は、は、と荒い呼吸が響き渡る。真っ暗な自分の部屋はいつもなら寂しく思うのに、今日はなんだか落ち着くスペースのように感じられた。ばくばくと大きな音を立てている心臓が痛い。胸に手をあてて押さえ付けてみても、それがおさまることはなかった。後悔をするなど、そんな余裕は僕にはない。額から伝ってくる汗を乱暴に手で拭い去る。そうしたら不思議と眠気がやってきて、ずるずると扉の前に座り込むと、僕はゆっくり瞼をおろした。明日から僕は幸せになれるんだ。
期末テストが間近に迫っているというのに、勉強をしようなどとは思わなかった。彼に優しく笑みを向けられて、どこか二人で遊びに行かないかい、なんて言われたら誰だって勉強なんかに時間を使おうとは思わない。
強い日差しに肌が少し痛むけれど、ひんやりと冷たい彼の手がそれを打ち消してくれている気がして、僕はその手を強く握った。そうしたら彼は僕を見てはにかむ。その表情がたまらなく好きで、こんな時間が長く続けばいいと、そう思った。
「どこに行こうか」
「カヲルくんとならどこでも構わないよ」
「あまりこの辺りの地理は詳しくないんだ」
「そうなの? だったら適当に歩いて見てまわろうよ」
「そうだね」
男同士で堂々と手を繋いで歩く、なんて周囲からすればおかしいことなんだろう。でも彼が一緒だと、不思議なくらい周りの目が気にならなくなるのだ。隣を通りすぎた高校生が、カヲルくんを見て黄色い声をあげる。あの人かっこいいよね、なんて声も聞こえて正直僕は嫉妬してしまった。やっぱり、僕なんかが彼の側にいちゃいけないような気がする。彼は綺麗なのに僕は醜い。確か以前、僕は彼にそう言った。そうしたら彼は僕を叱った。僕には君以外の人なんて必要ない、と。
「シンジくん、シンジくん」
ふと呼ばれて顔をあげると、カヲルくんが一軒の花屋を指差す。こじんまりとしたかわいらしい店だ。色とりどりのたくさんの花たちが並んだそれは、遠目から見ていてもものすごく綺麗だった。
「あの花屋に寄ってみないかい」
「花、好きなの?」
「まあ、見ているのは好きかな」
育てたことはないんだけれどね、綺麗な紅の瞳が細まる。僕は頷いて、彼に手をひかれながら小さな花屋に入り込んだ。
中はびっくりするほど花、花、花……どこを見てもそればかりで、花畑に迷い込んだような錯覚がした。店員さんがいらっしゃいませ、と僕たちを笑顔で迎え入れる。昔から人見知りの僕は顔をあげることができなくて、俯いたまま彼の後ろをついていった。
するとひとつ、小さなかわいい花が目に入る。ピンクや黄色や紫など、いくつかの色が並んでいて見惚れていると、前にいたカヲルくんがそれに気付いて振り返った。
「スイートピーだね」
「え、そうなんだ」
「シンジくんは気に入ったのかい、この花」
「あ……なんだか、花びらが特徴的でかわいいなって」
軽く指先でピンクの花びらに触れてみる。淡い色合いがとても綺麗だ。この花、カヲルくんの誕生日にプレゼントしてみようかな。2ヶ月先のことをそうやって考えていると、不意に繋いでいた手が離れて、カヲルくんは店員さんのところに行ってしまった。彼の感触を失った手が戸惑ったように震える。寂しい、そう思った。だからそれを紛らわすためにスイートピーから離れて別の花を見に行く。花の名前なんてほとんど分からない。あまり花屋には来たことがないし、誰かに花をプレゼントしようと思ったこともないからだ。
彼は花が好きみたいだけれど、誰かにプレゼントしたこと、あるのかな。そう考えると憂鬱になる。僕以外の誰か、なんて考えたくないことだった。
その時、ぱっと目の前にさっき見ていたピンクのスイートピーが現れて、僕はわっと声をあげる。そして振り返ると背後には彼がいて、とくんと心臓が高鳴った。
「スイートピー、君にプレゼントするよ」
その言葉に思考回路がストップする。彼の手にある花の名前はスイートピー。それを彼が、僕にプレゼント?
「えっ、ええ! わ、悪いよっそんなの!」
「嫌かい?」
「い、や……じゃ、ないけど」
「それなら受け取ってほしい。是非、君に」
「あの、えっと、」
「だめ、かな。別の花がいいかい?」
「違うんだ、その……」
「うん」
「僕なんかがもらってもいいのかなって」
彼の手中にあるスイートピーは、さっき見たときよりも美しく見えた。それはきっと持っている人が美しいからだ。だからその花を僕が手にするのはとても恐ろしいことで、駄目にしてしまうのではないかと不安になる。
すると彼は小さく溜め息をついて僕の手をとると、無理矢理それに花を握らせる。手元の、美しく咲いたスイートピー。僕の手にうつっても、その美しさが消えることはなかった。
「君だからこそ、プレゼントしたんだ」
彼の笑顔につられ、スイートピーも笑っているような気がして嬉しくなる。だから僕は俯くのをやめて、彼に明るく笑ってみせた。そうしなければならなかった。カヲルくんも花も笑ってくれているのに、僕だけ笑わないなんて卑怯だと思うからだ。
「ありがとう、カヲルくん……本当に嬉しいよ」
「いいんだよ。シンジくんにはそういう表情が一番似合っているから、見れてよかった」
片手に花、片手に彼の手。それから花屋を出て、僕たちは手を繋いだまま外の通りに出る。またあの花屋に行こう、二人でそう約束をして僕は心をおどらせた。帰ったら絶対にこのスイートピーを部屋に飾ろう。毎日おはようって言って、毎日おやすみって言って、毎日水を変えて、それから、それから。
初めての彼からの贈り物に、僕の気分は上昇していくばかりだ。幸せは長く続かないというけれど、花はいつか枯れてしまうけれど、彼がいれば僕はいつだって幸せでいられる。
「あのね、シンジくん」
そのはずだった。
「もう僕のことを、忘れてほしいんだ」
は、は、と荒い呼吸が響き渡る。真っ暗な自分の部屋はいつもなら寂しく思うのに、今日はなんだか落ち着くスペースのように感じられた。ばくばくと大きな音を立てている心臓が痛い。胸に手をあてて押さえ付けてみても、それがおさまることはなかった。後悔をするなど、そんな余裕は僕にはない。額から伝ってくる汗を乱暴に手で拭い去る。そうしたら不思議と眠気がやってきて、ずるずると扉の前に座り込むと、僕はゆっくり瞼をおろした。明日から僕は幸せになれるんだ。
けれどおろした瞼の裏に浮かぶのはとても悲しい光景だった。でも、悪いのは父さんなんだ。父さんは裏切り者だから、だから僕の好きなカヲルくんを使徒に仕立てあげて、僕に追いうちをかけようとしたんだ。卑怯だ、本当に卑怯だ。
(もう僕のことは、忘れてほしいんだ。理由は言えないから、聞かないで。でもね、僕は君の側にいてはいけない。君と共に生きることは不可能なんだ)
大好きな彼の手を振り払って、プレゼントしてもらったスイートピーを抱きしめて。僕は走った。ただひたすらに。走って走って、そして気付いたら目の前に父さんが居た。手には花なんてなかった。代わりにあったのは包丁だった。だからそれを父さんに向けて、僕は思い切り走り込む。
あれだけ僕の目の前に立ちはだかってきたその人は、たったその一瞬で倒れ込んだ。食い込んだ刃の下からどくどくと赤黒い液体がこぼれてきて、僕は笑い声とも泣き声ともとれる声でひたすら叫んだ。
でもね、でも。僕は父さんが好きだった。心のどこかではずっと父さんのことを好きでいた。けれど、大好きな彼がいなくなるのは嫌だったから、僕はその心を殺して父さんをこの手で葬った。だから明日からは、安心してまた彼と一緒にいられるんだ。彼のことを忘れなくても、いいんだ。でも。
「僕はただの人殺しだ」
真っ暗な部屋に置いてある花は、もう既に枯れていた。溢れてくる涙は止まらなくて、やってきた眠気はどこかへ消えた。
あとどれくらいで彼は消えてしまうんだろう。僕を消してくれと哀しそうに笑っていた彼が、ひどく懐かしい。
おしまい