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さざなみのむこう。



声を上げた。
薄紅が咲いた。
それだけのこと。
それだけのこと。

虚ろだと笑った。
何もないと泣いた。
それだけのこと。
それだけの。

ぼくがうたうこと。
きみがうたうこと。
そうしていること。
そうしていること。

どれもが正解に見えた。
どれもが不正解に見えた。
移ろっていくままに。
移ろっていくほどに。


   ○


「きみ、ねえ」
 声はさざなみのようだった。細く、心地よく、どこか怖い。
「わたしはきみといきたいの、おねがいがあるの」
 それは消えることなく寄せては返す。でも、ぼくには君が誰かわからない。ぼくにはそんな意思がない。何もない。漂っているだけ。いまは、そう、それだけのこと。
「はやくめをさまして、ねえ」
「いみなんてないの、ここでこうしていることに」
「なにもないの、ここには」
「いつまでたってもかわらない、からっぽなの」
「ねえ」
 言葉はいつしか途切れたみたいに消えた。いつ途切れたのかもわからなかった。ぼくの中にはそれを言い表すだけの思考も概念もなかった。ただぼくはそうしていた。そうしていることがさも当然といったように、ただそうしていることだけをしていた。
「きみはかえることができなかった」
 唐突に声は言った。いつかのさざなみとは違った、凪いだ声だった。
「それはしかたのないことなのかもしれない。しかたのないことではないのかもしれない。きみはかえることができなかった。きみはかえることができたのかもしれない。けれどかなしむことはない。かなしまないこともない。すべてはてんのみこころのままに。きえずにのこるさだめを」
 そこで声は一旦途切れた。
「どうか」
 それからさざなみのような声が――

 光が目に入った。その景色が眩しくてぼくは強く目を閉じた。ぼくは声を上げていた。たぶん、泣いていた。赤ん坊みたいに泣いていた。ゆっくりと抱きかかえられて体中があたたかい何かに触れた。それから、どこかから元気なおとこのこですよとこえがきこえて、こえってなんだっけ、えっと、きおく、と混在していく、けつらく、とそのなか、は、いしき、とは、ああ。ああ、いや、でも、いや、ああ、わからない。ああ。


   ○


(きみは、もう一度、やり直すことを選んだんだね)
(そうすることしかできなかったのかな)
(空の上から)
(誰かの言葉を借りて)


ざつおんのゆめ。



 わたしはいつの間にか雨の中に立っていた。服越しに水を伝う感触が、全身を包んでいた。ざあざあと耳を打つ音が強くなる。目の前には一本の木が立っている。そのすぐ側にぼろぼろになったベンチがある。視界はホワイトノイズが満ちていくように、白く、薄くなっていく。ここがどこなのか、わたしは知っている気がした。

   ○

 どこからか吹いてきた風がどこかへと通り過ぎて行く。わたしはいつもと同じ道を歩いていた。いつもと同じ道を、いつもの半分以下のスピードで、歩いている。見覚えのある道ばかりだというのに辺りをきょろきょろと見回しているものだから、周囲からは不審者に見られてもおかしくはないだろう。とはいえそこは女子高生のチカラ(制服)をもってすれば、たぶん、それと間違われることはないのだろうけれど。いろいろと弊害がありそうな気がするのはこの際考えないことにする。
 わたしはいまどこかで見た、どこかの場所を探している。てんで見当がつかないわけだけれど、何せわたしの頭の中にしかその風景はないのだから自分で探すしかない。生憎と絵の才能に恵まれた人間ではなかったのだ。
 いつも通る木村さんちの塀に、時折見かける三毛猫が寝そべっていた。どうやらわたしを見ているようである。そんなに見られても何も持っていないのでやめてほしい。わたしはいま忙しいのだ。目の前で手を開いて見せてやっても何も変わらぬ視線を向けてくるだけである。なんと可愛げがない。
「何してるの」
「にゃっ」
 突然背後から聞こえた男性の声に、思わず猫語が飛び出る。いや猫語て。一体何歳なのだわたしは……あれ、何歳だっけ。
「あれ、きみ猫なの?」
「ち、違います!」
 年齢のことに気を取られていたわたしに追い打ちのようにさらにわけのわからない言葉が飛びかかる。どうしたらそんな結論に至るのか全くもって理解できないが、そんなわけのわからない言葉を吐き出す人間はきっとイケメンに違いない。誰かの幻想が作り出した人間がそこにいるに違いない、そして、そんな妄想を繰り広げた後にある現実というのは程よい絶望感に違いない。わたしは意を決して振り向いた。
 そこには誰もいなかった。強いて言うなら白い猫がいた。辺りを見回した。誰もいなかった。家の中に人がいるわけでもなさそうだ。つまり、それは――
「ねこがしゃべった!?」
「何言ってるの、ぼくらはいつも喋ってるじゃないか。なあ」
「そうね」
 背後から女性の声がする。ということは詰まるところそういうことであろう。
「シロくんが来るまでの退屈しのぎにと思っていたけど、この子の話も聞いてみたいわね」
「ああ、なるほど。それも面白そうだね」
「そ、そんな、話なんて、わたし、無理ですけど」
「あら、無理なの?」
「なんだ、残念だね。じゃあ、ミケさん行きましょ」
 白い猫(シロくん?)はわたしに背を向けて塀に飛び乗ると生け垣の隙間に消えてった。木村さんちの塀にいた三毛猫(ミケさん?)はその後を追うようにするりと飛び降りて行ってしまった。
 二人、もとい二匹を見送った後、わたしはしばらく動けずにいた。何が何だかわからない。わたしはわたしを信じられない。果たして日常を過ごしていてこんなことがあるだろうか。あるいは、これはもはや日常ではないのだろうか。わたしはとりあえず思考することをやめた。
 どこからか風が吹き抜けていく。周りに日常の風景を感じられて、見知った道であることに感謝する。見知らぬ道であったのなら、わたしは今頃どんな顔をしていただろう。ifの世界に思いを馳せて、わたしは呼吸を整えた。
「帰ろう」
 探索というのは万全を期すものである。そしていまは万全の状態ではないのである。何せ幻覚を見たのだから、相当疲れているに違いない。帰って寝るしかないのだ。まあ別に眠いわけではないのだけれど。




 おわり(ではない)

   ○


 またやる気が出たら続きを書こうの図。

うつろにほえる


 生きていることを誰かに証明するために。君にはわかるだろうか?

   ○

「それで、君は何を望むの」
「別に。何も」
 短い会話と短い沈黙と短い呼吸と、それから唐突に吹いた風が何もかもをどうでもいいものにしていく。
「そう答えると思っていたよ。だって君には何もないからそうしている。それだけなんだろう? ぼくにはわかるよ。ぼくもそうだからね」
「何のことです」
 銃口を向けたまま、彼はぼくに向かって問いかける。空っぽの銃は何も撃たない。何もないところしか撃てない。ぼくのいる場所に、ぼくはいない。
「それ、なんでぼくに向いてるの? 君が選んだわけではないんでしょう。君はぼくと同じだ。君は権利を放棄しなかった。ぼくは放棄した。それだけのことだよ。噂は聞いているよ。君が初めてだってさ、こんなに増えてしまった存在しない存在を消して回っているのは」
「存在しない存在……?」
「そう。ああ、いや別に感知できないとかその人の記憶から存在が消えてしまうとか、そういった類のものではない。単にそれが嘘ってだけだ。存在が嘘。ここにぼくがいるのも嘘だし、そこに君がいるのも嘘。嘘っぱちだ。そういうふうに錯覚してしまう。かつては普通に存在していたんだよ。ぼくという人間も君という人間も。でもそれは消えてなくなってしまった。別のものに置換されてしまった。誰が悪いってわけでもない。彼女は捕食したに過ぎないし、弱肉強食から抜け出せないこの輪廻の中にある以上、それを否定するなんておこがましいというものだ。強いて言えば、彼女を動かしているあの男が悪いってことになるんだろうけれど、それはぼくたちにとってでしかないし、あの男にとってはぼくたちは自分を楽しませてくれる生き物でしかない。興味が無いんだ。あるいはぼくらに興味を持ってくれているのは彼女のほうなのかもしれないけれど。それもすぐに終わってしまう。君はぼくらがどうやって存在を続けているか知っているかい? 知らないんだね。いや知ったところでどうというわけではないんだけれど。ぼくらの存在できる期限は決まっている。まあ寿命みたいなものだよ。まあ生身の体がない分消えてしまっておしまいなんだけれど。その不安定な体を維持するために必要な物は何か知っているかい? そんなものは簡単だよ」
 銃口はぼくに向いたまま。なかなかどうして、流されやすいくせに強情な神経を持っているらしい。あるいはぼくの話を聞いていないのかもしれないけれど。
「同じ存在、すなわちぼくらだ」
 けれどそんなことは関係ない。ぼくは告げる。当たり前のように、当たり前の事実を告げる。
「ぼくらはぼくらの同胞を殺して、消して、その存在を取り込んでいる。長寿だといわれている者ほどそれは顕著だよ。おや、これを聞いても驚かないんだね」
「それで、あなたは、ぼくを殺して、消して、存在を取り込もうというのですね」
「そうだよ。君を消す。それから、君は終わりだ」
 銃声が響いた。

   ○

「君は終わりだ」と言いたかったのだろう、饒舌に語る少年は消え去る。消え去ってしまう。引き金を引く。撃鉄が落ちる。リボルバーがカチリと回る。これで終わりだ、これだけのことをするためだけにぼくは過ごしている。誰とも知らぬ人間――あるいは人間だったもの――を殺している。そのことに意味なんてない。彼の言うとおりだ。この世界は弱肉強食からは抜け出せない。
 役目を終えた空っぽの銃を内ポケットに仕舞いこんで、ぼくはその場所を後にする。あとには何も残らない。

   ○


(どこかの一節に変えて)
(ぼくはまだ生きています)

消え去らぬこの。



 この日がやってきた。ついに。いや、ついにとか言いつつ毎年のようにやってくるわけだけれど、いつもより少しだけこの日の前は身構えてしまう。仕方がない。「なんかこう、あれでしょ? なんだかんだ言いつつみんなやることやってんでしょ?」という空気がいたたまれない気持ちを加速させるのだ。そういった空気だとかを、面倒だと思うと同時に、羨む気持ちもある。当然だ。ぼくだって人間だし、したい。いろいろ。それはもう。いろいろ。
 だがしかし、それはいつものことだ。そして過去のこと。今年は違う。今年はなんといってもそう、彼女がいる。次元の壁が超えられない先にいる人だとか、二次元と三次元の間の存在とかではない。れっきとした、人間の、彼女だ。生まれてからこのかた、そういったお付き合いとは無縁の生活を続けていたぼくが、ついに、今年をもってして、ないものねだりの人生を離れ、手に入れた幸せである。しかもあれである。十二月の、なんかこう、皆々様のテンションが浮き足立って、浮世離れしてそのまま昇天していく、みたいな、現実離れしたこの日に、恋人がいる。その事実だけで、ぼくはついにやったんだな、という実感が湧いてくる。
 そんな幸せにまみれた十二月の終わり。世間で言うクリスマスイヴ。ぼくはといえば駅にいた。駅にいて携帯を片手に絶望していた。
「やっぱ無理」
 いつの間にか普及していた連絡用アプリ、彼女の可愛らしいアイコンから放たれた一言にぼくは絶望していた。何を伝えたいのかがわからない。いやわかる。わかりたくない。今日という日に拒絶の言葉、それの意味するところが。
「嘘だろおい……」
 とりあえず口にしてみる。現実感が増した。いつもより早めに起きて、いつもより気合の入った服を着て、いつもより余裕を持って待ち合わせ場所に行く。このリアリティ溢れる気持ちを流行りの短文投稿サイトに書き込もうとしたけれど、思った以上にダメージが大きかった。というかこういう自虐を次々に書き込める人は本当に何なんだろう。こんなの、あんまりじゃないか。昨日までの浮ついた気持ちが嘘のようだった。地に足がつく感覚とはこういうことだろうか。たぶん違うけれど。
 人の往来が絶えない駅の柱に寄りかかったまま呆けていると、ポケットにしまいこんだ携帯が振動する。もしかして、彼女だろうか。「ごめん、やっぱりさっきのなし、今から行くね」とかそういうことだろうか。少しばかりの希望で右手を動かせば、ディスプレイに表示されていたのは迷惑メールの通知だった。叫び出したい衝動に駆られる。なんだこの仕打ちは。まっとうに生きてきたはずなのに。ぼくは喉元まで出かかった怒声を飲み込んで、それから、この場所からいち早く離れようと改札を通り抜けた。待ち合わせの時間まで待っているなんてできなかった。

   ○

「十二月二十五日! クリスマスの運勢です。今日の――」
 今朝もテレビではいつもように占いが流れている。かつてはまったく興味がなかったのだが、いろいろな占いを調べては実践していた彼女の影響で少し気にするようになった。とはいえ、その彼女とも昨日連絡があったきり、音沙汰が無い。今頃何をしているんだろう。違う男の隣で寝ているのだろうか。そうであったらぼくはもう立ち直れないかもしれない。むしろすでに立ち直れない気がする。
 敷きっぱなしの布団の上でごろごろと惰眠を貪っていれば時間は過ぎていく。切り取られた時間の一区画、部屋の真ん中でぼくは動かない思考と体を持て余していた。無力感とはこんなにも突然襲ってくるものなのかと、驚き混じりにため息をつく。
「――では次のニュースです。昨晩都内のレストランで火事が――」
 つけっぱなしのテレビからは淡々とニュースが流れている。それを消すのも億劫で昨晩からほったらかしにしている。今日は休みだ。とはいえ、暇な日は何をしていたか考えてみてもなかなか思いつかない。ふと気がつけば彼女の事ばかりを考えている。はたから見れば気持ちの悪い男が部屋で横たわっているだけだ。自分で考えてそれなのだから、実際に他人が目撃したとすれば、恐らくもっと現実感に満ちた絶望なのだろう。このまま目を閉じれば、もう少し時間は過ぎてくれるだろうか。この振りきれて把握しきれなくなった感情が凪いでいくだけの時間が。
 どれだけの間そうしていただろう。ふと時計を見れば夜の七時を回っていて、今日は何もしなかったんだなあと改めて思う。癖のように携帯を覗きこめば新着メッセージが一件。
「昨日はごめん。今から会えるかな」

   ○

「来てくれてありがとう。それから昨日は本当にごめん。ずっと楽しみにしてたのにこんなことになっちゃって」
 ぼくは返事をする前に彼女がぼくを呼び出したことに対して驚いていた。まったく、何がなんだかわからない。閑散としたカフェにはぽつぽつとカップルが座っていて、皆幸せそうに笑っている。そんな中でぼくらはたぶん異様な雰囲気でそこにいた。彼女はゆっくりと、少しだけためらうような仕草を見せて、けれどしっかりとぼくを見て口を開く。
「昨日は本当に私が悪くって、君と別れたいなんてこれっぽっちも思ってないんだけれど、ああするしかなかったの。それ以外の言葉を重ねれば私と君は間違いなく仲直りして会ってしまっていたし、それだけは避けたかった。だって、昨日君と私が会っていたら間違いなく君は死んでいたし、私はそれを嘆いて自ら命を絶っていたでしょう。占いで出てるの。そうやって。嫌だったのそれが。私はまだ君と話していたかったし、君には本当に悪いことをしてしまったけれど、君も同じだったんじゃないかと思うの。ねえ、あのレストランのニュース見た? あのお店、確か予約していたところだったと思うんだけど、昨日の夜火事になっちゃったんだよ。何人も怪我したみたい。それから、空席だったテーブルの上に柱が落ちていたんだって。ね、わかった? これも占いで出ていたんだけど、よかった、本当に、行かなくて。ううん、行けなかったことを喜んでいるわけじゃないの。君とこうして話せていることにほっとしているの。これだけは、わかってほしい。私は君が大好きだし、これからもたぶんそう。だから、もう一度、仲直りしてほしい」
「占いなら、そう言ってくれればいいのに。ぼくの命を考えてくれていたというのは嬉しいけれど、それを伏せて伝える意味がわからないし、それも占いで決まっていたというのならぼくはもうそんな人とは付き合いきれないよ……」
「そっかわかった。ごめんね、そう言うのもわかってたんだけど、どうしても伝えたくて。ごめんね、ありがとう」
 彼女はそう言って申し訳なさそうに笑う。それから、彼女はそっと席を離れた。何の気なしにそれを目で追えば、店の外にいた見知らぬ男と楽しげに歩き去っていく。なんだ、ただの浮気じゃないか、波風立たぬ気持ちに自分自身少しだけ驚いて、冷めてしまったコーヒーをすする。酸味のきいた苦味に、これが大人の味かとぼんやり思う。目の覚めるようなクリスマスプレゼントだったなあと自嘲するようにつぶやけば、別に面白くもないのに案外しっくりきてしまって、もう一度コーヒーをすすった。



 おわり。

   ○

(メリークリスマス。それからそれから)
continue...

しろくろ。



「苦しいってことを誰かに伝えるためにはそれ相応の努力が必要なんだなあとは思うのだけれど、結局のところ感じ方はその人それぞれだからして、例えばぼくが感じた痛みをそのまま誰かに伝えることなんてできるはずもない。悲しいね。ぼくらは生まれながらにひとりなんだから。ねえ」
 ぽつりと雨粒が落ちるように、波紋が広がるのはぼくのこころのどの辺りだろう。声をかけた先、彼女はどこをも見ていなくて、それでもなお生き続けていることを証明するように静かに胸は上下している。
 虚空に向けて開かれた瞼は、時折思い出したように閉じて、それからまた開く。ぼくには彼女の痛みはわからないし、きっと、彼女自身にもそれはわかっていないんだろう。それをとても痛ましく思うし、そう思うぼくを傲慢だとさえ思う。
 どれだけここでこうして語りかけていても、彼女は、いつだったか公園を歩いた時のように笑ってはくれないし、いつだったか怒鳴り合いの喧嘩をした時みたいに泣くこともない。ただ、無表情のまま目を開いている。そうして、毎日を過ごしている。
 白い壁と白いカーテンと白いベッドと、それから白い肌と、が存在しているこの部屋の中で、異物のように混入するぼくはグレーのシャツを着ている。白さに満たされたこの場所に、窓から吹き込む風は少しだけ色づいている。ここは息苦しいなあ、とどうしようもなく思う。
「いつまでこんなところで寝転がっていなければならないんだろうね。色のない場所はもううんざりなんだよ。ぼくらはいつだってひとりだっていうけど、手を握るくらいはできるんだよ。ねえ」
 からりと小さな音を立てて部屋の扉が開く。「こんにちは、今日もいい天気ですね」にこやかに看護師が入ってきて、慣れた手つきで点滴を取り替える。彼女は少しだけ視線を動かして、それからまた元の場所へ戻す。
「ありがとうございます」かすれた声で呟いて、それから静かに目を閉じた。

 どれだけ過ぎ去っても、時間というのはペースを崩さない。私にはどれだけの時間が必要なのかわからない。そもそも時間が必要なのかさえ。ここで、こうしていることだけが、今の私にできることだとは思わないし、立ち上がって、元気に立ち振る舞うことができる、それも知っている。けれど、それを拒むこころも確かにある。拒んでいるのだ。確かに、ここから動き出すことを。
「どうしてこうなっちゃったのかな」
 口の中だけで呟いて、それから目を閉じる。どうして? そんなことはあいつのせいだって決まっているけれど、それを認めてしまうことがどれだけ大変なことなのか私は知っている。
 事故だった。そう言ってしまえば簡単なのだろうけれど、そのせいで、近しい人がいなくなってしまうのは、言い表せない感情に襲われる。あるいはそれは感情ではないのかもしれない。人というのは耐え難いストレスを感じてしまった時そのこころを閉ざすという。私はまさにその状態なのだろう。そうでなければ、今頃何度泣き崩れていたかわからないし、こうして静かに眠ることさえできなかっただろう。
 今日も更けていく。太陽は昇って、それから、沈む。日々というのはその繰り返しでしかない。その中で何をするのかは時代によって変わる。変わるからなんだというのだろう。いつだって人は人のために生きているし、誰かをいつも思っている。
 私はまだ彼のことを思っている。

「君はまだ気づかないのか?」
 朗々と声が響く。真っ白い部屋に存在する、違和感を塗りたくったかのような黒。その中心にいる黒い男は謳う。
「どうして気づかないのか。ここが閉じられた世界だと! 何も動かないこの場所にどうしてまだ君は居座っている? 居座っていられる? あるいは君がここに存在していることが原因なのだ。いつまでたっても変わらないこの場所に!」
「あんた、なんだ」
「君は選ばれなかった。もう君はこの場所へ戻ることはできない。それだけのことだ! それだけのことだ! まだわかっていないのか? 君はいつになったら自分に気づくのだ?」
 男は高らかに、芝居がかった口調を崩さずに、笑う。ざわざわとこころが落ち着かない。波紋の広がった心中の波は大きく跳ね返る。
「感動のさようなら、なんてものは存在しない。君は選ばれなかった。その無念をこの私が引き受けよう! けれど私は何もしない。君の言葉を受け取るだけだ。それだけだ! さようならを言うのはこの私だけだ!」
 体は動かない。思考も動かない。あるいは、それはもうしばらくの間ぼくには存在していなかったのかもしれない。すらりと伸びた黒い鎌が見えた。黒い男はそれをぼくの首にあてがってそれから、それから。

 どれだけ願っても、届かないものはあるんだなあと、ぼんやりと思って、それさえも越えていかなければならないのだと、私は私に言い聞かせる。立ち上がれるだろうか、私は。たぶん、前に進まなければならない時はくるのだろう。それまで、もう少しだけ、この場所で、彼を想っていようと、私は目を閉じた。



 おわり。


   ○

(消え去らない想いなんてないのと同じように、消えてほしくない想いだってあるんだ、と、私は)
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