少し出張で遠出をしてきた。
あまり旅の中での出会いなんて信じないほうだが、
今回はぶらっと立ち寄った本屋で面白い本に出会った。
内容は簡単に言えば、
古本屋の美人なお姉さんが安楽椅子探偵で、
アルバイトの本を読むのが苦手なごつめの若者が助手で、
古本にまつわる様々な事件に関わっていくという感じ。
作中で様々な本が出てくるが、少しその原作にも興味がわいてくる。
電車の中で睡眠をとるために買った本であったが、
思わず最後まで読んでしまった。
目的地まであと少しで読了って。。。。
寝れねえじゃん。
とりあえず続編も購入予定。
携帯を変えてからさっぱりと文字から離れてしまった。
直感的に操作できるということは、表現をある意味無くしているということだろうか。
いいわけだが。
そんなうちに、8月も終わりになる。
海はいけなかったが、プールは行った。
蛍は見ることができたけど、花火は今年見ることができなかった。
どちらも夜に輝く儚いものだが、夏の太陽の下ではどんなものも輝けない。
仕事は放射能の関係で忙しくなって、
お盆は親戚が結婚相手を連れてきて、軽くプレッシャーをかけられた。
遊びに行く予定はことごとく潰れて、部屋を少し模様替えしただけ。
今年の夏はこんな感じ。
きっと何もなければ、そんな夏をすごした被災者に申し訳ないが、
けっこうきつい夏だった。
話題:天気
今日は暑いわりには、雲があってなんとなくほっとした。
この暑さも苦手だが、個人的には「青すぎる青空」も苦手だ。
なぜだろう?
朝のまぶしい日光や高く青に染まった青空を見ると、胸が痛くなってくる。
澄み渡る青空、本当は澄み渡っていないから青くなるってことも知っている。
青く感じているのは脳であり、目はそれを写しているに過ぎない。
青空に想いなんてないけど、何かを思わされるのだろうか?
そう考えると少しわかる気がする。
無条件で良いものや絶対的な何かを感じたとき、
尊敬でなく畏敬をもってしまうのだろう。
すばらしさでなく、おそろしさ。
矮小な自分となにかと比べてしまう悪い癖。
自分には、やっぱり灰色の空がいい。
澄み渡るものなんかないから。
話題:宗教
今日(昨日)急に訪ねてきたのは、高校時代の後輩だという青年。
正直、ほぼ接点もないし印象に残っていない。
何のようかな?と思っていると、
来ました、宗教勧誘。
しかも、俺が嫌いなお金を巻き上げて拝むと良い人生になるってやつ。
青年は一生懸命に前向きになれたとか、人生が変わったとか説明していたので、苦笑いを浮かべながら聞いていたけど、あることでちょっと苛立ってしまった。
いわゆる前世が悪いことしたから現世が清めるとかなんたらと言ったので、大人げなく反論してしまった。
「俺の罪は俺のものです、俺が苦しまなきゃいけませんし、救われたいとか赦されるって思ってません」
すると、青年も何もいえなくなって気まずくなったのか、帰って行った。
今更、宗教に逃げ込むわけにはいかない。
偏見かもしれないけど、宗教って不公平なんだよね。
信者を救ってその他を救わないなら、神である資格はないし。
そもそも金や権力が動く時点で宗教から離れているし。
彼はいつそんな矛盾に気づくだろ?
話題:ペット
毎年のことだが、仕事上山林をめぐるとこの季節出会うものがある。
捨てられたペットと山菜採り。
なぜに、捨てられたかそしてペットかわかるかといえば。
首輪をして山で野生化していることと、
ダンボールに入って山小屋の前に置いてあるからだ。
このことと、山菜採りは本来関係性がないのだが、
同じ時期に山に入るから、同じ人が行っているように見える。
最初、小屋の前でダンボールに入った子猫3匹を見たときは、怒りがこみ上げてきたけど、
最近は怒りよりもため息と哀しさが漏れてくる。
増えたペットの責任を山へ放棄して、
山の恵みだけを奪っていく人間。
そんな人間に見えて自分もすごく気が滅入ってくる。
そろそろ梅雨が降るけど、
あなた方の捨てたペットは
きっと寒がっている。
おなかを空かせている。
寂しがっている。
俺は何もしません。
ひどいかもしれないけど、拾う責任も捨てる責任も持てません。
本来それは飼い主の責任ですから。
飼うということを放棄した人や、
恵みを奪うだけ奪っていく人たちに何も言われたくはない。