「お兄ちゃん分が不足しとんねん」
急ぎの用があるからと呼び出したハヤテに、顔を合わせるなり咲夜は言った。
場所はビデオレンタルショップVタチバナ近くの喫茶店。学校帰りらしく、咲夜の通う女子校の制服のままである。
「意味がよく分からないのですが……」
頬に一筋の汗をたらしながら、執事服の少年は困惑した表情で、アイスコーヒーをチューと啜る少女を見た。
「いや、まんまやけど?」
「お兄ちゃん分がですか?」
「そや、お兄ちゃん分や」
「……」
「……」
「あ、こら! どこ行くんや。待たんかい!!」
暫し見つめあった後、ハヤテはサッサと伝票を持って会計へと向かった。咲夜はスクールコートと鞄を抱え、ハヤテの後を追う。
「自分、反応が淡白過ぎるで。こんな可愛い妹(分)が出来たら、普通、溺愛するもんや」
「は、反応に困る様なこと言わないで下さい!」
咲夜の誕生日の夜、『ハヤテお兄ちゃん』と呼ぶのはどうや? と聞かれた後から、時々、咲夜はハヤテを呼び出す様になった。用事は特にない。ただ、顔を会わせて、たわいもない話をする事が殆どであったが、咲夜は満足している様だった。
しかし、殆ど意味なく呼び出される立場のハヤテとしては、流石に一言、言っておくべきかと思ったのは致し方ないだろう。
「咲夜さん」
「あん?」
ハヤテの後ろを歩く咲夜は、若干不機嫌に応える。
「別に、咲夜さんとお話しするのは嫌ではありませんが、あまり意味なく呼び出すのは、ご遠慮願いませんか?」
ハヤテの言葉に咲夜は目を見張る。
「……なん……やと?」
柳眉が逆立つとは、正にこのことだろうとハヤテは思った。しかし、それでもハヤテは言葉を継ぐ。
「お屋敷の方に来て頂ければ、いつでも歓迎致しますし、お嬢さまも喜びますので……」
が、しかし、全てを言い終える前に咲夜のハリセンが一閃した。
「ハ、ハヤテ兄ちゃんのアホーーーーッ!!」
地面にめり込んだハヤテを残して、咲夜は走り去った。
††† ††† †††
あほんだら、あほんだら、あほんだら!
ほんまに、うちの気持ちも知らんと、言うに事欠いて、「お屋敷に来い」やと? そんなんしたら、お兄ちゃんなんて呼べへんやないか! まったく鈍感にも程があるで。どないしたろか、あのボケは!! ほんまに、ほんまに……
怒りに任せて駆け続け、気がつけば、咲夜は商店街の広場にいた。
夕飯の支度前のささやかなざわめきと、そろそろ帰宅時間を気にしだした子供達の声が、街の風景に溶け込んでゆく。
咲夜は、ため息を一つつき、噴水の側のベンチに腰掛け、目の前の大時計を兼ねたモニュメントをぼんやりと眺めた。
(そりゃあ、うちが勝手に言いだしたんやけどな……)
もう少しハヤテに近づきたい。けど、近づけない。そんな微妙な心理が、らしくもない、『用もないのに何度も呼び出す行為』になってしまったことを咲夜は自覚していた。
「そやけど、しゃあないやんか。お兄ちゃんなんて初めてなんやから……」
そう一人ごちて、咲夜は、オレンジ色に染まりかけた空を仰いだ。
††† ††† †††
ハヤテは執事服の埃を払い、首を捻りながら立ち上がった。流石にガン●ムの生まれ代わりと噂される三千院家執事。ほとんどダメージは受けていない。
(やれやれ……)
咲夜さんにも困ったものだなと。そう思いながらも、ハヤテは若干の違和感も覚えていた。
基本的に咲夜の聞き分けは良い。大富豪のお嬢さまである無茶振りも目立つが、本質は面倒見の良い優しい性格である。
それが理不尽とまで言える行動に出るには、理由があって然るべきである。
なんとなく、覚えのある感覚なんですが、何だったか……。古い、そう、記憶の奥隅に埋もれている様な感覚が……
ハヤテは自らの記憶の中から、何かを手繰り寄せようと苦闘するが、余りに模糊曖昧なソレは、なかなか明確な形にならない。
(うーん、もうちょっとなんですが……)
その時、ふと、ある光景がハヤテの目に止まった。と同時に、胸に微かな震えが走った。
††† ††† †††
広場の入口に見慣れた細身のシルエットが現れる。
少し長めの色素の薄い髪と、造形だけ見ると少女じみた顔の造り。だが、しなやかな足の運びは、彼の驚異的な身体能力の一端を感じさせた。
(……やっと来よったか。遅いわ、ボケ!)
ハヤテの姿を認識し、笑顔になりかけた咲夜だが、すぐに気付かぬ素振りでソッポを向いた。対してハヤテは真っ直ぐに咲夜の座るベンチへと向かう。
意地でも目を合わしてやるかと明後日の方を向く咲夜に苦笑しつつ、ハヤテは咲夜の前に立ち、暫し考えた後、咲夜の鞄とスクールコートを手に取り、ベンチに腰掛けた。
途端に、弾かれた様に咲夜の顔が逆方向を向く。
安易な懐柔には応じへんで? と暗に答えている様な咲夜の態度だが、ハヤテは特に言い訳もせずに、畳んだスクールコートと鞄を抱えて広場の光景に目をやった。
広場には、――あれは多分、兄妹なのだろう――帰宅を愚図る少女の手を引く少年や、遊びに夢中になり、帰宅時間を忘れがちな子供達を迎えにきた母親らしき人達の姿が散見され、ざわめきの中にも夕暮れ時の寂しさが感じられた。
「……」
「……」
「……なぁ」
「はい」
「自分、何か、うちに言わんといかんことあらへんか?」
暫しの沈黙の後、いい加減じれた咲夜がハヤテに言葉をかけた。
相変わらず、ハヤテと逆方向を向いているのは、何と言うか……、まぁ、意地である。
「そうですねぇ……」
視線を正面に固定したまま、要するに咲夜の方を向かぬまま、ハヤテはのんびりと答える。
「僕に兄がいたことは、お話ししましたっけ?」
兄? 確か、年の離れた行方知れずの兄貴がおると言うとったな。と、あの夜の事を思い返し、咲夜は頷く。ソッポは既に向いていない。
ハヤテは頷く咲夜を横目で見やり、それから、自分に言い聞かせる様に語りだした。
「でも、何と言うか、あんまり小さな頃の記憶が無いんですよ。だから、咲夜さんの望む、お兄ちゃん像に叶うかどうか分からないのですが……」
僅かに間をおき、ハヤテは咲夜の方を向き、そして、右手を優しく握った。
(なっ!?)
不意打ちの感触に咲夜はパニクる。
「ちょっ、まてこら! 何、勝手さらしとるんや!? そ、そんなんで、うちは懐柔されたりせん……」
「弟としての記憶しかないんですけど」
対照的に、ハヤテは自らの記憶を懐かしむ様に柔らかく微笑む。
「ただ、一緒にいてくれるだけで嬉しかった覚えがあります」
(へぇ……)
そう語るハヤテを、咲夜は不思議な面持ちで眺めた。
なんや、ハヤテの奴にも、ええ家族の思い出の一つもあるんやないか。あん時の感じは微妙やったけど。
「……そうか?」
「はい」
そう答えて、ハヤテは咲夜を見つめ、ですから――と前置きし、
「咲夜さんがいたいだけ一緒にいたいと思います」と言った。
(え!?)
「尤も、僕には執事としての仕事がありますので、それで良ければ……ですけど」
どうですか? とハヤテは尋ねる。
ハヤテの言葉に、一瞬、咲夜は呆けた表情を見せたが、それはすぐに歓喜の表情へと変化する。
「べ、別に、何かして欲しいんと違うんや。うちは、ハヤテ兄ちゃんと一緒なら……」
それだけで……
あ、あかん。幸せ過ぎる。ええんか? こんな簡単で? ハヤテが……、いや、ハヤテお兄ちゃんが、ずっと一緒にいてくれるんやで? ずうっとや。
咲夜は、とろける程の甘い感情を噛みしめた。
その言葉を聞いたハヤテは、ホッと息をつき、「じゃあ、行きましょうか」と立ち上がった。
「へ?」
「ほら、咲夜さんも」
「あ、ああ。そやな」
ハヤテは右手に咲夜のコートと鞄を抱え、左手を繋いだまま歩きだす。
ちなみに、来た道を逆行しているので、商店街を抜けることになる。
流石に、会社帰りのサラリーマンの姿はまばらなものの、タイムサービス狙いの主婦達や、部活動帰りの学生が目立つ時間帯だ。
そんな中を執事服の少年と、勝ち気そうな美少女が手を繋いで歩いているのである。
正直、人目を引いて仕方がないが、咲夜は全く気にしていなかった。
手ぇ繋いだままちゅうのは、ちょっと照れくさいけど、まぁ、ええか。なんたって、『お兄ちゃん』なんやから。
お兄ちゃんは、全てに優先する。今の咲夜の気分を代弁すると、そんな感じだった。
「ところで、ハヤテお兄ちゃん、何処行くんや?」
「とりあえず、ワタルくんの店ですね。近いですし」
確かに近いが、何でまた? と不思議がる咲夜に、
「DVDを借りにいくんですよ。なんだか、お嬢さまが急にD級映画が観たくなったらしくて」
ほら、とハヤテは携帯を胸ポケットから取り出し、メールを咲夜に見せた。よく見ると、他にも数通メールが届いている様だ。
「なんか、携帯の調子が悪くて通話が駄目みたいで、マナーモードも解除されないんですよ」
何度も呼び出されていたのに、メールが届くまで気がつきませんでしたと、ハヤテは苦笑する。
成る程、それで用事が出来たっちゅう訳かい。成る程なぁ……
――って、待たんかい!
「はい?」
咲夜の剣幕に、ハヤテは、きょとんとした表情で応える。
(それって、まさか……)
そのハヤテの表情を見た時、咲夜は全てを悟った。
『今日は』仕事があるけど、一緒におるってことかいな!?
「……」
「咲夜さん?」
突如フリーズした咲夜を、ハヤテは不思議そうに見た。
「だーーーーっ! うちの感動を返せ!! 今すぐに!! 十倍返しで!! ちゅうか、紛らわしいまねすなっ!!」
手ぇ繋ぐなんて!
いたいだけ一緒におるやなんて!!
うちはてっきり、てっきりやな……、その、なんや……
そこまで考えて、咲夜は羞恥のあまり「うがーーっ!!」と叫び、ハヤテと繋ぐ右手を振り回し喚き散らした。
「ええい、コラ! 放せ、放さんかい、ボケがぁ!!」
しかし、リーチで勝るハヤテの腕から逃れられる訳もない。
ハヤテは、「咲夜さんは我が儘ですねぇ」と笑い、
「妹と手を繋ぐのは普通じゃないですか。咲夜さんも、ご覧になったでしょ?」などと言う。
確かに見た。だが、あの少女は、どう見ても修学前児童だった。兄の方も、せいぜい小学生低学年。
「けど、十六歳と十四歳でも、八歳と五歳でも、兄妹は兄妹ですよ?」とハヤテは、したり顔で答える。
ぐうっ……。正論や、全くもって正論や! けどな、
「納得いくかーーっ!!」
咲夜の雄叫びが商店街に響き渡る、そんな夕暮れ。
ただ、長く伸びた影だけは、仲の良い兄妹の様だった。
おしまい