スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

こんな場所で史跡?

 
 
「良い物、見たい?」

斎藤君の唐突の質問。

「見たい!」

って副長の即答に、ど〜しよっかな〜とか、見たいの?とか、もったいぶる斎藤君に副長の頭の中は『?』で一杯になる。

車を降りて、「ん、あそこ」と、軽く指で指し示した方へ歩いて行くと…

「あっ

草津を越えたら、見付けずらい」

「『沖田君、ここだ』って山南さんが
 笑いながら言うんですよね…

「そう。それがここ



新選組!でいうなら、香取近藤さんが、

草津まで行け。
 行って、山南さんに会えなかったら
 戻ってこい」

と、総司に言い、総司が馬を走らせるが、明里がだらだら花とか見たり、お腹減って団子屋に寄ったりしてっから、草津で総司に追い付かれちゃうんだよね。

この先は中山道東海道に分岐するから、見付けるのが困難になるはずだった。

山南さんのあの笑顔で総司の名を呼ぶ姿が、思い出された場所でした。


「やばい、新選組!観たくなってきたぁ」

「副長も観たくなっちゃった」

草津パーキングの車内で盛り上がる斎藤君と副長。只今、朝方6時過ぎ。副長達はこれから総司が山南さんと一緒に屯所へと戻った京都へと向かう。
なんだか複雑な気分だな、副長…。



名神高速道路・草津PA(上り)
滋賀県大津市月輪5丁目字丸防8-9

地図見ただけじゃ〜知った事にならねぇB

見えっかなぁ〜、↑写真(-д-;)

この辺り一体には、「土佐藩品川下屋敷
が広がっていたそうだぜ。

実際に敷地だった辺りに沿って、少しだけ歩いてみたが、この地図で見るよりかなりの広さがある相当でかい下屋敷だった事がうかがえた

安政の大獄に関連して、土佐の第15代藩主山内豊信(容堂)が隠居・謹慎させられて、蟄居していたのもこの下屋敷だったそう。

そして1853年(嘉永6)に黒船来航した際に、
この品川下屋敷を警備陣は宿舎として使い
、砲台に配置されていた。

その中に、当時19歳だった坂本龍馬の姿も
ありました。

んじゃ〜早速その龍馬が警備陣として駆り出され、若き日に黒船を見た場所へ…
o(`Д´)行くぜぇ

現在はそんな浜川砲台跡も完璧に埋立地。面影はあんまねぇが、すげぇ〜和む景色

殺伐とした風景な訳A

 
「…んで、迷ったら地図を見る

「副長、この近くに岩倉具視の墓がある」

「行く
 つか、松平春嶽公も同じ場所じゃん

と、その寺を目指しながら副長は考えた。
なんで雑誌に載ってないんだ?!
岩倉具視だぜ500円札にもなってんだぜ
春嶽公もいるのにどしてだぁ

平助を先頭に歩いて着いた寺は、なんか…

海晏寺

「ほんとにここ?
 何もなくない?!」

伊東さんがそう言うのも無理はない。
がらんとしていて、全くなんもない。
説明板とか貼り紙とか、何もない。

「兎に角、2人のお墓の場所を調べるぜ
 俺は春嶽公、伊東さんは岩倉をお願い」

行き止まりの柵の前で、携帯を取り出し、検索中の2人と暇そうな1人。

「あっ、副長…非公開なんだってさ

そう、ここに眠る偉人達のお墓は非公開。
その為、手を合わせる事が出来ないのだ
岩倉具視のお墓、昔は公開されていたが、
今は岩倉具視も非公開になっている。

残念だが、仕方ない。

本堂の向かって左にある、供養碑みたいな場所へ行き、手を合わせ、会えない春嶽公と岩倉へと御参りした。(↑一番上の写真)

※因みに、「長州ファイブ」って映画
知ってますかぃ松田龍平演じる人物の
山尾庸三も、ここに眠ってるそうですよ


東京都品川区南品川5ー16ー22

すげぇ〜宿屋だな@

 
高杉晋作や桂小五郎など、多くの志士達が利用した旅籠屋「相模屋」の跡がこれ。

外壁が土蔵の様な海鼠壁だったことから、「土蔵相模」と呼ばれてたそうだ。

今じゃ〜石碑しかないが、品川は宿場町で有名だからか、今でもこの通り沿いに数件宿場があんだぜ泊まってみてぇ〜な

ここでは、2つの出来事が特に有名かぁ

1862年(文久2)―――、
品川御殿山に建設中の、英国館焼き討ちの密議を、高杉晋作や久坂玄瑞がしていた。そして、12月12日に実行された。

それを遡る事2年前の、1860年(万延元)
井伊大老襲撃の中心となった水戸浪士が、最後の酒宴を行った場所といわれている。そして、3月3日に桜田門外の変がおこる。


品川区北品川1ー22ー7
京急本線北品川駅より徒歩1分

松陰先生、そんな所にA

では早速鳥居を潜り、中へと参りますか。

「涼しぃ〜

寺や神社って、木々が生い茂ってるせいか夏に来ると意外に涼しくて、真夏日に行くなら絶好の史跡巡りなんだよなぁ。

さてと、手を洗って浄めるかなぁ…って…、あら?そんな所に松陰てんてぇー

っと、それは後で説明するとして〜…ん?
松陰神社道の道標?!


旧大山道(矢倉沢往還。現在の世田谷通り)
から松陰神社に至る入口に建てられていた道標。
世田谷通りの拡幅事業の際に境内に移設。
明治45年、乃木希典公により寄進。


もう今日はどっぷり長州側の史跡巡りでも、日本の行く末を、最後の最後まで案じ、そして露と消えた吉田松陰を「松陰先生」と呼ばせて頂きますからいや、もうそう呼ばせてくだだぁいぃ(;Дゞ

では、手舎水の後ろにいる銅像の説明な。
(写真は一番上に)

明治36以降に、松浦重剛により奉納された
もので、作者は大熊氏廣


(=_=;)ぁん大熊氏廣…大熊氏廣…

(=Д=;)あ"ぁー


靖国神社にある、大村益次郎の銅像作った
人物じゃね?!(…多分だが)
確か岩崎弥太郎とかもこの人物なはず!!
この人物の名前覚えておいて損はね〜と、
副長は思うぜ(`・д・)b
前の記事へ 次の記事へ