地とは他人の為に尽くす事に他ならない、という姿勢ならば、それは形式主義に陥っただけであり
我を捨てきれてはいないのである。
では「無我」とは何なのか?


これはユング心理学の「ペルソナ」というものがうまく言い表していると思う。
我々は今、「自分」と認識しているものは
実は「本来的自己」ではない。

我々の人格というものは
社会との作用と反作用を繰り返し、苦悩の後にようやく手に入れた、社会に適応するための自我である。

それは
社会に、他人にこういう風に見られたいとか、自分は社会に対してこうありたい
正義や社会的価値観、常識といった強迫観念にたじろきながら、自らを守るために着けた仮面
それが「ペルソナ」であり、我々の仮の自我である。


無我とは、このペルソナという仮の自我の奥に在る
本来的自己を見いだす事である。

本来的自己とは限りなく生命本来の姿に近い。
そうした生命の力を引き出し、自らが輝く事

それが無我の境地だと思う

スピリチュアル批判A

近年のスピリチュアルブームを批判している人って結構居るんですね。
有名な占星術の方や
某大学の名誉教授とか

最近テレビ番組見ないからあまり知らなかったりします。
つかテレビ壊れてるんす


オレ自身
スピリチュアルとやらの根本的思想は否定しない。
人の思いは千差万別あっても良い。
自らが信じる学術的体系がいずれ手にする尊きものへ辿るための手段であるならば、その目的への手段は選ばなくて良いと思う。
体系という形式そのものが目的とならない限りは。

オレ自身、スピリチュアルとやらに興味は無いし、その教えとやらも必要としない。
ただ自分とは進む道が違うだけであり、否定はしないし、してはならないだろう。

ただし
その教えとやらが、言葉のみが一人歩きして、その言葉に対して妄信的になり、囚われ、世界と自身の有機的発展の妨げになる場合は批判するし、
またその教えとやらを強要されたなら、オレは一切従いはしないだろう。



さて、
世にあるスピリチュアル批判の中で
早稲田大学の名誉教授が、スピリチュアルで有名なE原氏を批判している
この中で科学的根拠に基づき「オーラ」を否定しているものがある。


要約すれば

名誉教授いわく

オーラという光は科学的に見えないという
光が肉眼で認識されるためには
たとえ懐中電灯を頭に乗せて上を照らしたとしても、そこに反射物となるような、塵や煙などがない限り、光そのものが目に入らないのである。

また、E原氏が
「赤と青のオーラが同時に見える」と言った発言に対して
これは物理学の三色の理論に反していると言う。
赤と青の色を同時に見れば違った色に見えるはずであり、分離した色に見えるならばE原氏はカラーテレビが見えないはず、だからオーラはデタラメである。…と



なるほど、確かに物理学的観点からいけば
名誉教授の言っている事は正しい

しかし我々人間は物理的次元のみに関与している訳ではない。


名誉教授は
反射物がない限り光を認識することは出来ないと言われた。
確かにその通り
これを逆手にとれば、
あらゆる物理的な事象は光を照らさなければ認識出来ない。
つまり、物理学の法則で言えば
物理的な光の無いところでは何一つ見る事は出来ない
と、いう事になる。

また、赤と青の色を同時に見ることは、物理学的法則に反している、と言われた
しかし―――



―――では我々が寝ている時に見る夢の映像はどのように説明して頂けるのであろうか?


我々は夢を見るために
物理的な光を必要としないし、また我々の夢で語られる物語のほとんどは、物理的な法則を無視しているのではなかろうか?

仮に我々の寝ている時に見る夢が、物理学の支配する物理的次元において
何の意味もない幻覚でしかないとしても
我々は確かにそれを映像として観ているのである。


それすらも否定するのであれば
名誉教授は
夢を見るときは目を開けて観ていると宣言している事になる。

先の夢の例のように、
少なくとも我々は物理学の法則に適応しない何らかの映像を視ることは可能であり、
残念ながら
先の、物理学的にオーラを批判する事は出来ないと思う。
根本的な判断基準が異なる。


他にも名誉教授はE原氏を批判している
しかし、他の批判についてはそれほど違和感は無い
もっとも、その批判は物理学に基づくものでは無く、ご自身の感情のように見えるのだが


知っている人も居るかもしれないが
27時間テレビの美容師経営の女性を霊視した件
またその後でE原氏はテレビ局に騙されたと、自身のブログで訴えたというが


別にこのオレのブログで個人を批判するのは趣旨に反するので詳しい事は書かないが。
一連の騒動に対して思った事は
E原氏は精神的な次元を語りながら、自らは
物理的な次元における地位と名声に執着していたように思える。

しかし、それは決して悪い事ではない
誰しもが肉体を持っていて
物理的な制限に縛られながら生きているため
物理的な誘惑に負けた所で、誰が批判できようか?
誰にも出来ないのである。

惜しむべきは
E原氏は、自らを
この俗世に生きる1人の人間という事実を受け入れ、世間にその立場を何らかの形で示すべきだったと思う。



たとえ全能の神とて
この物理的次元になんらかの形で顕現するならば
物理的な形式をまとわざるを得ない。
それがこの物理的次元の世界の理である。

その事さえ認める事が出来るならば
我々は物理的次元を
魂の牢獄ではなく
魂の神殿として受け入れる事が出来るだろう。

↓名誉教授の批判↓
www.j-cast.com
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