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設定と報告。


パソコンから投稿しているんですが、
画像見られてますかね?(´・ω・`)
よろしければご報告ください。


とりあえずキャラについて
聞かれたので
書いていこうかなーと思い、
ばばばーっと書いていたら
最初にできたのがこれです。駄。
なぜ陸じゃないのか…、

…藍未です。

藍未はとりあえず
皆を統率できる強いキャラを、と
思ってできた子です(´・_・`)
元の話だと
陸がこのポジションで
全然メンタル弱くなかったんですけどね
何時の間にか一番精神弱めに
なっていましたね。

身長は164センチ前後(広瀬と同じくらいです)
体重は軽すぎです(広瀬もなりたいです)
髪は肩から10センチほどながめ、
セミロングってくくりで大丈夫でしょうか、
金髪です。

小食で、食に対する関心も少なめ。
というか興味が何に対しても薄め。
ちょっと人間味に欠けているところは、
結城や絆との出会いで徐々に修正の真っ最中です。常に。

ぐだぐだな雰囲気を一喝してくれるキャラとして
重宝しております( *`ω´)



※サイト改装中のご報告※

仮トップ:ぐっだぐだの青葉兄妹を現在置いています
キリ番:凍結しました。ここまでのリクで書けるところ書いていきます。
アンケート:感謝感謝の30万ヒット目前ですのでアンケート&キリリクでいただいたネタはすべて消化したいです、頑張りますので、拍手・アンケートからじゃんじゃんお願いします。書ける限界だと思った途端にアンケートを一時止めますね!


短編作品:多数削除致しました。消したくないのまで勢い余って消しましたが心機一転頑張ります!




--
長編作品:これからメスを入れますが(笑)一人称だったり三人称だったり、誰が喋ってんだよ、みたいなぐったぐたなので、だいぶ文章自体が変わるかと。

昔の作品で藍未の陸に対する愛称が変なのは直したいです。藍未以外でも結構あるので直します。 







明日は男の子書きたいですね~~(*´∀`*)
陸か絆か結城か涼かモブをっ( *`ω´)

サイトの整頓作業。


お久しぶりです。広瀬にのです。
夜遅くに失礼致します。

だいぶ更新をサボっておりました。
申し訳ございません。

しばらく2次創作などしておりましたら、
1次創作ってどうしたら

楽しくなるんだろうと悶々と
スランプに陥っておりました。 

また、昨年の秋、

祖父が天国に旅立ちました。
サイトを長い間見ていて下さった方などは
ご存じかもしれませんが、私の戦争観には
祖父の影響がものすごかったのです。
そのため、
未だにぽかんと、
ああ、じいちゃんもういないんだなーとか
結婚式見せられなんだ…、とか
考えつつも、

あーサイト、書かなきゃ、
ちゃんと自分なりの平和なオチを

書かなきゃ、書かなきゃ、と

考えて、また悩んで、の繰り返しで。


とりあえず去年の春ごろに言っていた
サイトの整理を始めることにしました。
しばらく慌ただしいことになりますが
ご理解ください。


ファンタジー色の強い部分やら
自分的に納得できない文章は
削除させていただいて、
書き直しなども含めて、

改めて文章を書いていこうかなーと
思います。

うちの子たちを
よく見てくださっていて
アンケートでコメントを下さる皆様の
意見から掻い摘んで
書く練習を再開しようかな、と。


現在九州に在住ですが、
春から一年ほど近畿のほうに
移住しますので、
現在引っ越し作業にどったんばったんしておりますが、
その合間の時間を使ってこつこつ書いていこうかと


思います(/・ω・)/


陸の身長、髪型が知りたい、等の意見にも
お答えできればと思います。
キャラの設定、下手絵でよろしければ
あげますが、
そんな感じでよろしいでしょうか

「こんなんじゃない!!!」と落胆されるのが
怖いので、
今まで描かずにいたのですが(笑)

それでもいいのよ、と仰るのであれば
ぜひ長く読んでくださってる少数の素敵な読者様たちの
ご希望にはできるだけこたえたいです(笑)


のんびりだらだら、
もう少しお付き合いいただければと思います。
よろしくお願いします。以上、近況でした!!

知覧からの手紙


昨日は枕崎、今日は知覧に
行きました。
現在3日目、旅も明日で
終わります。

誕生日を今月末に控え、
この年齢で最後の旅に
鹿児島を選んだ私は、

相変わらずの強行軍で
食事らしい食事は
ありません。

それでは知覧の報告です。

まず10時頃、知覧に着き
特攻平和会館に行きました

莫大な遺品遺書遺影を前に

ツアー客の団体様
小学生の校外学習もあり

がやがやわいわい、

あんなに賑やかなのは
どこの史料館でも初めてです

途中館員の方が遺書なんかを
解説していて、
途中から聞いたんですが
どうやら当時特攻隊員と直接触れ合った小学生だった方のようでした。

飛燕 疾風 震洋 と
海中から引き揚げられた
零戦の前方半分

近代はじめのほうからの
軍服 軍刀等の展示もあったりして

新しい知識や隊員の方のエピソードも知ることができたのは大きな収穫でした。

遺影に
ご遺族を探しています、や
細かな住所が書かれていたりして
時代が流れすぎた、ということを痛感しました。

それからさらりと
ミュージアム知覧を見まして
私は雨の中ホタル館を目指しました

道のりは2キロほどです

こちらもまた涙なしでは
見られませんで
トメさんが実際に見た若者たちのエピソード。
何度も読んだエピソードの数々ですが改めて知覧の、それも復元とはいえ富屋食堂で読めた私は幸せ者です。
自分の反対を押し切り、特攻を決意した旦那様に対して子供二人と荒川へ投身自殺した奥様がいるという話は初耳でして、「私たちがいると心残りでしょう、先に逝っています」という遺書。それが良かったとも悪かったとも言えませんが、先に死なれて生きていく自信がない、それほど愛していたのだと理解したいです。

それから武家屋敷群を見学し
再び平和会館のある平和公園に戻りまして

マンゴージュースを飲みながら
絵葉書をかきました。
知覧からの手紙。穴沢さんに肖りまして。

祖父と友人にです。

死を目の前にした遺書を
何十何百と見た後では
何を書いていいものやら……

祖父にはただ一言

本土最南端の特攻の町 知覧より
と書きました。
友人には
来てよかった、という感想を
書き上げてポストに投函しました。

それから公園周辺にあった
貯水層やら何やら史跡を
ちらりと見てバスの時間になり

知覧の旅は終わったわけですが


まだまだ史跡は見足りないです
まだまだたくさんありました
見れなかったのが心残り
いずれまた行きたいと思います。



それから平和会館のある遺書に

明日死にます
21歳の少年?も一緒です
何故か俺に懐いた
可愛い奴です
死ぬときも一緒です

といったような遺書がありました
22歳の方です。

この二人が恋愛関係だなんて断言できませんし、違う可能性のが高いと思います。
それでもそれを死の直前に誰かに伝えたいほど大切な間柄であったことは確かだと思います。
酒巻さんが真珠湾の時に甲標的の中で「恋人のような時を過ごした」といっていたように、
腕を骨折していながら何がなんでも一緒に散りたい仲間がいたように

それが親友の間柄か恋人に近いものだったかなんて分かりませんが
死の淵に立った人たちの心情は私には推し量れそうにありません。でも死の直前だろうと異性だろうと同性だろうと人を愛せるのは素敵なことだと思います。

小学生の校外学習で知覧、
地元に有名な戦争の跡があるというのはなかなか幸運だと感じました。私の地元にはそういう場所がなく、校外学習といったら給食センターだとか、ゴミ処理場だとか。祖父と同居していた幼少期はそれなり近くにあった兵舎(宮澤賢治の弟がいたらしく、賢治があいにきたらしいです)を教えて貰ったり、戦争の話を聞いたり。私は幸運ですけどね。

小さいうちから実際にそういうものに触れることができるのが羨ましかったです。

そして私は最近思うのです。
祖父から学んだことを
いずれは自分の孫に伝える。
二世代前と二世代先を繋ぐ。

それが近代の人々に魅せられ、彼らの生き方に様々なことを教えられ、あの戦争という大切な記憶に興味を持った自分の使命だと。


以上、本日の知覧レポートです
乱文を最後まで読んで頂きありがとうございました。

私の48時間


長野の祖母の家に滞在していました。

善光寺、松本城、開智学校、上田城、

真田神社でおみくじを引いたら凶でした

そんな感じで5日かけて見て回って、11日午前に祖母の家を出ました。
夕方には青森の友人に会い、在来線で実家に帰る予定で。
大宮で弁当を買い、一本遅い新幹線に乗車。
盛岡を出た辺りで温くなったお茶を飲み干し、新青森で乗り換える前に飲み物買おう、なんて思ったら新幹線がトンネル内で急停車。
電波も届かぬ、照明もわずかな車内。
3時間くらい経ってやっと車内の公衆電話から母に連絡が取れ、18時間半経ってトンネルを歩いて出ました。
あんなに太陽が眩しいと思ったのも素晴らしいと思ったのも初めてかもしれません。

それから携帯電話。
母、待ち合わせしていた友人や普段連絡をよこさない仙台市内在住の兄、はたまた仙台勤務の元カレなどなど。

たくさんのメールや着信。
励ます内容を母。
待ち合わせの友人からの安否確認。
兄からの1時間毎の不在着信。
大半が元カレだったのは、Mr.時刻表と私が呼ぶほど鉄道に詳しいからです。私がどれに乗るかも前日に話してたんですよ、ルート計算てつだってもらって。
トンネル内の新幹線が安全、だなんて鉄道員だから分かっていように、かなり心配してたらしいです。恥ずかしいくらいのメールがたくさんきてました。届かないのは分かっていたでしょうに。

もし長野を出るのが1時間遅かったらもっと震源近くにいたかもしれない

もし兄を訪ねるために仙台で下車していたら
もし新幹線でなく海沿いを走る在来線に乗っていたら

考えるだけで恐ろしいです。もしかしたら波に呑まれた電車に乗っていたかもしれません。自由気ままに旅する女ですから。
仙台に一年住んでいた縁で知人も多くいますし、福島にも岩手にも友人がおります。
津波で壊滅的になった街も何度か車窓から眺めた景色です。
トンネルから出て、携帯でのインターネットや避難所のテレビや新聞で被災状況を見ての絶望感、言葉にできません。

これが日本か
これが私が暮らした街か、と。

本当に偶然が重なり、私はトンネルの中という不便ではありますが安全な場所で難を逃れたようです。
公衆電話を皆で使うためにたくさん持ってる人からテレカを実費で買って、皆に与える人。受験に向かう途中のひとりの受験生を励ます人。
避難所も寒いですけど、食事はあり、水もありました。毛布何枚もキープしたり、水大量にもっていったり、ストーブ独占したりする人は嫌でしたが。
JRの方々には寝食ほか大変お世話になりました。
知らない親子には仲良くしていただき、不安を紛らわすことができましたし、仙台の実家が流されたなんて笑い事じゃないでしょうに明るく皆を笑わせてくださったおじさんがいました。

避難した地域で父が働いています。昨日は誕生日でした。避難所にいる私に忙しい中電話をくれました。
普段は甘えたり、泣き言なんか父に言いませんが、昨日は

寂しい、迎えにきてほしい

と言葉が出て、そこにいるほうが安心だから、と電話が切れたら涙が出ました。安心の涙です。緊張の糸が切れました、ぼろぼろ泣きました。
いくら頑張っても寂しいし、余震は怖かったんだと思います。

各方面に今朝バスが出て、48時間遅れて新青森駅へ。
母が出迎えてくれました。泣きそうな顔で笑って迎えてくれました。長野の祖母に電話もしました。もっと早く送り出せば良かった、と言っていたと母に聞きました。

私は今日帰ってこれましたがまだまだ被災地にはたくさんの人がいます。
たくさんの人が戦っています。
自衛隊、警察、消防、レスキュー、ボランティア、マスコミ関係、交通関係者…

たくさんの国が日本を助けてくれます。

私も何かしたいです。
ここにある両手には人の命を救う力はありません。

でも今、実家で私ができること。

とりあえず節電から始めます。



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追記は、私のトンネル内でのメモです。言葉が不明な点が多くありますが、状況が状況なので私自身読み返すとよく分かりませんが、決して楽しい状況ではありません。
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