コンコン、と。
タイミングを見計らったようにその音は響いた。
「はい」
ちょうど学校の課題に取り組んでいた志乃はすぐさま返事を返し
自室のドアを開ける。
「ちょっといーい?」
にこやかな笑顔で志乃を迎えたその女性は
志乃の主である真田祐の実姉であり、兄である真人の幼馴染の真田渚だった。
渚は満面の笑みで手にしていた化粧ボックスを顔の横まで持ち上げて
志乃に尋ねる。
「またお願いしてもいい?」
疑問形ではあるがその答えに否定は許されないことを
志乃は嫌というほどよく知っていた。
同年代の女の子に比べ、志乃は化粧というものがあまり好きではなかった。
別に否定する訳ではないし、化粧をしている同級生を可愛いと思うことも
少なくなかったがどうしても自分に当て嵌めることができなかったのだ。
それは彼女が自分は闇に生きる人間なのだと認識していたからかも知れない。
それを知ってか知らずか…志乃は恐らく前者だと思っているのだが、
渚はこうやって『お化粧の練習』と称して志乃に化粧を施す機会を
度々作っていた。
化粧一つで志乃の意識が変わることはないが
周囲の身内には母親以外に同性のいない二人にとってそれは
まるで本当の姉妹となった心地のする時間で。
互いの思惑に沿わない行動だとわかっていてもそれはそれで大切な時間だった。
「高校生活はどう?」
尋ねながら渚は化粧水などで整えた志乃の顔に下地クリームを塗る。
普段日焼け止めくらいしか塗られない肌はすべすべで柔らかい。
「一日に2度も数学がなければそれなりに楽しい、かな」
「あー。数Tと数Aか。志乃ちゃん文系だもんねぇ」
下地をまんべんなく広げた後はファンデーション。
渚はリキッドファンデーションを自分の手の甲に取って
パフで少しずつ志乃の肌に乗せては広げて行く。
「数学だったら伊織に聞くといいよ。私もよくお世話になったし」
伊織とは志乃と同じ真田十勇士の一人・霧隠才蔵の名を背負う青年の名前だ。
彼は渚やの兄である真人とは同い年の幼馴染だった。
「伊織、さん、は、ちょっと…」
「苦手だって?」
「………うん」
その言葉を聞いた渚はケタケタと笑う。
それは確実に伊織を嫌う真人の策略の賜物だろうから。
伊織は口数は少ないが悪い人間ではない。
真人との関係は猫とネズミのようなものだがそれを妹である志乃に
当てはめるようなことは絶対にしない男だと渚は認識している。
むしろ…と、考えたがその先は本人の口から語られるべきことだと渚は
判断し口を噤んだ。
そうして話す間も手は止まらず、順調にベースメイクを終え
アイメイクに取り掛かる。
「じゃあ祐でいいじゃない。あれは理系文系どっちもイケた筈」
本来ならば眉の形を少し整えて書いてやるのが常だったが志乃はまだ
高校生であり、生活指導の教師が口うるさい為に渚はそれを断念する。
自分の為に志乃が叱られてしまうのは忍びなかったからだ。
代わりに渚はアイシャドウを吟味する。
ブラウン系で大人っぽく仕上げるのも捨てがたかったが
ここはやはり可愛らしさを追求しようと渚はピンク系のアイシャドウを
手にした。
「祐さんは…受験生だし、私が邪魔をするのは…」
ごにょごにょとその先ははっきりさせない志乃だったが渚にはわかった。
相手を思いやるというよりは自分を律するその言葉。
渚はにやりと笑った。
「やっぱり恋する乙女ねぇ〜」
「ちょっ!何言って…!」
「はいはいわかったから目を閉じてねー」
慌てる志乃を手慣れたように受け流す渚は何事もなかったように
眉の下に白、アイホールに薄いピンク、際に赤に近いピンクのシャドウを
乗せていく。
赤くなった今の志乃にはチークは必要ないかもしれない。
そんなことを考えながら渚は反対の目にも同じように
アイシャドウを施していった。
「主従関係は終わった」
志乃に目を開けるように告げた渚はそんな言葉を呟く。
痛かったら言ってね、と注意してからビューラーを睫毛に当てる。
ぎゅっと力を加えれば挟まれた睫毛はグッと上向きになった。
「ウチは都合上勇士の名を使わせてもらっているけど…
そこに特別な意味はない」
それは一つの真実だった。
祐は別として、志乃や伊織のように名前を継ぐ者はむしろ稀であり
何年も後継者不在の家系はいくらでもあった。
極端な話、本当に妖怪と対峙する能力と意志さえ持っていれば赤の他人だって
勇士の名前を名乗っても構わない風潮にさえある。
「だから猿飛佐助の名を志乃ちゃんが無理に名乗る必要はないし
その気持ちの抑止力になることにはなり得ないのよ?」
志乃の気持ちをよく知る渚はそう言うが…。
志乃にとってはそうではなかった。
「けれど私はこの名前のおかげで今ここにいるんです」
いわば免罪符。
これさえなければこんなにも彼の人を想うことさえなかっただろうと
志乃は考える。
そんな志乃を渚は心中で『この頑固者め』と罵った。
最後の仕上げにリップ。
血行のいい志乃の唇に対し渚はグロスだけを塗ってやることにした。
濡れた唇は艶めかしく、視線を惹きつける。
「貴女が妹に欲しいって私の気持ちは汲んでくれないのね」
困ったように微笑う渚に志乃も同じように微笑った。
「それならまずはお兄ちゃんに申し出てください」
あくまのこえ
(そう呼ぶには温かすぎるソレは)
[お題配布元:悪魔とワルツを 005. 目指す場所は遠く、深い]