幼名/鶴千代。通称/忠三郎。初名は賦秀。洗礼名はレオン。会津若松城主。
近江六角家家臣/蒲生賢秀の嫡男。永禄十一年に賢秀が織田信長に降伏し、人質として岐阜城に送られた。
翌年元服して信長に従って各地で戦い、見込まれて信長の娘/冬姫を娶り、日野城に戻された。
元亀元年の朝倉攻め、天正元年の近江小谷城攻め、同二年の伊勢長島合戦、同三年の長篠合戦、同六年の摂津伊丹城攻め、同九年の伊賀攻め、同十年の信濃攻めなどに歴戦。
本能寺の変が起こったときに父が安土城の留守居をしていたため、日野から安土に駆けつけ、在城の信長夫人やその家族を連れて日野に非難した。そして明智光秀からは近江半国をもって誘われたが一蹴した。
変後は羽柴秀吉に従い名を氏郷と改める。滝川一益を攻めて亀山城を与えられた。
天正十二年、小牧/長久手合戦の戦功によって伊勢松ヶ島十二万石に転封される。
松阪に新城を築き移った氏郷の徳を慕い、故郷から多くの日野商人が松阪に移住したという。
天正十三年の紀州攻め、越中/佐々成政攻め、同十五年の九州征伐、同十八年の小田原陣攻めに従い、奥州/会津黒川城九十二万石に封じられる。日野の若松の森にちなみ会津若松の名称に改めた。
文禄元年、文禄の役のため肥前/名護屋在陣中に病にかかり、同四年に伏見で死亡。四十歳だった。