”グゥ”と腹が鳴った、今日は特に腹が空く、誰も居ない廊下を走って帰路につこうとした時、”フワッ”と鼻腔を誘う甘い甘い香りがした。


立ち止まって辺りを見渡すと渡り廊下の窓が開いている。

窓の外からする匂いに”スンスン”と鼻を鳴らして外を見ると、古い裏校舎の同じ階の窓が開いている。

何となく直感でそこから、この美味しそうな匂いがしているのだと思った。


気付けば走り出した足は、一気に一階まで降りて外を抜ける扉を開け、裏校舎へと向かっていた。


「はぁ、確か、三階のこの辺りが」

匂いを辿るように薄暗い木造の廊下を歩く、”ギィギィ”と音を立てて辿り着いた使われてない教室。


扉の上に薄汚れた文字で『調理室』と書いてある。


隙間の開いている扉を覗くと、使われていない筈の調理室の中は綺麗で、近くに見える棚にも埃は積もっていない。


窓際の調理テーブルにエプロン姿の女がいた。

身長と大差ないような、長い長いふんわりと軽く束ねた茶色の髪が窓からそよぐ風に揺れている。

手元の鍋を丁寧にゆるりゆるりと回しながら、片目にかかる前髪を時々どかしながら”ふふ”っと幸せそうに口元が上がる。

嗅いだ事のある匂いに”くんくん”と隙間から鼻だけで確かめようとすると。

≫ガラッ≪とドアが勝手に開いた。

いきなりの事に固まっていると、混ぜる手を止めずにその女は顔だけをこっちを向け『いらっしゃいませ』とほほ笑んだ。

その柔らかい声と温かい笑顔に身体から力が抜けていくと”ふらふら”と調理室に足を踏み入れてしまった。

右足を木の床に下したーーー筈だった。


”ぐにゃり”と奇妙に柔らかい弾力のある感触。

「っ!!」

沈む右足を見て慌ててまだ廊下にあった左足で踏ん張ってみたが、無駄な抵抗に終わった。

”ドロリ”と地面が蕩けて右足を軸にして回りが”トロトロ”と沈み込んでいく、脱力も相まって体勢を保ってずにあっという間に左膝をつくと蟻地獄のようにもがけばもがく程に速度を増して飲み込まれてしまう。

パニックになりながら助けを求めて女に目を向けると、全く興味ないのか此方には目もくれず鍋からスプーンで一掬い、茶色く光るナニを口に運んで幸せそう口元を綻ばせていた。


その姿を見ながら俺は首まで沈んだーーー何て美味しそうなんだろう。と場違いにも喉を鳴らして、落ちて行く。






飲み込まれてブラックアウトした視界が突然”パッ”と明るくなり瞼を開けると自分の膝が視界に入る。
気付けば、座りながら左側の誰かにもたれていると。
一瞬、電車で居眠りしてしまったのかと慌てて身体を起こそうとしたが、疲弊しきった様な脱力感に上手く力が入らない。


ーーー今日は一体何なんだよ!


最近良い事が何にもない、今日も色んな事が上手く行かなくて、一人遅くにやっと帰ろうとした時だったのに。


ーーーコレが現実なら一体今度は何に巻き込まれたんだよ!


目まぐるしく変わる現状にやっと恐怖が追いついて”ぶわっ”と汗が出てきた。

『あれ?』

俺がもたれていた件の人は、噴き出した汗に気付くと柔らかいハンカチで額を拭ってくれる。

長い服の袖から除く細い可愛らしい指から腕を伝い、目線を上げて行くと、先ほどの調理室の女が『怖い夢でも見ましたか?』と心配そうに顔を覗き込むのと目があった。

「・・・っあ」

額を拭っていた手はハンカチを腰のポーチに戻すと、今度は戸惑う俺の頭を抱えるようにより小さな自分の体に引き寄せる。

背中で”ポンポン”と心音に寄り添うようにリズムを刻む心地良い温もりに目頭が”ジワッ”と熱く滲んだ。


『お疲れ様です、大丈夫ですよ、このままゆっくり休んでください』



幼子をあやす母のような優しい温もり、恐怖が嘘のように”スゥー”と引いていく、それに伴い緩やかな微睡みが溢れて零れそうだ。


目を閉じて心から力を抜いて自分より小さな女に身体を預けると頭上で”フフッ”と女の喉が震えた。


ーーーー甘い甘い匂いがする、何の匂いだっけ、さっきからずっとしている美味しそうなこの匂い。


脳裏に”トロリ”と光沢を放つ滴りが蕩けて記憶の口腔に広がった。


ーーーあぁ思い出した。



「キャラメルだ」呟いた言葉は音にならなかった。


抱きとめられた身体が”トロトロ”と溶け落ちていくから、甘い匂いを持つ滴りは先程の床と同じ色に染まる。


女の中で”人”の姿を無くしていく事がぼんやりと分かって居るのに、何故こんなにも心は穏やかなのだろうか?






女の手から滴り落ちる甘い甘い”キャラメル”がソファーと床に広がっている。

ソファーに残るのは”コロリ”と浸っている二つの眼球で、暖かなほほ笑みを浮かべる女を見ている。

床に落ちた心臓はまだ”トクトク”と音を立てて震えている。

『さてと』女は膝の上にあった脳味噌を丁寧に持ち上げると、何処からともなく取り出した透明な瓶の中へと丁寧に入れた。

次々に残された臓器を瓶に入れながら、時々手についたキャラメルを”ペロリ”と味わう。

最後にその光景をじっと静かに見つめていた二つの眼球を入れると、その目を大切そうに見つめながら優しい声で『おやすみなさい』と瓶事優しいく抱きしめた。







end?