スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

妊娠


ピピ、

「………、……」

時間を告げる携帯のタイマーが鳴る。見えないようにトイレの棚に置いた細いスティック状の白い物体。微かに震える手で、それを取った。その中心に丸く開けられた2箇所の窓。何度も読み込んだ説明書の通りならば、右側は検査が確実に行えたという証。そこにはブルーの縦線がしっかりと記されていた。反対は……。

「…………ぁ……」

濃いブルーの線が2本。

それが示す結果に、思わず息を呑んだ。そして、始めに浮かんだ言葉がどうしよう≠セったことに自分でも愕然とする。それは嬉しさや喜びからくるものではなく、不安と戸惑いだったからだ。これからのことを想像して、目をギュッと閉じた。不安からこみ上げてくる涙がポタポタと膝に落ちていく。

「……っ、」

(……ごめ、んなさい……)

素直に嬉しいって言えなくて、ごめんね。
自分の事ばかり考えて、ごめんね

「…………」

ようやく動けるようになったのは、日もどっぷりと暮れ、月が登った頃だった。





週末に入りやっと仕事が休みの日になった。普段年に一回がん検診でしか訪れない産婦人科の門を潜る。待合室にはお腹の大きい妊婦さんが幸せそうにエコー写真を見ていたり、妊婦雑誌を眺めていて……何だか急に場違いじゃないかと思い、俯く。

受付に保険証と診察券を提出し、代わりに番号札を受け取る。程なくして番号が呼ばれ、ガラリと戸を開いて診察室へ入った。素っ気ない態度の医師に内診室へ入るよう促され、隣の部屋へ入る。そこで下着を脱いでスカートの裾を捲り、内診台へ座った。看護師さんの明るい声で「台が上がりますよ」と告げられると同時にクルリと椅子が回転して上昇し、股を開くような形で停止する。これは診察だと思いながらも、羞恥心と恐怖でいっぱいになる。何度やってもこれに慣れることはないだろう。

「お名前は?」

「……あ、えと……つ、継峰夏希です」

「はい、継峰さんね。診察始めますよ」

ピンクのカーテン越しに先程の医師の声が聞こえた。緊張で言葉に詰まりながらも名前を言えば、夫以外触れたことのない場所へ無造作に器具を入れられる。

「っ、」

違和感と微かに感じる痛みを、ギュッと手を握って耐えた。怖々目を開ければ、こちらからも見えるようにと設置された小さなモニターに黒い扇状の映像が写し出される。医師がカチカチと機械をさわる音と陰部に挿入された器具を動かす度に映像が変わっていく。

「あ、うん。間違いないね。ちゃんと子宮内に妊娠してるよ」

「……、にんしん……」

「はい、じゃあ支度が終わったら隣の診察室ね」

映像を見ていても何がなんだかよく分からないまま診察が終わる。妊娠してるよ≠サの言葉だけがぐるぐると頭の中を回っていてどうやって内診台から降りて身支度を整えたのか記憶にないまま、気づけば診察が終わり手には小さな写真を渡されて指導室とかかれた部屋に通されていた。

「継峰さん?」

「え、あ……はい」

目の前の看護師さんが何やら説明してくれていたのに、ボーっとしていたせいで聞いていなかった。慌てる私に、小さく微笑んだ。

「妊娠おめでとう……でいいのかな」

「………っ…」

手を強く握り、俯く夏希。意思とは関係なくポタポタと流れる涙に気づくと、ティッシュを渡して肩をさすりながら、黙って落ち着くのを待つ看護師。

ゆっくりと口を開いた。

「さっきもらったエコー写真、持ってる?」

「っ、はい」

はがき半分くらいの大きさの白と黒のだけで写された紙。その中央の小さな黒い楕円を指差す。

「これがね、赤ちゃんがいるお部屋の胎嚢で、その中にある白いリングのようなものが卵黄嚢っていうのよ。継峰さんの最終月経とこの胎嚢の大きさからいうと、今は妊娠6週目に入ったところね」

「…………」

「……ここにはね、色々な事情を抱えた人が来るわ。だから、これは皆に言っていることよ。もし、赤ちゃんとさよならしなくちゃいけないとしたらなるべく早めに来てね。赤ちゃんの成長スピードはとても早い。21週までは中絶できるけど、12週以降は普通のお産のように出産することになるし、死産届や火葬、納骨も必要になる」

「……っ、」

「継峰さん、抱えているものがあるなら何でも相談してね。私じゃなくても、色々な相談機関もあるから後で受付からもらえるように言っておくわ。次の受診は2週間後になります。それまでに……ご家族ともよく話し合ってきてね」

「…………はい」

「もしそれまでに多量の出血があったり、つわりが酷くて飲食出来ないようなら連絡してね」

「分かりました」

バタン、とドアを閉める。
それからお会計を済ませて次回の予約表と一緒に資料
を一式渡された。

「次回は2週間後の同じ時間で大丈夫ですか?」

「はい、大丈夫だと思います」

「気をつけてお帰り下さい」

産婦人科の入り口から出て車に乗り込み、ふぅと小さく息を吐いた。

「…………やっぱり、妊娠してたんだ…」

いつもと変わらない下腹部にそっと手をあてた。いつもは規則的にきている生理がこない以外には思い当たる症状もない。けれど妊娠検査薬での結果に加え、医師の診察でも貴女は妊娠してますよと言われれば、その通りなのだろう。

(…………っ、どうしよう……)

愛する人との子供ができたのに、ただ嬉しいと素直に言えない。父親である海人さんへの連絡も躊躇している私は、なんて酷い親だろう。

ギュッとハンドルを強く握り締め、エンジンをかけた。ポツポツと雨がフロントガラスを叩き始めた。ワイパーを動かし、シフトレバーをDへ合わせる。

そう言えばあの日も雨だったなと思い出しながら、アクセルを踏んだ。





その日は、朝から大雨だった。

記録的豪雨になるかもしれないと繰り返しニュースで言っていた。兄からも気をつけるようにと連絡をもらい、返信してから就寝した。

空人さんが亡くなったと訃報が届いたのは、深夜1時だった。滅多にない海人さんからの夜中の電話に、嫌な予感がしたが実際に訃報を聞いて全身の力が抜けてその場に座り込んだ。最期を看取ったのは海人さん1人だったと言う。感情のない声で話す海人さんに、早朝仕事を休む連絡をしてすぐイタリアへ行くことを決めた。

近親者のみで行われた葬儀。喪主として立つ海人さんは、真っ白な顔で淡々とやることをこなしているようだった。泣いている人も、俯く人も、怒る人もいるなかで、ただただ……静かに見送っている海人さんがとても痛々しかったのを今でも覚えている。

葬儀も終わり、明日は日本へ帰る日。海人さんは諸々しなくてはならないことがまだあるらしく、暫くイタリアへ残ることになった。
就寝前に海人さんの部屋へ向かった。ノックをしても返答はなく、ドアノブに手をかければ鍵もかけられていない。ゆっくりとドアを開ければ、月明かりしかない真っ暗な部屋で、1人ベッドに腰掛けて座る海人さんがいた。聞いた話ではろくに食事も取らず、一睡もしていないらしい。今にも倒れてしまいそうな酷い顔色だった。

「…………海人さん」

「…………」

「……っ……」

「…………」

「海人さん、」

「…………なつき…」

何度か問えば、やっとこちらを向いた。かすれる声と虚ろな瞳。いつもは満月のように輝く金の瞳も今日はくすんで見えた。

「…………」

「…………」

痛々しい姿になんて声をかければいいか分からない。「大丈夫ですか」や「元気出して下さい」は違うと分かるけれど、まだ身内を亡くす経験のない私には傷ついた海人さんを癒せる言葉を知らない。それでもこのまま海人さんを1人にする選択肢なんてなくて、抱えるように頭をそっと抱きしめた。まるで外にいたかのような冷たい身体に泣きそうになる。少しでも温かくなれるように、ギュッと力を込めた。

それから、どれほど時間がたっただろうか。されるがままになっていた海人さんの肩が小さく震えた。

「……な……つき……」

「……はい」

「なつき」

「……はい、ここにいます」

絞り出すような、縋り付くような声色で何度も名前を呼ぶ。応えるようにそっと腕に力を込めれば、痛いほどの抱擁が返ってきた。そして、一瞬で背中には柔らかなベッド。見上げると海人さんの悲痛な瞳と視線が合う。

「……海人さん?」

「っ……なつき、」

「かいと、さ」

後先考えずただ感情のまま行為に至ったのは、後にも先にもこの時だけだった。

何度もお互いの名前を呼び、存在を確かめるように肌に触れて強く抱きしめた。いつもはお願いして出発前につけてもらう所有印も、場所を問わずいくつも紅の華を咲かせた。言葉を交わす暇もないほど接吻が続く。お互いの唾液が混ざり合い、溢れ出た愛液がシーツを汚した。堪えきれず出た声が枯れても、何度意識を飛ばしても、陽が差すまで行為は続いた。

誰に言われる訳でもなく、これは愛情や想いを交わすための穏やかな行為ではなかった。まるでそうしてないとここからいなくなってしまうかのような……そうすることでやっとお互いの存在を認識できているような不安や喪失感に駆り立てられた行為だった。それでも、今にも壊れてしまいそうな海人さんが、少しでも救われるならと願った。私自身、愛しい人の温もりで安堵した部分もある。

お互い力尽きて倒れるようにベッドに横になって眠った。その間も抱え込まれるように抱きしめられ、お互いの隙間が無いほどに肌を合わせた。朝日がカーテンの隙間から差し、部屋の中を満たす頃ようやく目を覚ました。

先に起きていた海人さんが用意してくれたカフェラテを飲みながら、ホット息をつくとポツリと隣の椅子に座る海人さんが呟く。

「……中学で……未来に行った時、空人がいたから少なくともあと数年は、大丈夫だと思ってたんだ」

「……」

「……なのに……っ」

堪えきれない感情が、蛇口をひねって出てくる水のように勢いよく出てくる。吐き出すように吐露される言葉の波。思わず手をとった。海人さんは苦笑して手を握り返すと言葉を続ける。

「……先月アレスが逝ったから、嫌な予感はしてた。けど、俺に残り≠渡さなければもう少し長く生きられたはずなんだ……っ」

ハッ、誰が……お前の思い描くように死んでやるか

「最期まで憎まれ口叩いて……」

いい面してんじゃん、おにーちゃん?

「……っ」

「海人さん……」

「ごめん、ごめん……っ」

何に対しての、誰に対しての謝罪なのか。

金の瞳から、いくつもの涙を零す。嗚咽を上げ子どものように泣く海人さんを抱き締めた。痛いほど海人さんの気持ちが伝わってくる。気づけば同じように涙が溢れ、こぼれ落ちた涙が海人さんの涙と混ざり、床へポタリと落ちた。




あれから、2ヶ月経つがまだ海人さんはイタリアから帰って来ていない。けれど、たまにする電話では段々といつもの声色に戻ってきた。それに来月にはまた旅を始めると一昨日聞いたばかり。少しずつ、いつもの海人さんに戻っていて、ホッとした。

「…………っ、おぇ」

堪えきれない吐き気と共に、空っぽの胃から胃液のみがトイレの便器へ落ちていく。
先週から悪阻が始まった。吐いても、吐いても終わること無く1日中車酔いしたような気持ち悪さが続き、食欲もない。味覚すら変化しているのか、普段好物なものでも見るのも嫌だった。水分すらまともに口に出来なくなり今日でもう3日だ。当然仕事も行けず、欠勤も続いている。

「……っ」

結局、あの後受診出来ずに今日まできてしまった。悪阻も始まり、腰や胸もちくちくするようになった。こんなにも身体は妊娠してるよと教えてくれているのに、まだこれからを考えられずにいる。体調不良を理由に向き合うことから逃げて、メソメソ泣いている弱い自分が嫌なのに……どうすることもできないまま、ただ日にちだけが過ぎていった。

ピンポーン、

「…………」

不意に鳴るインターフォン。出る元気すらなく、その場に座り込んだまま無視するが再び音が響く。

ピンポーン、

「…………」

(……だれ……だろう)

早く出なきゃと頭では分かっているものの、身体が動かない。悪阻や不安からか最近はあまり寝れなかったにもかからわず、自然と瞼が降りる。

ピンポーン、

(………ねむ…い)

次の瞬間には、トイレの床へ崩れるように横になった。





「…………ん……」

「おはよう、目が覚めたようだね」

「…………雲雀……さん?」

次に目を覚ました時には、そこは病院のベッドの上だった。ボーっとする頭で声のする方へ視線を向ければ、左手に繋がる点滴ボトルと、いつものように少し不機嫌そうな表情を浮かべた雲雀さんがいた。

「……ここは……」

「並盛病院。覚えてない?最近仕事休んでるようだし、ここ3日ほど家から出てないようだって君につけてる護衛から連絡が入ってね。海人からも風邪で体調が良くないって聞いてたから一応、行ってみたんだ。そうしたら君がトイレで倒れていた」

「…………」

「風邪……じゃないでしょ」

「……っ、」

「悪いとは思ったけど、保険証とか出すのにチェストを開けた。これ、産婦人科の予約票と一緒に妊婦向けの冊子も入ってたよ」

雲雀の言葉に、思わず目を反らした。

「……海人は知ってるの?」

「…………」

「そう、知らないんだ」

「……っ、お願いです!海人さんには……海人さんにはこのこと言わないで……下さい」

起き上がり、縋り付くように雲雀のスーツの裾を掴み懇願する夏希。

「…………」

「……海人さんは……っ今、子どもができることを望んで……ない、から」

「海人が?」

「……詳しいことは、分かりません。でも、海人さんの力と関係あることで……けど、いつか教えてくれるって約束……してくれました。だから、それまでは夫婦2人で過ごそうって私が言ったんです……っ海人さんが話してくれるまで待つって」

「……」

「それに、やっと……やっと空人さんの死から立ち上がったばかりなんです。に、妊娠した……なんて言ったら、海人さんを困らせる……」

「けど、事実君は海人の子を妊娠している」

「……っ」

雲雀の言葉に、俯く。ポロポロと涙が溢れ布団を汚した。そっと備え付けのティッシュを渡しながら、夏希に向かって問う。

「…………それじゃあ君はどうするつもりなの?」

「……わ……かりません……」

「……そう」

妊娠が分かったときから、ずっとぐるぐると頭の中から消えてくれない不安。まるで出口のない迷路に迷い込んだようだ。誰にも言えず、相談できないままここまできてしまった。

……心も身体も限界だった。







「継峰さん、診察ですよ」

「……はい」

雲雀さんと話した日から3日たった。悪阻は相変わらずだったが、点滴しているお陰で全体的な体調は自宅にいたときよりもいい。

「継峰夏希さん……ですね。妊娠悪阻で入院中……と。体重も大分減りましたし、ケトン体もまだ出てますので入院はもう少し続けて下さい。クリニックにはこちらから連絡してありますので、ご安心を」

「……ありがとうございます」

「じゃあ、妊婦健診しちゃいましょう!今日心拍確認できれば、母子手帳をもらってこれますからね。これからお子さんが6歳まで使う大切なものになりますので、退院したら役所で手続きしてきて下さいね」

総合病院らしく、若くハキハキと話す医師だった。促されるまま、内診台へ座る。

「……はい、じゃあ診察しますよ」

「…………」

クリニックと同じように、真っ暗な画面がこちらに向けられていた。違和感と共に画面の映像が動く。

「……っ、ぁ」

「見えますか?赤ちゃんちゃんと大きくなってますよ。こっちが頭で……あ、動きましたね。元気なお子さんだ」

アハハと明るく笑う医師の声。
夏希は画面を食い入るように見つめた。数週間前に見たときは何がなんだかよく分からなかったエコー。今日は、医師に言われるよりも早く人の形をしているのに気づいた。器具を動かす度にひょこひょこ動く姿に胸が熱くなる。

「……あとは……うん、心拍も良好です。見えますか?このぴょこぴょこ動いてるのが赤ちゃんの心臓です」

ドクン、ドクン、

「……っ」

不意に画面から出る音声。ズームされた画面には点滅を繰り返す小さな丸。自身のものとは違いとても早くリズムを刻む心拍。自然と涙が溢れ出た。この子は生きてるんだと、誰に言われるでもなくストンと胸の中に落ちてきて温かな何かが広がった。

「…………っ」

(ああ……わたし、)

今まで抱えていた不安がなくなった訳では無い。海人さんへ伝える勇気も……まだ持ち合わせていない。けれど、この子に会いたいと強く思った。

診察が終わり自室に戻ってそっとお腹を撫でた。まだぺったんこなお腹だけど、この子はここで生きてくれている。大好きな人との愛しい子ども。

「……っ弱虫なお母さんでごめんね」

覚悟を決めるまでにこんなに時間がかかってしまった。きっとまた悩むこともある。けど、この子は……絶対に守ろうと心に誓った。

(……わたしの所に来てくれてありがとう)

想いが伝わるように、そっと瞳を閉じた。








***



色々と……すみません。やらかした感はあります。初めて妊娠が分かったときの夏希ちゃん目線で、産む覚悟が決まるまでのお話でした。私自身赤ちゃんの心拍を聞いたときの衝撃と感動は忘れられません。
海人くんはきっと夏希ちゃんに言われるよりも先に気づくんじゃないかな……。未来編の2人とは違う展開で一悶着ありそうではありますね。けど最後には皆で幸せになってくれたら嬉しいです。以前書いて頂いたお話のようにストーブ1つで慌てる海人くんがいたらいい(笑)
駄文失礼しました。








私≠ニ私5 終



「別れよう」


それは彼女にとって突然で無情な宣告だっただろう。目を大きく開き、黒い瞳が驚きと動揺で揺れていた。溢れ出た涙が頬を伝って流れ落ちる。自然と動きそうになる手を、ぎゅっと強く握りしめて抑える。

「理由も、教えて…くれない……んですかっ…」

「理由は特にないよ。もう君とは一緒にいられない、いたくないんだ。俺が。――ただそれだけ」

「そんなの納得出来る訳っ…!」

「ごめん」

背を向け、歩き出す。すぐ後ろから追いかける足音と悲痛な声が聞こえた。それでも立ち止まらず歩けば、冷たい手が勢いよく右手を掴んだ。

「……っ待って下さい」

「…………」

「いや、です……っわたし…、わたしっ……」

走って来たのか息が切れ、嗚咽まじりの泣く声が夜の町に響く。掴む手が微かに震えていた。振り向かなくたって分かる。青ざめた顔で大粒の涙を零しているのだろう。本当は今すぐ振り返り、彼女を抱き締めてあげたい。泣き止むまで側にいて、手を繋いで……なんて、泣かせているのは俺なのに。それに俺にはもうそんな資格はない。残された時間の少ない俺と一緒にいても、幸せになれない。だから………振り向かなかった。

「……海人さん…っ………」

掴む手をなるべく優しく離し、足早に歩き出した。後ろから、名前を呼ぶ声が聞こえる。頭を振った。唇を噛みしめる。自然と足取りが速くなった。




「…いかないで……っ」




「…………っ、」

か細い声が微かに聞こえた。
自然と足が止まる。一瞬が永遠に感じるほどの時間だった。噛み締めた唇からは血の味がして我に返る。

「…………ごめん」

もう一度謝罪を口にし、足を再び進めた。
追いかけてくる足音は聞こえないのに、彼女の泣き声が頭から離れなかった。





それから何年経っただろう。逃げるように恋人や友人、故郷から離れてただ我武者羅に世界を周った。その数はあっという間に増えてパスポートの束ができるほどだっ た。アルとも別れ、1人になってからは移動のペースが更に上がったような気がする。何かに急かされるように、一箇所には留まらず、同じ場所には2度行かない。1度携帯を落として新しくしたがデータが引き継げず、かつての知り合いとの連絡手段も途絶えた。けど何故かホッとした自分がいた。

大地の炎で他者の治療を続け、決して楽とは言えない旅をする中で段々と……静かにその時は近づいてきた。

「今日の具合はどうですかな?」

「……ご迷惑を……おかけしています」

ベッドに横たわる身体をなんとか起こそうとするが、まるで力が入らない。老人はそれを知ってか、柔らかな笑みを浮かべて窓を少し開けた。

冬の空は澄み切っていて、青空が見えた。窓の隙間から冷たい空気が入り、部屋の温かい空気と溶け合うように混ざり合う。

「迷惑だなんて、そんなこと考えないで下さい。大事な孫娘が助かったのは貴方のおかげです」 

ありがとう、何度目か分からない感謝の言葉と礼を受ける。先日1番近い医者まで3日はかかるこの村で、酷い風邪を拗らせた女の子を助けたのがきっかけだった。女の子は一命を取りとめたが、限界を迎えた身体は助けた後から動けなくなった。それ以来女の子の祖父の家でお世話になっている。しかし、食事も受けつけなくなり今日で2日。きっともう……回復は難しいだろう。何処かボーっとする頭で漠然と死を受け入れていた。

杖を付きながら、部屋の中をゆっくりと歩く老人。手にしたクリスマスローズの白い花を花瓶へ生けると目を閉じてそっと手を合わせた。

(……娘さん……だろうか)

花瓶と共に飾られた小さな写真立て。若い女性が朗らかな笑みを浮かべて、こちらへ手を振っている。少し色褪せてはいるが、ホコリ1つない。大切にされているのが見て分かる。

じっと見ていたことに気づいたのだろうか、老人は目を開けると写真を手に海人の近くの椅子へ腰をかけた。

「妻です」

「……お若いころの写真ですか?」

「ええ。妻は20歳でこの世を去りました。病気でね、長くは生きられないと言われたとき、私達はまだ18歳で息子は産まれたばかり。こんな辺鄙な村では助かる方法も、金もなかった。もう……何十年と昔の話ですな」

老人はゆっくりと呼吸をして、愛おしそうに写真の女性を見つめた。何故かその姿にズキリと胸が傷んだ。

「…………ませんか」

「ん?」

「……奥さんと、別れようと思ったことは……ありませんでしたか」

なんて失礼なことを聞いているんだろうと、自分でも呆れる。怒られてもしかたないような質問なのに、老人はブルーの瞳を丸くした後声を上げて小さく笑った。

「実はね、もう長くないと分かった時妻からは別れてくれと言われたよ。先のない自分より、他に良い人を見つけて幸せに生きて欲しい。その姿を見れば安心して逝けるから……とね」

「…………」

「何をバカなことをと私は怒った。初めて声を上げて喧嘩したよ。ほら、誓いの言葉にあるだろう。病める時も健やかなる時も≠チてね。大切な人が1番側にいて欲しい時に逃げ出して私だけ幸せになれる訳が無い。だから、聞いたんだよ。私と別れて君は″Kせになれるのかって」

「……、」

「妻は……泣いて、否定した」

大切な、思い出なのだろう。写真の女性を指先で撫でるしわの深い手。微笑む顔にも生きていた年月を思わせる深いしわが刻まれていた。

「……後悔、してませんか」

「いや、すべてをやったと思えるからね。勿論別れの悲しみは今でも覚えているし、寂しさで目が覚める朝は今でもある。けれどそれで一緒に過ごした幸せな時間までなくなるわけじゃない。寂しさと恋しさはやがて愛しさとなって、妻亡き今も僕の心を温めてくれる。もし、あの時別れることになっていたら……きっと痛みも恋しさも穏やかに忘れていったのだろう。そして縁があれば違う女性と結婚していたかもしれない。けれど、ずっと後悔し続けたと思うよ。何故、あの時手を離したのだろうって。悲しみはいつかは薄れて癒える日が来る。けれど後悔はずっと残り続ける」

「…………」

「後悔はね、時に悲しみより残酷だと……私はそう思う」

「……っ、」

何故か、胸がぎゅっと苦しくなって……熱い何かが目元からこぼれ落ちた。今でも耳の奥に響く彼女の声が、焼きついて離れない。

…いかないで……っ

彼女は今どうしているだろう。泣いてないか、笑っているか……それだけが気がかりだった。あんな風に一方的に別れを告げておいてなんて身勝手な想いだろう。きっと今頃他に好きな人ができて……幸せにしているはずだ。こんな酷い男のことなんてとっくに忘れている。

(だから、これで良かったんだ)

頭ではそう納得しているはずなのに、喉に刺さった小骨のような後味の悪さがずっと胸に残っていた。

「……さて、年寄りの長話に付き合わせて悪かったね」

「……いえ」

「少し、休みなさい。君には休息が必要だ」

「…………」

促されるまま、瞳を閉じた。
すると、温かい手が額を撫でる。聞こえてくるのは異国の子守唄。聞き覚えのないはずなのに、心地よい。自然と意識は闇の中に溶けていった。




「………、…」

ふと目が覚めた。まだ室内は暗い。視線だけ窓の外へ向ければまだ夜が開け切らぬ日の出前のようだった。

(……ああ、)

「……そこに……いるんだろ」

「……海人」

窓辺にとまる1羽のフクロウ。瞳に薄っすらと六の数字が見える。声をかければ、小さく鳴いた。

「むくろ」

「クフフ、不思議だ。超直感もないのに海人にはいつも気づかれてしまう」

「はは、……どうしたんだ。いつもは遠くから見てるだけなのに」

「……貴方を、1人では逝かせません」

「……そっか…………優しいなぁ、むくろは」

「…………」

「……なあ、皆の様子……おしえて」

目を開けているのも辛く、ゆっくりと閉じた。
聞こえるのは骸の静かな声。 

「クロームは独立してもう5年が経ちますね。元気にやっているようですよ、偶に犬達とも会って世話をやいているようです」

「…………」

「……沢田綱吉は昨年第一子が産まれて父親になりました。ボンゴレボスとしての地位も安定してきて、様々な改革を進めています。お陰で我々は忙しくていい迷惑ですがね。獄寺隼人は相変わらずの10代目バカです。まあ、それでも少しは右腕としてらしくなってきたんじゃないですか。少しは、ですけど。雲雀恭弥は知りません……知りませんが、海外へよく行くそうです。何かをずっと探し回っているとか。山本武は、海外暮らしが長いそうですが……ああ、そうそう来年籍を入れるとか言って浮かれてましたね」

「………そう、か…………」

次々と思い浮かぶ仲間の顔。日本へ来て辛いことも、苦しいことも沢山あったが、それでも今こうして思い浮かぶのは、楽しかった思い出が多い。

皆それぞれの人生を歩んでいる。
だから、だから……これで良かったんだ。

「…………聞かないんですか」

「…………」 

ポツリと、呟くような骸の声。目を閉じていても、渋い顔をしているのが目に浮かぶ。

「彼女が……夏希がどうしているのか」

「…………」

聞きたくない思いと、知りたい思いが交差する。子どものように駄々をこねるような堪えきれない感情が湧き上がって胸が苦しい。教えて欲しいと一言言えばいいのに。幸せにしている彼女を知れば、安心して逝けるはずだ。

「……っ、……」

なのに、何故だろう。
言葉に詰まる。

「…………海人」

「……」

「今から話すことは、君にとって呪いになるかもしれない。本当は……教えない方がいいと分かっています。けど、君は知るべきだ」

「…………」

「夏希は高校を卒業した後大学へは進学せず、すぐ働きに出ています。お金を貯めては海外へ行く生活を繰り返しているそうです。海外へ行くにはお金がかかる。昼夜問わず働いて、無理をして倒れたことも一度や二度じゃ無い。それでも彼女は海外へ行くのをやめようとはしなかった。なぜだか分かりますか」

「……っ」

「海人、君を探すためです」

「……な、で……」

「大方山本武から事情を聞いたんでしょう。個人の力でこの広い世界から1人の人間を探し出すなんて、無理に決まってる。けど、誰に何を言われても彼女は諦めていない」

「……っ……」

「それは、夏希だけじゃない。沢田綱吉も、獄寺隼人も、山本武も……そして雲雀恭弥も。みんな君を探していた」

「……っぁ……」

「君は、愛されているんですよ」

涙が止まらない。水分も取れず、からからになったこの身体からもまだ出るものがあったとは。

離れて何年も経つのに、まだ想ってくれていたことが嬉しい反面、苦しくて悲しい。

想ってくれていた人達を置いて1人になったことは、あの時精一杯考えて決めた覚悟だった。これでいいのだと、間違っていないのだと……そう思っていた。そうであって欲しいと願っていた。

「……っ、」

後悔はね、時に悲しみより残酷だと……私はそう思う

けど、別の道もあったのではないだろうか。
少なくとも彼女には納得出来るまで、きちんと話すべきだった。彼女の人となりは知っていたはずなのに。

(……夏希)



海人先輩

大切にしますっずっと!

わたし、先輩を好きになって良かった。はじめてが継峰先輩で、嬉しい…です

…いかないで……っ



「…………な……つき、」

会いたい、もう一度……夏希に逢いたい。
照れて真っ赤に染まる顔、楽しそうに笑う顔、嬉しそうに微笑む表情が浮かんでは消えていく。

傷つけて泣かせたことを謝って、泣き腫らした頬を撫で、胸いっぱいに抱き締めたい。そして許されるのなら、名前を呼んで欲しい。

もう一度、
叶うのならば……どうか、もう一度。





「――――」





「おやすみなさい、海人」

親友に見守られ、眩しい朝日が登るのと同時に継峰海人は旅立った。








「ッ葵希ちゃん!」

手と肩の関節を強引に外し、拘束と呪符を外す。次いで足の拘束も急いで外した。焦るばかりで手が微かに震える。その間も声をかけ続けるが、血溜まりの中心で倒れる葵希はぴくりとも動かない。

「……っくそ」

最後の呪符を強引に解呪した反動で全身が痛むが、それでも無理矢理剥がして、葵希へ駆け寄った。

「…………ッ」

(酷い……)

見て分かるだけで、頭部、右肩、腹部からの出血がある。特に致命傷である腹部は動脈や臓器を巻き込み貫通した穴が空いている。それ以外にも骨折や打撲が多数だ。出血の量だけでも失血死していても可笑しくない。

(こんな傷で動いていたなんて……っ)

「葵希ちゃん、聞こえてたら目を開けて!」

身体を揺らしながら問いかけるも、返答はない。顔面蒼白で、痛み刺激にも反応しない。

「っ、」

顔を近づけ呼吸を確かめるが、すでに止まっていた。頸動脈ですら、触れない。

(心停止……!)

「……ッ、だめだ!」

すぐに気道確保し、心臓マッサージと人工呼吸を行う。勿論反転術式での治療も平行して行う。どんどん、と胸を圧迫する音が廃墟と化した街に響く。

(……っ、早く戻れっ)

じわじわと腹部の傷は癒えてきている。しかし、呼吸も心拍も戻らない。心停止からどれほど時間が経っていたのだろう。反転術式は万能ではない。失って時間の経った欠損部位は戻らないし、死者蘇生ができる訳でもない。そんなのが出来るのは宿儺くらい巨大な呪力の持ち主だろう。

「……、……」

ポタリ、ポタリと汗が額から流れる。すでに怪我人の治療をしてきた後で呪符の解呪にも呪力を使っている。呪力はさほど残っていない。絞り出すように呪力を集め、反転術式と蘇生に集中する。

時計がないから正確な時間は分からないが、すでに心臓マッサージから3分は経過していた。普通心停止から1分以内に救命処置が行われれば95%が救命できる。 3分以内では75%。5分経過すると途端に救命率は25%に下がり、8分経過すると救命の可能性は極めて低くなってしまう。勿論反転術式も使用しているのでこの限りではないにしても、早い心肺の回復は必須だ。AEDでもあれぱ、少しは助けになるのに崩壊した街中から探すのは不可能に近い。

「……葵希、ちゃん……っ、」

やっと……やっと、見つけたのに。
また俺は……っ彼女を守れないのか。

海人先輩

自分が継峰海人だと、すでに狗巻葵希として新たな人生を歩んでいる彼女に伝える必要はないと思っていた。彼女の負担になるだけだ、と。

せんぱい

だから、彼女が少しでも笑って過ごせるように。安心して任務へ行けるように自分の出来ること……反転術式を磨いた。真実を話せなくても、触れることができなくても……君が幸せでいてくれたら……っそれだけで良かったんだ。

「……っ、」 



お願いだから、
お願いだから。


心拍も、呼吸も再開しない。呪力も尽きた。時間は無情にも過ぎていく。反転術式が使えないと傷の治癒も蘇生もこれ以上難しい。

(っ死なせるもんか……!)

何を対価にしても、絶対に。 





「……っなつき!」





ピクリと、葵希の手が動いた。









「葵希ちゃん、具合はどう?」

「!」

ガラリと開いた扉。ベッドから起き上がり、そちらへ視線を向ける。久しぶりに会う海月さんは何処か疲れた表情を浮かべていた。

「遅くなってごめんね」

「……、」

首を振って答えれば、微笑んでベッド脇に置かれた椅子に座った。手にした聴診器や触診をしながら体調を確認していく。

「……よし、傷の経過は良好だね。あと1週間もすれば自室へ戻れるよ」

「……」

「……喉の方は変わりない?」

躊躇いがちに聞かれた答えに苦笑して返答した。あの渋谷での戦いの後、この病室で目が覚めてから声が出ないことに気づいた。蛇の目と牙の呪印が消えた訳では無い。恐らく無理に呪言を使い続けた反動で、声帯が機能しなくなったとのことだった。怪我ではないので反転術式でも治療出来なかったらしい。

「……ごめんね、治してあげられたら良かったんだけど」

「……っ、」

俯く海月に、慌てて首を振る葵希。命が助かっただけでも奇跡だった。失血死しててもおかしくない怪我だったはずだ。実際、海月さんがいなかったらあのまま死んでいただろう。

「……そうだ、携帯の使い心地はどうかな。慣れてきた?」

「!」

海月さんの言葉に、テーブルの上に置かれた黄色いケースのスマートフォンを手に取る。戦いの際に壊れた携帯を新しく用意してくれたは海月さんだ。診察に来れない日も綺麗な色の花をお見舞いに運んでくれた。何から何までやってもらってばかりで、申し訳ない。

「……あ、」

ピコン、と軽い音と共に海月の携帯が着信を告げる。届いたメッセージを開けば、ありがとうございますとペコリお辞儀をする可愛いスタンプが送られていた。

「使いこなしてるね」

「……、」

笑みを浮かべて、再び携帯を手に取る。呪言が使えなくなった今、筆談を制限する必要はなくなった。文字自体は理解していたが、いざ使うとなるとなかなか慣れず少し苦労したのは内緒だ。

「…………」

「葵希ちゃん?」

もう一度海月さんに会えたら、伝えたいことがあった。
パチパチと、携帯を操作する音だけが病室に響く。

【私を治療するときに、縛りを使用したと聞きました。もう、海月さんは反転術式を使用できないって本当ですか?】

「………!」

ピコン、音が鳴って携帯を確認した海月。驚いたような表情をするが、じっと見つめる葵希の視線に隠しきれないと思ったのか、重い口を開く。

「………それは、本当だよ。でも、君が責任を感じることじゃない。俺は俺のするべきことをしただけだ」

「…………っ、」

「それに……それを責めるなら、俺を助けるために葵希ちゃんは声を失った。責任は俺にあると思わない?」

「っ、」

瞳が揺れる。穏やかに微笑む海月さんの顔を正面から見れずに携帯へ視線を移して誤魔化した。

【私は、海月さんに助かって欲しくてやったことです】

「それなら、俺も同じだよ。葵希ちゃんに生きていて欲しかった。それだけだ」

「っ……」

【……どうして、そんなに優しくしてくれるんですか?】

「どうして、って……」

言葉に詰まる海月さんに、ずっと言えずにいた思いを告げた。溢れる気持ちを抑える呪言はもう使えない。そして手には思いを伝える手段がある。

【倒れている間……夢を見てました。夢の中で私は夏希≠ニいう16歳の女の子で、大好きな人と別れました。あまりに一方的なお別れで、戸惑ったし困惑しました。悲しみに暮れて……憤りもしました。けど、どうしても忘れられなかった。幸せだった頃の記憶がそうさせてくれなかったから】

今まで途中までしか思い出せなかった前世の記憶。
夏希≠ニしての最期の思い出だ。

【ある日、偶然会った山本先輩からあの日の真実を聞きました。どうしてあんなことを言ったのか、別れなくてはいけなかったのか……先輩の想いを受け取りました。理解はできました。けど、納得なんて出来なかった。そして猛烈に後悔しました。どうして、あの日引き止めなかったんだろう。みっともなくても迷惑でも、振り払われても……っ私は諦めるべきじゃなかった。海人先輩の手を、離してはいけなかったんです】

それから、内定の決まっていた大学へは進学せず、家族の反対を振り切って家を出た。海外と日本を往復する生活。だれからも無理だと言われた、諦めるしかないって。でも、そんなこと出来なかった。どうしても、もう一度……もう一度だけでいい。先輩に会いたかったから。

【海外と日本を往復する生活は、突然終わりを迎えました。先輩が……海人先輩が、亡くなったことを知らされたから。私は間に合わなかった。まだ、先輩に言いたいことが沢山あったのに。大好きだということも、ずっと側にいたかったことも。迷惑かもしれないけど、力不足なのかもしれないけど……先輩の抱えているものを一緒に背負いたかった。一緒に、幸せになりたかった】

そこまで打つと、涙が溢れ出て画面が見えなくなった。携帯を持つ手とは反対の手で、涙を拭うのに溢れる涙は、止まってくれない。

「…………っ、」

「ごめん……ごめんね」

パッと声のする方を見る。海月さんが、泣きそうな顔でこちらを見つめていた。いつもの穏やかな顔ではなかったけれど、やっとずっと探していた人を見つけた気がした。

「…………、」

「…………」

「……、っ」



「夏希ちゃん」



ゴトッと携帯の落ちる音がした。
もう、言葉は必要ない。

お互いの存在を確かめるように、抱きしめる。以前とは違う髪と瞳の色。しかしそれすら愛おしい。海月さん……海人先輩は、髪に触れ、輪郭にそって優しく頬を撫でた。流れる涙を細い指が払う。擦り寄るようにその手に自身の手を重ねた。

愛おしい、
その感情だけが胸をしめる。

ただもう一度会いたかった。
ずっと、ずっと……。






こんな記憶、なければいいと思った日もあった。わたしはどっちなのだろうと悩んだ時もあった。
けれど、夏希(わたし)は葵希(わたし)なんだろう。

2つの記憶があっても、わたしは1人だから。想いも感情も……過去の記憶も含めてわたしだと今なら思える。この想いは嘘でも勘違いでもないのだから。

「…………」

「…………」

重ねた唇だけが、これからの2人の関係を物語っていた。








***

最後までお読み頂き、ありがとうございました。一部台詞お借りしました。勝手にすみません。
久しぶりに続きものが書けて満足しています。楽しかった。この後葵希ちゃんは4級に降格しますが、呪術師を止めず兄や友人達を傷つけた呪霊達と戦うことを選びます。海月くんも反転術式は使えませんが、医師としての知識や技術で硝子さんを支えながら、呪術高専に残ります、五条先生や夏油さんの身体の件もあるので。2人共かなり怒ってます。原作見てないので死滅回遊どうなるか分からないのですが、アニメ3期始まったらまたハマりそう……。


駄文失礼しました。














私≠ニ私4

2018年10月31日の19時、東急百貨店・東急東横店を中心に、渋谷には半径およそ400メートルの非術者のみを閉じ込める帳が降ろされた。術者、補助監督の出入りは可能だが、多くの一般人が巻き込まれ、口々に五条悟を連れてこい≠ニ叫ぶ。

20時14分、帳外では七海班・禪院班・日下部班・冥冥班が待機。上層部の指示で五条悟単独での渋谷平定を目指す流れとなった。

「狗巻棘準1級術師、狗巻葵希2級術師はそれぞれ別場所で待機してもらいます。帳が上がり次第、速やかに一般人の避難誘導をお願いします」

「しゃけしゃけ」

「……、」

こくりと頷く。雑魚との戦闘において呪言は効率よく使えるが、自分より格上の相手には効きが悪く最悪自分へ返ってくることもある。中の状況は分からないが、日下部さんの話では特級レベルの呪霊の気配がするという。それにこんな高度な結界を張ることのできる呪詛師がいるとなれば、たかが2級程度の術師である自分にメインの戦闘は荷が重いことは明らかだった。

他の術師も待機との指示に少しばかり胸を撫で下ろす。一緒に来た同級生とはすでに別れているが、皆無事でいて欲しいと願わずにはいられない。

「……こんぶ?」

ポン、と肩に手が置かれた。振り返れば心配そうな面持ちの兄の紫色の瞳と視線が合う。大丈夫だと笑みを浮かべれば、ほっと息をつき地図を取り出して1箇所指さす。

(東京メトロ、渋谷前駅)

「しゃけ」

恐らくここが兄の任された場所なのだろう。分かったと頷いて見せれば、じっとこちらを見つめる瞳。言わんとする意図が分かり、帳が開けたら行く場所を指差す。

(伊地知さんから指定されたのは……)

渋谷ストリーム

そこまでは日下部さんとパンダ先輩と一緒に移動し、その後は周囲の一般人避難を任されている。

「……、」

「おかか?」

自身の制服のポケットからノドナオールの瓶を取り出し、目の前で振る兄。苦笑しながら、制服の上着ポケット、スカートのポケット、ポーチにそれぞれのど薬が入っていることを軽く叩いて音で知らせる。

「しゃけ」

うんうんと満足したように頷き、そっと頭を撫でた。
温かい。1つしか歳は変わらないのに、性別が違うからだろうか。私よりも大きくて長い綺麗な指だ。時に私を笑わせ、こうして安心させてもくれる……大好きな兄の手。

「……っ、」

思わず空いている兄の胸に飛び込む。ぎゅっと抱きしめれば、驚いたように固まった身体。しかし、次の瞬間には優しく背中に腕を回して抱きしめてくれた。こんな大規模な戦闘は初めてで緊張する。本音を言えば不安でたまらない。そんな弱気な私を知ってか、兄は何も言わずにただ温もりをくれた。

「……、」

「しゃけ、いくら、明太子!」

胸一杯に兄の匂いを吸うと、気合いを入れて顔を上げる。にっこりと笑って兄を見れば、右手をピースの形にして出し同じように笑った。




あくまで五条先生による解決を前提とし、帳の外で待機していた呪術師達。新たな帳が降りていることが確認され、状況が変わったとして帳内へ侵入することとなった。渋谷駅新南口から日下部さん達と帳内へ進む。

「よーし、じゃあひとまず解散だな」

「葵希、くれぐれも無理するなよ。何かあれば、呼んでくれ。棘から口酸っぱく言われてるんだ」

パンダ先輩と同じように、手を振って二手に別れる。2人は階段を降りて地下へ向かうようだった。

「……っ、」

1人になった途端急に寂しさが募るが、手をぎゅっと握りしめて堪えた。出動前に兄から渡された拡声器を手に周囲を見渡す。渋谷ストリームは、複合商業施設で周囲にも高層ビルが並ぶ。低層階はカフェやレストラン、高層階はホテル、オフィスなどから構成される。夜21時過ぎとは言え、普段なら人通りも多く見られる場所だ。ビルとビルを繋ぐ連絡通路へ移動し地上を見下ろす。

「…………」

低級の呪霊や改造人間がいたる場所にいた。逃げ惑う人々の叫び声、悲鳴が苦しくなるほどに夜の街に響いていた。血と腐臭が入り混じった臭いが鼻を突く。

「……、」

拡声器を握る手とは反対の手でネックウォーマーを一気に下げた。両頬と舌に刻まれた蛇の目と牙の呪印。兄と同じこの印は、狗巻家そして呪言師としての証だ。

「動くな=v

キーン……とハウリングが鳴る。拡声器で聞こえる範囲の呪霊、改造人間、一般人がまるで一時停止のようにその場で止まった。一瞬にして静まり返る空間に葵希の声が響く。

「渋谷ストリーム地下へ移動。呪術高専≠ニ言われるまで物陰に隠れること=v

呪言の効果を非術者……一般人のみに指定し、拡声器を通して指示を出す。後は残った呪霊達を祓うだけだ。これを場所を変えて繰り返し続けていく。帳が上がって安全が確保されたら、高専関係者が予め決められていた合言葉を言うことで、避難させるという予定だ。

「………、」

喉の調子はまだ余裕がある。拡声器を通しているため、呪言の対象を指定するのにムラが出やすい。調整はいつも以上に必要だ。だが少ない呪力で行える上に効果範囲も広がる。今回のような任務には最適だと言える。色々な状況を想定した訓練を兄としておいて良かった。
ちなみに拡声器使用を最初に思いついたのは兄の友人である乙骨先輩だという。普段は海外任務が多いらしく会ったことはないが、兄の友人だからいい人なのだろう。いつか会ってみたいな。

「……」

(そろそろ、いいかな)

一般人が捌けて、呪霊のみが残った。拡声器のスイッチを再び押す。空気を大きく吸い込んだ。

「潰れろ=v







「!」

突如大きな呪力が弾けた。視線を向ければ、ビルの破壊、炎が飛び交う様子が見て取れる。気配だけでも特級レベルの呪霊同士が戦っているだろうことは明白だ。こちらの避難も早めた方が良いだろう。

(あの方角は……)

「……っ、」

葵希が任された最初の場所と近い。だが、この時間ならすでに移動して今は別の場所で避難誘導しているはずだが……。

「こんぶ……」

不安が消えない。早まる鼓動が煩いくらいに音をたてた。キリキリと胃が痛む。
葵希は兄の自分から見ても呪言師としての実力はあるし、高専に来てからは更に強くなったと思う。背が低く体格に恵まれなかったため、体術は苦手なようだが運動神経自体は抜群だ。それでもまだ実践経験は少なく、技術不足を無理でカバーする所がある。

(…………)

本音を言うなら、妹には呪術師になって欲しくなかった。

葵希は俺とは違い、産まれたとき呪印はなく呪力はあるが一般人として生きていけるはずだった。小さい頃は「おにーちゃん」とキラキラ眩しいくらいの笑顔でいつも名前を呼んでくれた。童謡やアニメの曲を歌うのが好きで、悲しいことがあれば声に出してわんわん泣くような普通の女の子。お兄ちゃんの分まで葵希がお話してあげるね、と朝から晩まで楽しそうに話していた。今日の給食のスープ美味しかったねとか、つくしの芽が出たのを見つけたよとかそんな他愛もない話。けどそんな葵希の話を聞くのが好きだった。

葵希が全く話さなくなったのは、5歳の頃。突然高熱で倒れ、三日三晩苦しんだ。やっと熱が下がってきたと思ったら両頬に蛇の目が現れ、舌には牙の呪印が出た。急に大人びた表情をするようになり、聞き分けがよくなる葵希。それまで愛されていた両親や一族に冷遇されるようになっても寂しそうに微笑むだけで、ただ黙ってそれを受け入れた。そして、呪言師としての道を進むことを決めた。

大切な妹が決めたことは応援したい。けど、呪術師は常に危険と隣合わせで、死の影が付きまとう。何よりも大事な妹だから傷ついて欲しくないし、亡くしたくない。自分も呪術師なのに、矛盾しているかもしれない。でも葵希には、別の生き方があるんじゃないかと考えてしまう。何度か葵希に話そうとした。でも出来なかった。

呪霊で怯えて、
怪我をして泣いて、
訓練でへこたれて、

それでも、呪術師になることを諦めようとはしなかったから。

(なら、)

俺は葵希が傷つかないように、ちゃんと帰ってこれるように信じて手伝うだけだ。

「……しゃけ、」

もう一度、炎が上がる方向を見つめる。
ぎゅっと手を握りしめて、踵を返した。拡声器を手にまだ避難が済んでいない場所へ向かって走る。

(葵希……)





「……ッ、かは……っ」

こみ上げてきた気持ち悪いものを、咳き込むと同時に吐き出す。気づけば鮮血の血溜まりが足元にできた。瓦礫が当たったのか額からも出血があった。流れる血で視界が邪魔にならないよう強引に血を拭う。ふらつく身体を支えるように、斜めに傾いた電柱に手を付いた。

(……っあれは)

未だに震える身体。感じたこともない巨大な呪力の固まり通しでの争い。咄嗟にその場から逃げ出した。一般人や、他の呪術師を気にする余裕も時間もまるで無く迫りくる炎から必死で逃げた。ただ逃げるしか出来なかった。その過程で拡声器も落としてしまった。

(……ごめんなさい…)

最後の大技が直下した場所にはきっともう何も残っていないだろう。何キロか離れたこの場所ですら焦げた臭いと夜だというのにあちこちで燃える炎の熱で暑く感じる程だ。

生きていて欲しかった。
避難誘導した非術者にも帰りを待つ人がいて、大切に想う人がいたはずだ。大変な目にあったけど、帰ってこれて良かったねって、言ってもらえたら……そう思って今日を過ごしてきたのに。

力不足を痛感して俯く。溢れ出そうになる涙を唇を噛み締めて堪える。今は泣いている場合じゃない。私のできること、するべきことをしなくては。

(少しでも多くの人を避難させなくちゃ……)

制服のポケットからノドナオールを取り出し、一気に飲む。喉の痛みが幾分楽になり、ふっと息をついた。

「……、」

まだこちらの方には生きている人もいるかもしれない。そう思い、瓦礫の少ない方へ足を踏み出した。

「……?」

通りの角を曲がると、視線の先に人影が見えた。誰かを背におぶって歩いているように見える。急いで駆け寄ろうとするもすぐに感じる違和感。背の高いペールブルーの髪の青年からは強い呪力と呪霊の気配を感じた。背負われてるのは白い白衣を着た男の人。眠っているのかピクリとも動かない。茶色い髪の……。

「……っ、」

(海月さん……!)

考えるよりも先に身体が動く。一気に距離を詰めるとネックウォーマーを下げ、対象を呪霊に絞り呪言を放つ。

「ぶっ飛べ=v

「!」

呪霊のみがビルの方へ吹っ飛ぶ。爆音とともに見えなくなる身体。吹っ飛ぶ直前に見えた顔は真っ白なつぎはぎ模様。それを確認したと同時に激しく吐血する。

「……っげほ……」

のど薬で回復したばかりにも関わらず、激痛とともに喉の奥からの出血が止まらない。冷汗がこめかみを伝い流れ落ちる。崩れ落ちそうになる身体を必死に耐え、急いで海月さんの方へ向かう。

「……、」

倒れる海月さんの顔色は蒼白でぴくりとも動かない。一瞬最悪な状況を想像してしまう。震える手で呼吸、脈を確認する。ドクン、ドクンと規則正しく拍動する心臓。穏やかに呼吸する胸にホッと安堵した。

(気絶……もしくは寝てるだけ……?)

呪力を封じる鎖と呪符らしきものが腕と足に巻かれているが、致命的な怪我は見たところなさそうだ。呪符も解呪に時間は掛かりそうだが、特殊なものではなく一般的なもの。しかし……。

「…………」

細身とはいえ180cm近くある海月さん。しかも意識のない状態では154cmしかない私が抱えて歩くには無理がある。応援を呼ぼうにも先程の呪霊がいつくるか分からない状況だ。申し訳ないがここは無理にでも起きてもらい、避難するしかない。

「……面白いね、それ」

「っ!」

突如背後からかかる声。
振り向くより早く、右脇腹への強い衝撃。耐えきれずそのまま宙を浮く身体。受け身を取る暇もなく、数メートル吹っ飛ばされた。

「……っ、ぁ」

素早く起き上がろうとするも、受け身を取りそこねた全身が痛む。何より、脇腹の痛みが強い。息をするだけで、強い痛みが走る。

(肋……いっちゃったかな)

痛みをこらえて立ち上がり、前を見据える。そこに立つのはやはり先程海月さんを抱えていた呪霊。薄水色の髪につぎはぎの肌。黒い服。以前七海さんと虎杖くんが戦ったと言われている真人という特級呪霊と酷似した姿。

(特級……)

ゴクリと唾を飲む。2級術師になったばかりの私が適う相手ではないことは分かりきっている。1級術師である七海さんですら、倒せなかった相手だ。相手に触れるだけで魂に干渉でき、沢山の改造人間を造っていたのもこの呪霊だ。しかもどれだけ肉体を破壊されようと、呪力があれば、魂に直接干渉されない限り即座に再生できる事実上の不死身だという。

「その服呪術高専の制服だ。もしかして虎杖悠仁って知ってる?」

「……、」

「あれ、もしかしてお話嫌いなタイプ?勿体無いなーもっと人生は楽しまなきゃ。だって、いつ最期になるか分からないから、」

「……」

「さ!」

言い終わるよりも早く、呪霊の身体が変化する。腕が大きく長くなり、丸太のように太くなった。それを軽々と振り回す真人。後方へ飛びギリギリでそれを避ける。しかし次々と繰り出される攻撃。距離を取ろうにも避けるだけで精一杯で、次の手を考える余裕がない。少しでも動くのをやめれば待っているのは死だ。焦るばかりで、動きが鈍る。

触られれば攻撃を受けてしまう。距離を取ろうとしていることを見通してかのように丸太のような手が突如鋭いアイスピック状のものへと変わった。長さも倍になり、勢いよく突き出される。気づいた時には既に回避するだけの時間がなかった。

「っ止まれ=v 

「あはは、何これ動かない」

「……っ、」

痛む喉で声を上げる。咄嗟の判断だったが、一秒遅く、肩へ突き刺さって止まる。鋭い痛みで一瞬目の前がチカチカと点滅する。楽しそうに笑う真人。冷汗が背中を伝って落ちた。もう片方の手で思いっきり肩を押して、それを外すと素早く距離を取った。

ポタリ、
ポタリと肩から血が伝って落ちる。続いて口角からも鮮血が流れる。強引に拭うと、口の中に溜まっている血を吐き出した。幸い、肩の傷は浅く神経までは傷ついていない。のど薬もまだある。

しかし、実力差があり過ぎる。呪言の効きも悪く、反動も大きい。

(……っ、こわい)

この先の展開が悪い方ばかり浮かんでしまう。恐怖で身体が動かない。ここには誰もいない。強い先生も、助けてくれる仲間も、大好きな兄もいない。こんな弱虫な私1人でどうやって……っこれ以上どう頑張れと言うのか。

逃げたい、
逃げ出したいという思いが膨れ上がる。

「……、」

(……だれか…………っ)



「……葵希……ちゃん……?」



「!」

「あ、起きた?やっほー家入海月」

微かな声に後ろを振り返れば、意識が戻ったのか海月さんが驚いたような表情でこちらを見ていた。茶色い瞳と視線が合い、胸がぎゅっと苦しくなって泣きそうになる。

(ああ……そうだった……)

「な、にして…………」

「何って見れば分かるでしょ?殺し合いだよ。ああ、安心して君は殺さないから。そんなことしたら俺が夏油に殺されちゃうからね」

「なっ……」

「……、」

アハハと笑いながら話す真人。
葵希は未だ出血の止まらない肩から手を離し、おもむろにポーチからノドナオールを一瓶取り出して一気に飲む。スッと喉の奥へ液体が通る。すでに焼け石に水だが、何もしないよりはマシなはずだ。

「んー、そうだな……。だんまりなお人形ちゃんにも飽きたし、そろそろ終わらせようか」

「……、」

手をポンと叩き、名案だと言わんばかりに頷く真人。左右色の違うオッドアイがこちらを見た。
ふぅと息を深く吸い込み、そして長く吐く。口腔内に残った血の臭いと鉄臭さを感じて眉を潜めた。こんな時だがうがいをしたいと呑気に思う。

(………大丈夫)

殺されそうなのに、緊張が解れたなんて可笑しいだろうか。けれど、先程まで感じていた恐怖が今はまるでなく、心は凪いだ海のように穏やかだ。

私は今1人じゃない。
そして、私が最優先でしなくちゃいけないことが分かった。

「……だめ、だ」

海月に背を向け真人と向き合う葵希。後ろから、焦ったような声が響く。

「っ葵希ちゃん、今すぐここから退避するんだ!真人は君が敵うような相手じゃない!俺のことは放っといて、早く……っ!」

「じゃあ行くよ」

「……、」

「やめろッ!」

海月さんの叫び声が再開のゴングだった。
葵希は思いっきり息を吸って呪いを口にする。

「ぶっ飛べッ!=v








「はい、おしまい」

「……っ……ぁ」

何分も続いた戦闘。
決着がついたのは、一瞬だった。

自身の腹部に深々と突き刺された太いパイプのようなもの。頭がそれを理解する前に激痛が襲う。声も出ないような痛みにか細い悲鳴を上げる。そんな葵希の様子をあざ笑うかのようにグリグリと抜き差しして動かした後、思いっきり引き抜いた。

「かは……ッ」

刺された腹部に当てた手は真っ赤に染まり、指の隙間からはドクドクと鮮血が流れ出す。その場に立つことすら出来ず、崩れるように膝を付く。

(…………どうみゃく、切れた)

勢いの止まらない血は、すぐに大きな血溜まりを作りだした。あ、これはもう駄目だと誰に言われるでもなく悟る。どんなに気持ちを強く持とうが実力差は大きく、私はこの呪霊に勝てない。分かってた。それでも、戦わなきゃいけなかった。確かめたいことがあったから。

(……さっきの戦闘で……確証は得た…………)

「さーて、無駄に時間くっちゃったな。獄門疆の持ち運びは可能になった頃だし……夏油に怒られる前に帰ろっと!」

「葵希ちゃんッ!」

海月さんの叫び声が遠くに聞こえる。
結局……海月さんは海人先輩≠セったのかは分からず仕舞いだ。でも、それでも良かったのかもしれない。海人先輩でも、そうじゃなくても……海月さんと一緒に過ごした時間はとても心地よかったから。答えがどうであれ、家入海月さんは、わたし≠ノとって大切な人に変わりない。だから、



「痛く、ない=v




「苦しくない=v




「怖くない=v








「うごけ…ッ…………最期まで!!=v








呪言の対象を自分へ変えると、大きく叫んだ。身体に力が入る。まだ立ち上がれる。このまま終われない。時間が経てば待っているのは失血死だ。体格に恵まれないこの身体では残された時間は少ない。どのみち終わってしまうなら、せめて意味のある使い方をしなくては。

「止まれっ=v

瀕死の人間が動き、驚く真人。こちらから呪言を放つ。動きを止められるのは2秒。その間に距離を詰める。切れると再び同様に動きを止める。何度も吐血と呪言を繰り返した。喉が潰れても可笑しくないくらいの負荷。腹部の傷口からは血が溢れて動くたびにその量を増やす。
真人までの真っ赤な道が出来た。

「…………っ、」

そして、右手が真人に届いた。
きっと上手くいく。










「…………もどれ=v










真人が、音もなくその場から消えた。
それと同時に、その場に倒れる葵希。ぴくりとも、動かない。

(……どうか、)

どうか、海月さんが無事に皆の下へ帰れますように。



「――――」



最期の呼吸が、口から出てそっと消えた。



***

次でラストの予定です。
戦闘シーンはやはり難しい……。もし夏希ちゃんに戦う能力があったりしたら、きっと守らなきゃいけないときは無茶しそうだな、と思いました。
駄文失礼しました。

私≠ニ私3


呪術高専に入学してから、3ヶ月が経った。

「…………」

ふぅーっと小さく息を吐きながら、校舎内のベンチに深く腰をかけて壁に身体を預けて目を閉じる。自販機が並ぶ休憩スペースにもなっていて人気な場所だが、休日のためか人は誰もいなかった。



あの事件の後、五条先生立ち会いのもと簡単な取り調べは受けたが、拘束はなく直ぐに解放された。処分も2週間の自宅謹慎という軽いものだった。被害者である家入さんが処分を望んでいないこと、学生だったことが考慮されたらしいが、1番は五条先生の減刑の一言だったらしい。

(……お兄ちゃんには、いっぱい心配かけちゃったな)

取り調べが終わり兄と暮らす寮へ帰ると、ドアの前にしゃがみ込む白銀の姿を見つけた。足音で気付いたのか顔を上げたと同時に飛びつかれ、強く抱きしめられた記憶は新しい。何も言わずすっぽりと包むように抱きしめる兄の腕。いつもは面白いことをして笑わせようとしたり、楽しそうに笑う兄の……微かに震える肩と長い間外にいたのだろう。すっかり冷たくなった身体に、涙が溢れた。一度涙が出ると、緊張が切れたのか声を殺して泣き続ける私の頭を、兄は泣き止むまで優しく撫でてくれた。

「……こんぶ?」

「……、」

泣きつかれて眠くなった私をベッドまで運び、優しく布団をかけてくれた兄。自室へ行こうとする兄の手を取り、首を振る。じっと自身と同じ紫の瞳を見つめれば、苦笑して布団の角をめくった。子どもの頃と同じように
1つの布団で、くっついて目を閉じる。柔らかい、春の草花のような匂いがする。大好きな兄の匂いに包まれ、温かい体温に触れてホッと安堵すると同時に小さな欠伸。

「…………」

「…………ツナツナ」

言葉は違うが、おやすみと言われているようだった。
繋いだままの手にぎゅっと力を込めれば、離さないよと返答の代わりに力が入る。

(あ、……りがとう、お兄ちゃん……)

感謝を心の中で口にすると、そのまま夢の世界へ誘われていった。




2週間の謹慎を終えて高専に戻り、そこからは遅れを取り戻すかのように授業と任務が続いた。休みの日も補習がは入ったり自主練したりと忙しい日々が続いている。そのおかげか、呪霊や戦闘にも少しずつ慣れてきたような気がする。

伏黒くんと釘崎さんからは、どことなく距離を置かれていた。……当たり前だ。入学早々問題を起こしているのだから自業自得。例え家入さんが許してくれてもしてはいけないことをしてしまった。だからずきんと胸が痛いなんて、言っちゃいけない。
なぜかは分からないが、有り難いことに虎杖くんはよく声をかけてくれた。屈託なく底抜けに明るい笑みは、山本先輩を思い出す。沢田先輩と海人先輩で楽しそうにいつも話してたっけ。

「……」

(……せんぱい……)

結局、家入さんは海人先輩≠セったのだろうか。あれから何度も自問自答するが、答えは出ない。間違いなら諦めも付く。けど、もし……忘れているだけだったら……?思い出して欲しい気持ちと、そうではない気持ちが交差する。夏希≠ニしての私が先輩を早く見つけなきゃと焦燥感を募らせている一方、2つ記憶を持つことの苦しさを知っている葵希≠ニしての私がブレーキをかける。

家入さんとは、あれ以来会えていない。そもそも、とても忙しい人だと知った。他者へアウトプットできる反転術式を持つのは高専においては家入硝子さんと海月さんの2人だけだ。とくに海月さんは京都の呪術高専も面倒見ているらしく、行ったり来たりの生活らしい。
誰に聞いても海月さんの評判はとても良く、とくに治療を受けて命を救われた人からは天使だと噂される程だ。貴重な反転術式持ちにも関わらず、偉ぶることなく階級関係なく誰とでも平等に接する為知り合いも多い。しかも、唯一五条先生の無茶振りを止められる人として名が知られているらしい。



「お疲れさま、」



「……っ!」

不意に頭上からかかる声と共に、額に冷たいモノが触れて慌てて目を開ける。

「……!」

「さっき悟から聞いたけど、休日なのに任務だったんだって?怪我とかしてない?」

茶色い瞳と視線が合う。あの日と同じように白衣を着て、短い短髪がサラリと揺れる。優しく穏やかに微笑む青年。家入海月さんだ。

「…………」

家入さんの問いに頷くと、額に乗せられた缶を目の前に出した。意図がわからず首を傾げると、そっと手の中に置く。

「よかったらどうぞ」

「……!」

「コーヒー飲もうと思ったら間違っちゃってさ、良ければもらってくれると嬉しい」

両手の中にポンと置かれたのは、ピンクの缶ジュース。描かれているのは真っ赤ないちごと白いミルクだ。混ざり合い、可愛いピンク色となって食欲を唆る。

(いちごオレ……)

夏希のときから好きで、放課後よく買った記憶がある。いちごの酸味とミルクの程よい甘みが合わさって、ホットでもアイスでも好きで飲んでいた。あかりやお兄ちゃんには飲み過ぎだって呆れられたっけ。

「……、」

「いいよ、気にしないで」

急いで頭を下げれば、微笑む家入さん。茶色い瞳が窓から入る日光と合わさってキラリと輝いて見えた。暗い所で見るよりも色が薄く琥珀のような透明度を感じる。茶色だけじゃない、まるで黄金のような色合いにも見えて……。

そこまで考えて、何故か胸がドキリと一瞬鼓動を強く打った。

「っ、」

「葵希ちゃん……?」

俯く葵希に今度は海月が首を傾げた。顔に集中した熱を下げるように、頭を横に振る。そしてハッとしたようにその場に立ち上がると、自販機へと走った。ポケットから小さなポーチを取り出して、小銭を投入口へ入れる。

「……っ、……」

目的の物がガコンと音を立てて取り出し口に落ちてくる。それを手に取り、家入さんまで戻ると勢いよく差し出した。情けなく緊張して、手が微かに震える。

「……もしかして、俺に?」

「……、」

こくんと頷けば、驚いたように目を丸くした家入さん。それでも、次の瞬間には受け取ってもらえた。

「ありがとう」

「…っ……」

微糖と書かれた茶色いコーヒーの缶を手に微笑む家入さん。もう一度頬が朱色に染まったのを隠すように、ネックウォーマーを上に引っ張った。もっと話してみたい……海月さんのことをもっと知りたい。そんな欲求が顔を出す。手を伸ばしたら、届くだろうか。彼が海人先輩≠ゥどうかも分かるかもしれない。

思い切って顔を上げた瞬間、遮るように着信音が響いた。

「……、」

「……電話だ。ちょっとごめんね」

慌ててポケットから黒いスマートフォンを取り出す海月。通話ボタンを押して誰かと話す姿を静かに見つめるしかない。風船のように大きく膨らんだ何かが、勢いよく萎んでいった。短く会話した後、「今から向かう」と言って電話を切る。

「京都校の方で怪我人が出たらしい。早く行かないと」

「…………」

「これ、ありがとう。任務後で疲れているだろうし、ちゃんと休むんだよ」

コーヒーをポケットへ入れると、くるりと踵を返す家入さん。見送るしかない私は行ってらっしゃいの代わりにそっと頭を下げた。

次頭を上げた時には、そこにはもう誰もいなかった。


 


『夏希ちゃん、どうぞ』

『ありがとうございます……っこれ新作のいちごオレじゃないですか、しかもコンビニ限定の!一度飲んで見たかったのにいつも売り切れてて買えなくて……探してたんです』

『知ってるよ、彼女が好きなものなんだから』

『っ……』

『?』

『あ……えと、そうだ!私も電車待つ間にこれ見かけて……もう、冷めちゃってるかもしれないんですが』

『コーヒー?』

『先輩いつも、このメーカーのコーヒーですよね。微糖のホット』

『……』

『海人先輩?』

『いや、覚えててくれるって嬉しいなって思って。ありがとう』

『ふふ、私こそありがとうございます。先輩』




「…………」

「海月、コーヒー見つめてどーしたの?」

「いや、何でもないよ」

京都へ向かう新幹線の車内。海月の護衛と、京都で出た呪霊の応援に向かう悟と合流し、二人掛けのグリーン車に座る。東京駅を出発して30分ほどたっただろうか。

訝しむ悟に苦笑し、再び視線をテーブルの上に移した。自販機で買えるなんの変哲もないただの缶コーヒー。時間がたっているため冷えてはいるが、ゴクリと喉を通り過ぎる度に程よい甘みと苦みを感じる。世界観は違うのに同じメーカーがあるなんて不思議だが、俺がよく飲むコーヒーも彼女が好きないちごオレもこの世界にはあった。

「…………」

(関わるべきではないのに)

自販機前の椅子に目を閉じて1人座る彼女を見た時、何故か身体が自然と動いた。彼女の姿が一瞬……彼≠ニ被ってゾワリと恐怖にも似た悪寒が走ったからだ。

傑?

……やあ、海月。今は授業中じゃないか

高専中に医者免許取りたいって言ったのは俺だけどさー、座学はやっぱり疲れるよ。だから、サボリ中

はは……いいのかい?悟に知られたら笑われて、……

傑?

……いや、何でもないよ

任務ばかりで大変だろうけど、しっかり寝ろよ。顔色悪いぞ

ああ。そうだね

笑顔の奥に隠された憂いを見落とした。あんなに近くにいたのに。側にいたのに。アイツは誰よりも仲間思いで、真っ直ぐで……だからこそ、道を踏み外れても向かう先が泥沼だと分かっていても、理想の為に進み続けた。

海月、私はね君が好きだったんだ。勿論悟も好きだが、悟は親友だ。同じ意味じゃない

す……ぐる……

一緒に来て欲しい

っ……傑の気持ちには応えられない。非術者を殺して術者だけの世界を作る……その理想にもついて行けない……っけど、俺は

…………ハハッ、やっぱりね。知ってたさ、君がずっと誰かを想っていたことくらい。ずっと、ずっと……見てたんだから

傑、行くな。っ……行かないでくれ!

……さようなら

人一倍大人ぶってるのに、本当は誰よりも寂しがり屋だって知っていたはずなのに。あの日俺はあいつを1人にしてしまった。そして、クリスマスの日。

悟に傑を殺させてしまった。



これは、俺の罪で俺の罰なのだろう。



ただ、もう一度会いたかった。
笑った顔のキミに触れて、名前を呼んで欲しかった。
願っちゃいけないことを死に際に祈ったせいで、多くの人の人生を狂わせてしまった。

「…………っ、」

「海月?」

「いや……何でもない。悪いんだけど、着いたら起こしてくれる?」

「いいよ、おやすみ」

落ち着かせるように深呼吸し、そっと目を閉じた。暗闇に慣れる頃には意識も混濁し、気づけば夢も見ずに眠りについていた。





「ほら葵希行くわよ!」

「……!」

廊下の反対側から走ってくる女子生徒2人。すれ違いざまに視線が交差する。ペコリと軽く頭を下げる白銀の髪はよく知る少女、狗巻葵希だ。

「……これから任務?」

急いでいる相手に声をかけるのは無粋ただ思いつつ、暗くなった外を見て問いかける。

「渋谷で急に帳が降りたらしくて、おかげで術者は殆ど皆出動。せっかくのハロウィンなのに嫌になるわ」

苦笑する葵希の隣に立つのは、確か同じ1年の釘崎野薔薇だったと思う。入学当初こそ仲が良いとは言えなかった2人だが半年以上たった今は、よく一緒にいる姿を見かける。

「……葵希、行くわよ」

「……、」

野薔薇の声に頷くと、こちらを見上げて1度お辞儀し、先に行く野薔薇を追いかけようと足を前に出す。

「……っ、」

「?」

思わず掴んだ手。戸惑いからか、目を大きく開き瞬きする葵希。しかし掴んだ当の本人である海月も、驚いたように固まり、自身の手を見つめる。

「……あ……えと、気をつけてね」

「……、」

海月の言葉に微笑む葵希。掴まれていない手を上げて力こぶを作り、何度か振り下ろす。頑張りますと言っているようで、思わず笑みが溢れた。

「行ってらっしゃい」

「……」

小さく手を振り、駆け出す葵希。葵希はこの半年努力を重ね、2級術師になった。もとより実力はあったにしても、殻を破って進むのは怖く苦しかったはずだ。
2級術師として何度も任務へ行って実践の経験も積んでいて、呪力も増えたらしい。学生の彼女達が前線へ出る可能性は低いだろうし、階級の高い術者もフォローに入るだろう。

(だから、大丈夫……、大丈夫だ)

漠然とした不安を誤魔化すように、そっと息を吐いた。鳴り始めた携帯をポケットから取り出し、耳に当てる。

「海月か?」

「学長」

「聞いてるかもしれないが、渋谷に大規模な帳が降りて非術者が閉じ込められている。大規模戦闘になる可能性が高い、悪いが一緒に現場へ来てもらう」

「ええ、分かりました」





「いよいよだよ」

「うわーワクワクしちゃうね」

「手筈通り、まずは……」

「そう、五条悟の封印を行う」

遠足前のようにはしゃぐ呪霊達を見下ろし、夏油傑≠ヘ不敵な笑みを浮かべた。

「……君とも会えるかな?」




ねぇ、家入海月





――渋谷事変が始まる――




***

今回短めになりました。比較的早く書けたけど、まとまりが良くない…。駆け足で読み辛かったらすみません。色々原作とは異なる内容になってくるとは思いますが、またお読み頂けたら嬉しいです。
駄文失礼します。

私≠ニ私2

「真っ直ぐ歩け」

「……っ、……」

グイっと、強引に身体を押される。転びそうになりながらも、足を前に進めた。後ろ手に拘束され、口元には呪力を封じる呪符が貼られている。逃げるつもりも、抵抗するつもりもない。ただ、あの人が無事かどうかが心配だった。

「……おかかッ!」

「棘、落ち着けっ」

事情を聞いたのだろうか。兄が廊下の向こう側から勢いよく走ってきた。心配と困惑、焦りが混ざった表情の兄と視線が合う。こちらへ駆け寄ろうとする兄を、真希さん達が必死に止めてくれていた。
兄の姿を見た瞬間、安堵からか泣きそうになる。同時に誰よりも優しい兄にあんな表情をさせて申し訳ない思いで苦しい。けれど理由を言葉で話すことも、ジェスチャーで伝えることも勿論出来ない。補助監督に背を押されるようにして尋問用の部屋に入った。

バタン、
背中に扉の閉まる重い音が響く。

「…………」

狭く薄暗い部屋に、床に固定された椅子が1つ置かれていた。拘束されたまま椅子に座るよう促される。言われるがままに椅子に座ると、手の拘束を1度外して今度は椅子と拘束される。

「すぐ尋問が始まるだろう。それまで大人しくしてるんだな」

「…………」

鋭い視線で睨みつけて補助監督は部屋から出ていった。扉が閉まれば、自分の呼吸音しか聞こえない静寂に包まれる。

(…………っ……)

色々なことが一気におきて、気持ちが整理できない。感情もごちゃ混ぜで、何から考えればいいのかも曖昧だ。

「…………」

こみ上げてくる涙を、唇を噛み締めてただ堪えるしかなかった。




「おかかッ!!」

「棘、止めろ」

「こんぶ!!」

今にも飛び出してしまいそうな棘を後ろから羽交い締めにする形で止めるパンダ。それすら抜け出してしまいそうなほど抵抗が強い。普段の様子からは考えられないほど青ざめた顔に、胸が痛む。だが、ここで棘を行かせる訳にはいかない。事情はよく分からないが、正当な理由もなく突入すればペナルティを食らうのは棘だ。

「今ここで争っても仕方ねーだろ、それより五条先生探した方がいい。癪だが、あの人がいればなんとかなるかもしれない」

「……ッ、」

「棘!!」

肩を掴み、鋭く名前を呼ぶ。紫の瞳が迷うように揺れた。葵希が連れて行かれた部屋の扉を強く見つめた後、一度瞼を閉じて小さく息を吐き出す。
抵抗していた身体から力が抜けた。

「………………しゃけ」

小さな、小さな声だった。 

「……よしっ、五条先生探しに行くぞ!」

「この時間だと職員室か?」

「もしくは1年の教室か……どちらにしろ、まだ高専内にいるはずだ」

「しゃけしゃけ!」

「そうだな、じゃあ手分けして行こう。棘は職員室、パンダは教室。私は外見てくる」

「おう!」

「何かあれば携帯で連絡!」

「しゃけ」

お互い顔を見合わせ、頷く。
次の瞬間には、その場に誰もいなかった。






「…………いやー、残念だよ」

ガチャリと静寂の中に響く音。反射的に視線を向ければ、白い頭の青年が見える。コツコツと軽い足音をたててこちらへ来ると、椅子の手前で止まる。口を開いたのは、五条先生だ。

見下ろす、先生。
見上げる、私。

今日会ったときは黒い布で目を隠していたのに、今はその布が外されて青い瞳が見えた。何処までも続くような晴天の空、もしくは珊瑚礁や色取り取りの魚が泳ぐ澄んだ海の色だ。サファイヤのように輝き、じっと見ていると吸い込まれそうにも感じる。

……とても綺麗な瞳だと、普段の私なら思っただろうか。

「…………」

「…………」

けれど、先生の視線は冷たく表情は硬い。
誰に言われる訳でもなく、心配したり助けに来てくれたのではないことはすぐに分かった。先生は、右手を伸ばすとビッと音を立てて口につけられていた呪符を強引に外した。

「っ、」

無理に剥がした痛みで、生理的な涙が瞳に浮かぶ。

「……きみには期待してたんだ。呪力が多く、ポテンシャルも高い。後は殻を破ってくれれば、強い呪術師になるんじゃないか……ってね」

「…………、」

「でも、それも勘違いだったのかな」

「…………」

ニコリと微笑む顔が怖い。もれ出る呪力の圧で息が苦しい。背中を冷汗がポタリと伝うのを感じた。椅子に拘束されていなければ、とっくに逃げていたかもしれない。

「……家入海月」

「っ、」

「知っているはずだ。きみが呪言を使った相手。倒れてから眠り続けていて声をかけても起きない。僕が知っている限り君たちは初対面だったはずだけど……」

「……、」

「あ、気にしないで話してもいいよ。呪言が邪魔しないように呪力で聴覚の保護をしてある。思う存分話してくれて構わない」

笑う顔は爽やかで、話す声は落ち着いているのに、雰囲気がそうではないと告げている。

「何故、家入海月を呪った?」

「……っ、」

「答えろ」

低く、鋭い声。刺すような視線が痛い。説明しようにも恐怖で身体が震える。10年以上戦闘以外で話してこなかった喉は、咄嗟に上手く動かない。圧倒的な呪力が、チリチリと肌を刺すようだ。蛇に睨まれた蛙、猫に追いかけられた鼠のように何も出来ない無力な存在だと思い知る。どんな呪霊よりも、目の前の先生が怖いと本能が告げている。

(ど……すれば……)

どこから説明して話せばいいのか、冷静に考えられない。怖い、そんな感情だけが頭の中をぐるぐると回る。

「……っ……」

口を開くだけで言葉にできない私に舌打ち1つ。スッと右手を伸ばすと、次の瞬間には身体が浮いていた。

「……っか……」

「僕はさ、気が長い方じゃないんだ」

椅子に固定されていたはずの鎖はいつの間にか外れ、喉元を掴む先生の手だけで浮いている。足すら付かず、負担は喉のみにかかる。息が思うように出来ず、苦しい。確実に締めてくる圧迫感に涙が浮かんで視界が歪む。

「……っ、……ぁ……」

「言え」

「…………ぁ、く……っ」

このまま死ぬのかな、ふとそんなことが頭に浮かぶ。

全てを1から説明した所で、きっと理解してもらえない。前世の記憶があって、もしかしたら家入海月さんに前世で会ったことがあるかもしれない、なんて。馬鹿げた話だと、どうせ苦しい言い訳だと笑われて罵倒される。

だから、こうして終わるのは仕方ない。わざとではないにしても家入さんに呪言を放ち、呪ってしまった。私のせいで傷ついた人がいる。やったことの責任は取らなくては。

(……っ、) 

涙が頬を伝って流れ落ちた。

両親は呪術師になることを反対していたし、呪言が使えるようになってからは急によそよそしくなって離れていった。友達と呼べるほど仲の良い人もいない。呪言で間違って呪うのが怖くて逃げ続けた人生だった。変わりたいと思ったけれど、端から無理だったのかもしれない。きっとだれも……あ、兄だけは悲しんでくれるかもしれないな。




夏希ちゃん=@



「っ、」

酸欠でボーッとする頭に、何故か先輩≠フ声が響く。優しい眼差しで、愛おしさを込めて口から紡がれる言葉に何度胸をときめかせただろう。不安を吹き飛ばし、幸せな気持ちにさせてくれる魔法のような声。

(最期に思い出すのが、貴方なんて)

手の力が抜ける。意識が混濁していく。
目の前が暗くなって…………。




「悟……!」




「……っ、みつき」

「止めろ、生徒相手に何やってんだ!」

突然響いた第三者の声。それと同時に首の圧迫感が一気に離されて解放する。待ち望んでいた酸素のはずなのに、むせ返り上手く吸えず身体も力が入らない。その場に倒れ込んだ。

「…っげほッ……」

「……大丈夫、もう大丈夫だからね。ゆっくり、ゆっくり息を吸ってごらん。ん、……そう、上手だ」

身体を支えてくれた人の顔を見上げる。茶色い瞳と交差した。驚きで目を丸くする。そんな私に微笑みかけると、そのまま身体を抱き上げた。驚きで身を固くするも、包まれるような温もりに自然と力が抜けていく。

(……っ……)

「……」

「……悟、彼女は連れて行く。そもそも治療の途中だった。これ以上は身体に障る」

「……海月、だけど」

「悟」

「……っ、」

短く名前を呼ばれ、動揺したような表情を浮かべていた先生は開きかけた口を閉じて、無言で一歩後ろへ下がった。

「…………上層部には僕から上手く言っておく」

「ああ、頼んだ」

「後で医務室へ行くから、待ってて」

「りょーかい」

ひらひらと手を振ると重い扉に手をかけ、廊下へと出た。





「……ごめんね」

「……!」

「悟は高専時代の同級生で、友人なんだ。最強なんて言われてるけど……本当は誰よりも仲間思いで真っ直ぐで、優しい奴なんだ。でも、あれは……怖かっただろう。ごめん」

柚子色の炎のような反転術式が、喉元を覆う。心地良い温もりにボーッとベッドに横たわったまま天井を見つめていたが、不意にかかった声に視線を向けた。頭を下げて謝る家入さんの姿に、思わず起き上がる。

「っ」

違うと言うように、必死に頭を横に振る。家入さんが謝るようなことは何もない。五条先生だって、怒るのは当然だ。むしろ謝らなきゃいけないのは……。

「……っ、」

人差し指で耳介を指さす。声を出さないように気をつけながら口を開けて、パクパクと動かした。

「……?……もしかして、聴覚を呪力で保護して欲しい?」

「!」

正解だと、何度も頷く。家入さんが呪力を耳に当てるのを確認し、拳をぎゅっと握って力を込めた。

「…………っ、」

「……」

「……ご、ごめんな、さい」

情けなく震える口元。戦闘以外で久しぶりに話す声は拙い。それでも気持ちが伝わるように、万が一でも呪いがこもらないように言葉としては不自然に区切って話す。それと同時に深く頭を下げた。許されないことをした。けど、謝罪することでしかこの気持ちを伝えられない。家入さんが先輩≠ゥどうか今は関係ない。不用意に話したせいで家入さんは倒れた。謝っても、謝りきれない。

「……っ、」

「俺は何ともないよ。むしろ最近忙しくて中々寝れてなかったから、ぐっすり眠れて良かったかもしれないな」

頭にポンと乗る温かい手。家入さんの優しさが声や温もりから伝わってくるようだ。先輩≠フ手もいつも温かかったなと思い出し、こみ上げてくる涙を堪える。

「……聞いてもいい?」

「…………」

家入さんの問う声に、顔を上げて視線を合わせるとこくんと頷いた。

「あの時キミはかいと先輩≠チて言ったけど、もしかして知り合いだった?」

「……っ……」

「俺に似てたりしたのかな」

「…………、」

(っ覚えて……ない?それとも、勘違いだった?……)

首を傾げる家入さん。その反応に愕然としたショックと、ホッとした安堵のような相反する気持ちが胸の中で渦巻いた。動揺を隠すように俯く。

「もしかして、まだ具合悪い所がある?」

「……っ、」

心配するような声に、失礼だと思いながらも顔を下げたまま横へ振り否定する。今は真っ直ぐな瞳を見る勇気がない。先輩≠ニ重なる所を見つける度、高鳴る心臓。やっと逢えたと思ったのに……。


先輩≠ヘここにはいない。


その事実だけが、ズシリと身体に伸し掛かる。
もう少し横になって休もうと促されるまま、ベッドに身体を預ける。寝れるようにそっと毛布を掛け、幼子にするようにトントンとリズムよく身体をさする大きく細い手。家入さんからは見えないようにそっと涙を拭う。今は、心地良い温もりに身を任せようとそっと目を閉じた。






「海月」

「ああ……悟か。どうし、」

彼女が寝て30分ほどたっただろうか。突然ノックもなく医務室のドアが開き、入ってきたのは白髪の友。入ってくるなり、いきなり抱きついてくる。そしてそのまま無言で、身体を預けてきた。思わず半歩後ろに下がったが、そこでなんとか踏ん張って堪える。

「…………」

「悟?」

「…………」

高身長の彼だが、何故か今は子どものように小さく見えた。名前を呼んでも応えず、代わりにギュッと回された腕に力が入って少し痛いくらいだ。

「……悟、」

「…………」

「心配かけてごめん」

応えるように腕を彼の背に回して、そっと力を込める。すると、長いため息をついた後にやっと腕の力が抜けた。

「心配した」

「だから、ごめんって」

「いーや、海月は分かってない。昔から変わってないよ、ガキの頃からずっとお人好しだ。特大のバカがつくほどのお人好しめ!」

「はぁ?」

「……ったく……もう……ホントにさ、」

「…………」

強引に頭をガシガシと掻いた手で、黒い布を取る。シュルリと音を立てて外れ、青い瞳が見えてくる。六眼と呼ばれる五条悟を最強にしている瞳が、隠し事などさせないと言わんばかりに真っ直ぐこちらを見る。

「本当に、身体は何ともないんだな」

「なんともないよ」

「狗巻葵希とは、何があった?」

「……なにも」

「海月」

「……ただ、間違えて名前を呼ばれただけだ。倒れたのは……至近距離で呪言の乗った自身とは異なる名前を聞いたからだと思う。疑うなら彼女に確認してもらっても構わない」

「……分かった」

「ただし、聞き方と態度には気をつけろよ。さっきのは……流石にあり得ない」

「……、分かってる」

「呪言師として人生の殆どを生きてきた彼女が、説明したり話すことが苦手なのは悟も了承済みの筈だ。不用意に呪わないために普段は話さないし、呪言の効きを良くするために言葉に繋がる筆談や手話は出来ない。ジェスチャーも必要最低限で行っている。まだ高専に入りたての若い芽を、潰すような真似だけはするなよ」

分かってるともう一度答えると、青い瞳がキラリと光る。じっと海月を見つめた。

「今日初めて会った割に、葵希のことよく知ってるね」

「……これでも校医なんで、生徒のプロフィールくらいは頭に入ってるさ。それに、2年に狗巻棘がいるだろ。今度妹が来るんだって、耳にタコができるほど聞かされたよ」

「おにぎり語で?」

「おにぎり語で」

クスリと、五条が笑う。つられるように海月も声に出して笑った。心地良い笑い声が医務室に響く。

「あ、そうだ。今夜暇?硝子が珍しく夜は帰れるらしくて、皆で飲みに行こうかって話してたんだけど……」

「みんな?」

「いつものメンバーだよ。俺、硝子、伊地知さんに、七海と……」

指折り数えながら名前を呼ぶ海月。笑みを浮かべながら話す海月の顔を見ながら、仕方ないなーと大きく伸びをする。

「じゃあ僕も行くよ。そのメンバー、僕が来ないと盛り上がらないでしょ!」

「はいはい、悟も参加……っと」

「あれれ?なんか扱い雑じゃない」

「よし、そうと決まればさっさと仕事終わらせるか!」

「ねぇ、ちょっと海月!」

後ろからついてくる五条を強引に医務室から追い出し、嘆息する海月。視線を部屋の奥へ向ける。そこにはカーテンで仕切られた空間の中で眠る葵希がいる。

「………………」

(これでいい)

椅子に腰掛け、そっと目を閉じる。今でも鮮明に覚えている記憶℃Yまれたときから死んだ瞬間まで、忘れることなく覚えている。まるで忘れることは許さないと言われているようだ。

「―――――」

普段話さない彼女と同じように、音を乗せずに名前を呼ぶ。愛しさ以上の苦しさがが、息と共にふっと飛び出て消えた。










「おや、今日は皆お揃いで飲み会かい?呑気なものだね」

くくっと喉で笑い声を上げて、夜空に近いビルの屋上に1人佇む男。手にした携帯にはどこかの繁華街の防犯カメラ映像が流れている。

「…………おやおや」

カメラの前を茶色い短髪の青年が横切った瞬間、高鳴る心臓。ドキドキと自分の意思とは反して心拍を早める。身体に宿る記憶から、五条悟と行動をともにする男の身元、夏油傑との関係を思い出す。

「ふふっ、そうだったね」

離反すると決めた時より、差し出した手を弾かれたときの方が何倍も辛かった。彼なら分かってくれる、ついてきてくれると思ったのに、私ではなく悟≠選んだ。そういう意味ではないと分かっていても悲しかった。

「惨めだねぇ、夏油傑」

でも、キミの身体は僕が有効活用してあげよう。だから、安心してあの世でお眠り。

「夏油、いつまでそうしているつもりだ。早く弟達の敵をとらせろ!」

「腸相、駄目じゃないか。今日は休暇だと言ったはずだよ。のんびり過ごそう」

「っ、夏油!」

「まあまあ、焦らないで。開戦の時まで……あと少しなんだから」

「……嘘ではないな」

「タイミングは重要だ。焦っては事を仕損じるってね」



携帯を見つめながら夏油傑≠ヘ、口元に大きく弧を描いた。





***

思っていたより時間がかかった上に、短めです……。
ほんのり夏油→海月。
駄文失礼しました。