長野の祖母の家に滞在していました。
善光寺、松本城、開智学校、上田城、
真田神社でおみくじを引いたら凶でした
そんな感じで5日かけて見て回って、11日午前に祖母の家を出ました。
夕方には青森の友人に会い、在来線で実家に帰る予定で。
大宮で弁当を買い、一本遅い新幹線に乗車。
盛岡を出た辺りで温くなったお茶を飲み干し、新青森で乗り換える前に飲み物買おう、なんて思ったら新幹線がトンネル内で急停車。
電波も届かぬ、照明もわずかな車内。
3時間くらい経ってやっと車内の公衆電話から母に連絡が取れ、18時間半経ってトンネルを歩いて出ました。
あんなに太陽が眩しいと思ったのも素晴らしいと思ったのも初めてかもしれません。
それから携帯電話。
母、待ち合わせしていた友人や普段連絡をよこさない仙台市内在住の兄、はたまた仙台勤務の元カレなどなど。
たくさんのメールや着信。
励ます内容を母。
待ち合わせの友人からの安否確認。
兄からの1時間毎の不在着信。
大半が元カレだったのは、Mr.時刻表と私が呼ぶほど鉄道に詳しいからです。私がどれに乗るかも前日に話してたんですよ、ルート計算てつだってもらって。
トンネル内の新幹線が安全、だなんて鉄道員だから分かっていように、かなり心配してたらしいです。恥ずかしいくらいのメールがたくさんきてました。届かないのは分かっていたでしょうに。
もし長野を出るのが1時間遅かったらもっと震源近くにいたかもしれない
もし兄を訪ねるために仙台で下車していたら
もし新幹線でなく海沿いを走る在来線に乗っていたら
考えるだけで恐ろしいです。もしかしたら波に呑まれた電車に乗っていたかもしれません。自由気ままに旅する女ですから。
仙台に一年住んでいた縁で知人も多くいますし、福島にも岩手にも友人がおります。
津波で壊滅的になった街も何度か車窓から眺めた景色です。
トンネルから出て、携帯でのインターネットや避難所のテレビや新聞で被災状況を見ての絶望感、言葉にできません。
これが日本か
これが私が暮らした街か、と。
本当に偶然が重なり、私はトンネルの中という不便ではありますが安全な場所で難を逃れたようです。
公衆電話を皆で使うためにたくさん持ってる人からテレカを実費で買って、皆に与える人。受験に向かう途中のひとりの受験生を励ます人。
避難所も寒いですけど、食事はあり、水もありました。毛布何枚もキープしたり、水大量にもっていったり、ストーブ独占したりする人は嫌でしたが。
JRの方々には寝食ほか大変お世話になりました。
知らない親子には仲良くしていただき、不安を紛らわすことができましたし、仙台の実家が流されたなんて笑い事じゃないでしょうに明るく皆を笑わせてくださったおじさんがいました。
避難した地域で父が働いています。昨日は誕生日でした。避難所にいる私に忙しい中電話をくれました。
普段は甘えたり、泣き言なんか父に言いませんが、昨日は
寂しい、迎えにきてほしい
と言葉が出て、そこにいるほうが安心だから、と電話が切れたら涙が出ました。安心の涙です。緊張の糸が切れました、ぼろぼろ泣きました。
いくら頑張っても寂しいし、余震は怖かったんだと思います。
各方面に今朝バスが出て、48時間遅れて新青森駅へ。
母が出迎えてくれました。泣きそうな顔で笑って迎えてくれました。長野の祖母に電話もしました。もっと早く送り出せば良かった、と言っていたと母に聞きました。
私は今日帰ってこれましたがまだまだ被災地にはたくさんの人がいます。
たくさんの人が戦っています。
自衛隊、警察、消防、レスキュー、ボランティア、マスコミ関係、交通関係者…
たくさんの国が日本を助けてくれます。
私も何かしたいです。
ここにある両手には人の命を救う力はありません。
でも今、実家で私ができること。
とりあえず節電から始めます。
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追記は、私のトンネル内でのメモです。言葉が不明な点が多くありますが、状況が状況なので私自身読み返すとよく分かりませんが、決して楽しい状況ではありません。