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不幸の基準

閲覧注意
自己責任
























彼と別れて早くも1ヶ月が経とうとしている。
だからといって何が変わった訳でも、何も変わらなかった訳でもない。
ただその事実をある一定の人達に報告していないのも変わっていない。
報告する必要性があるかないかという事もそうだし、報告する事で要らない気を遣われるのも御免だ。
そして不要な詮索をされるのも御免だ。
ただそれだけ。
それについて悩んでいるのは距離感くらいなものだ。
だから余計に他人に報告する気など起きない。
一つを除けば片付いた問題。


でも年が明けてからいろいろありすぎて、これもその一角に収まっている感じだ。
年明け早々書いた日記で不幸自慢じみたモノを書いた気がするが、今から振り返っても結構いろいろあるものだ。


1月1日 左目負傷
1月2日 新年会で事故
1月3日 訳ありの二日酔い
1月7日 味覚障害
1月12日別れた日
1月14日出掛けるが大雪
1月28日出掛けるがまたも大雪

……1月はこんなもんだっけ?
んで2月。……ってまだ半分も行ってないけど、
2月7日朝。この辺りから食事するのを諦めた。

味覚が無いって、自分が意識している以上に負担になるらしい。
味覚が無い事による飲食のストレス。
味覚が無いと普段食べられる物、好きな物さえ食べられなくなったりするからね。
その上に就職活動、自分が今後どうなっていくかという不安から来るストレス。
どうにもならない自分とそれをどうしようもない自分への苛立ち。
そして別れてからずっと距離感を掴みかねている友達との関係。
どれも多少慣れているモノだと思ってた。
少なくとも味覚障害くらいは高校の頃から偶にあったのだから大丈夫だと。





大丈夫な訳、なかった。


いつも人に言われて初めて気付くんだ。

だって、自分で不幸だなんて思える訳ないだろ?

五体満足で、
好きな事を仕事にするために学校行って、
バイトだって嫌な事が無い訳じゃないけどちゃんとやっていられて、
そこそこ不自由ない生活送ってるのにさ、
コレを不幸だなんて言えるかよ。


でも言われた。
不幸の基準は人それぞれだ。
って。
…そうかもしれない。
『幸せ』の反対が『不幸』だと言うのなら少しは不幸なのかもしれない。

俺は『食べる事ができる幸せ』を知っている。
だったら『食べる事ができなくなった』のは『不幸』という事になる。
『できなくなった』と言っても、胃痛と吐き気から食べる事を放棄したのは他でもない俺自身だが。
基準なんて簡単に言えばそんなモノだろう。


ま、基準なんて日常的に誰かと話す事もない物だし、日々変動するモノだから、本当はどうでもいいんだろうけど。
俺が幸せだろうが不幸だろうが誰にも関係ないんだしね。






さて、長くなっちゃったし、今夜もバイトだし、症状に不眠症まで追加されたら困るから頑張って寝よう。















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