ガイはグランコクマに住むようになってから、よくジェイドの家に来て2人で気兼ねなく酒を飲み交わしていた。
人目も立場も時間も気にせず、ただ他愛ない話をして美味いつまみを食いながら美味い酒を飲む。大人だけが味わえる些細な幸せの時間を、2人は好んで過ごした。
「はぁー、旦那の用意する酒はいつも美味いな」
「なんだかんだで長い付き合いになってきましたからね。貴方の好みもだいぶ覚えましたよ」
「俺もあんたの好みはだいぶ把握してきたぜ、意外と甘いのとか濃いめの味が好きだよな」
ジェイドが酒を用意し、ガイがつまみを用意するのはあの旅をしていた頃からの流れだ。
「煮物は冷ますと味が染みて美味いんだ」とわざわざ前日に作ったらしい大根に箸を伸ばす。一口に切り分けて口に運ぶと香り高い出汁の風味と醤油の深いコクが広がっていく。ジェイドの好みに合わせて砂糖が入っているのか、後味はほんのり甘い。
「…美味しい。」
無意識のうちに口から出ていた感想に、目の前にいたガイは嬉しそうに口元を緩ませて上機嫌で酒を煽った。
無意識での発言を恥ずかしく思う間もなく、自分の口から出たたった一言を受けて喜ぶガイを見て愛おしさが募る。
「ガイ、私のために主夫になってくれませんか」
「おいおい、家事全般やらせようってか。たまに料理作るくらいなら良いがそれは勘弁してくれ」
軽い調子で口説いてみたが、いつも通り流されてしまった。本心から出た「残念です」との言葉も、冗談としか伝わらなかった。
「別にあんたなら家事手伝いくらい雇えるだろ。それかいっそ身を固めちまうとかさ、好きな人とか居ないのかい」
女性との噂ぜんぜん聞かないけど、とガイが笑いながら聞いてくるので「好意を寄せている方なら居ますよ」と言うと、ガイは予想していなかった返事に目を丸くして驚いた。
「えっ、あ….いや、その……そうか。…普通、居る。よな………」
わかりやすく動揺しているガイの様子にジェイドの心が期待に満ちる。ショックを受けてくれているのか、本当に驚いているだけなのか、ガイの心情を推し量っていると「どんな人なんだ」とガイに尋ねられた。
「そうですね…私の事を気遣いが出来る優しい人だなんて評価する変わった人ですよ」
「へぇ、あんたの事理解してくれるいい人じゃないか。もしかして、もう付き合ってるのか?」
「いいえ、恥ずかしながら私の片想いですよ。まだね」
「そうか…上手くいくといいな。」
しんみりと、慈愛と寂しさの入り混じった声と表情でジェイドに告げると、ガイは空になったグラスに酒を注ぎ足していく。
もし先程の反応がショックから来るもので、今の表情も悲しさから来るものならば…そうであってほしいと願いながら、いつもよりハイペースで酒を飲むガイに今度はジェイドが尋ねた。
「言葉の割に、あまり励まされているように感じませんが」
「ああ、悪い。そういうつもりじゃないんだ。ただ、あんたに彼女が出来たら、こうやって2人で飲む機会も減るのかな….と思うと、少し、寂しくなってな」
相変わらず、ガイが自分に向けるものか親愛なのか恋愛なのか判断が難しい。おそらくガイ自身も理解していないだろう部分をジェイドがいくら予測した所で確信には至らないのだが
(愛されているなぁと感じることはあるんですがねぇ…)
それでもどちらなのかはっきりと分からない現状に、ジェイドはため息を吐く。それを勘違いしたガイが「大丈夫だって」と慌てたように励ました。
「優しいって思われてるんだろ?そんなに心配しなくても脈は有ると思うぜ」
「……どうでしょうね…。」
好きな人に架空の女性との恋を応援されている現状を見ると、とても脈があるとは思えない。
もしかしてと期待していただけに、心がみしみしと音を立ててひび割れそうになる。
そんな心を慰めるように酒を飲むが、酒に強い自分にはあまり効果がない。ジェイドは再び深いため息をついた。
「でもまさかジェイドが色恋に悩んでため息を吐くのを見る日が来るとはな、意外だよ。」
「意外、ですか」
「あんたの事だからいろいろ策を巡らせて計算づくで自分に惚れさせるくらいしそうなのに」
「なんとか此方を意識してくれないかと、それとなく口説いては居るんですけどね。予想以上に鈍くて、いつも流されてしまうんですよ」
疲れたようにまた溜息を吐くと、ガイは「意外と苦労してるんだな」と他人事のように言いながら酒を飲んだ。
「意識させようなんて回りくどい事やめて、はっきり告白でもしたらいいんじゃないか?」
「………告白ねぇ…」
正直、考えた事がない訳ではない。しかし、ガイの気持ちがわからない以上勝率は正直不明だ。
出来ればこちらを意識して、反応を伺いながらしばしからかって、しっかりと確信が持ててから告白するなりさせるなりする算段だったのだ。これなら振られる事も嫌われる事もなく、最低でも今の友人関係は維持出来る。
…人に嫌われる事を恐れる日が来るとは、昔の自分からは考えられない変化に、ずいぶんと人間らしくなったものだと感嘆する。
それからしばらく2人は特に会話もないままつまみを口にし、酒を飲んでいく。
ガイの手にした酒瓶から、ぴちょんと最後の一滴が落ちる。もう無くなったのかと口を曲げるガイの顔は赤く目は座っていて、酔っているのだと一目でわかる様子だ。
今日はガイの飲むペースも早かったから、これ以上酔い潰れる前にお開きにした方が良いだろう。そう伝えようとジェイドが口を開いた時、ガイが突然「よし!」と言って元気よく空瓶を机に置いた。
「れんしゅうするぞ!」
「……練習…?なんのですか?」
ガイの酔っ払いらしい突拍子のない言動に、ジェイドはただ困惑した。そもそも、何度も酒を飲み交わしてきたがガイのここまで酔った様子は見た事がない。どう対処するべきかと考える前に、ガイはとんでもない事を言い出した。
「なにって、告白のにきまってるだろ。ほら、あんたすなおじゃないから、そういうのへたそうだし」
「ガイ、あなた相当酔ってますね」
「なにいってるんだよ。ちょっとしかよってないって、ほら、俺がきいてやるからさ」
へらへらと笑いながら言ってのけるガイに頭が痛くなる。何故私は好意を寄せる相手に告白の練習をさせられそうになっているのだろう。
ここは適当に相手をするしかない。頭を抱えて溜息を吐きながら「好きです」と言うと、ガイは「そんなんじゃだめだ」とダメ出しをしてきた。
「いいかぁ、告白ってのはな、あいての眼をみていうんだ」
「…………。」
ふざけた酔っ払いの思い付きだと思ったが、意外にも、ちゃんと告白の練習として意見する冷静さはまだガイにも残っていたらしい。…完全に酔ってくれてた方がまだあしらえたかもしれないと思うと、現状の方がやっかいだが…。
「……愛しています。」
「おいおい、きもちがこもってないぞ」
言われた通りきちんと相手の眼を見ながら言ったが、またしてもダメ出しされてしまった。
「ちゃんと好きなあいてのこと考えてるのか」と、此方の気も知らずによくもまぁ言えたものだ。
なにも知らないガイの言動に若干の苛立ちを覚えたが、ガイの満足するような告白をしなければこのふざけた練習からは解放されないだろう。
ならば練習ではなく、本気で伝えるしかない。そう覚悟を決めて、深呼吸をする。
しかし深呼吸をしても心臓の動きは落ち着くどころか早くなる一方で、心音に邪魔されて思考も散漫になっている。
(これが緊張というものなのか)
そういった感情を知識として知ってはいたが、経験するのは初めてだ。新しい実験をする時も、初陣の時でさえもこんな気持ちにはならなかった。
瞳にガイの姿を映すと、こちらの真剣さが伝わったのか、ガイの緩んでいた表情が驚きに固くなった。
真剣に見つめ合う事で心拍数は更に上がり、言葉を紡ごうとした唇は緊張に震えた。胃の辺りがじわりと痛み、熱を持つ。唇だけでなく体まで震えそうになるのをなんとか堪え、伝えるための酸素を肺に取り込んで、喉を震わせた。
「あなたが好きです」
伝えた瞬間、ガイの瞳が見開かれる。驚きや戸惑いの感情は読み取る事が出来たが、緊張していたせいか複雑な感情に揺れる細かな心情の機微まで読み取る事は出来なかった。
何かを伝えようとガイの唇が動くが、声を発する前に俯いてしまう。前髪をぐしゃぐしゃにしながら頭を押さえて「ははは」と小さく震えた声で笑った。
「なんだ、やれば出来るじゃないか。」
あー、びっくりした。とわざとらしく明るい声で言いながら胸を押さえるガイの表情は、相変わらず俯いているせいで伺う事が出来ない。
普段流している前髪を下ろして表情を隠したガイはグラスに残っていた酒を一気に飲み干すとそのまま席を立った。
「悪い、やっぱり飲み過ぎたみたいだ。今日はもう帰るわ」
顔を隠すようにしながら頭を押さえてらふらふらと玄関に歩いていくガイの後を、焦燥感に駆られながらジェイドは歩く。
「…送っていかなくて大丈夫ですか」
「ああ、酔いを覚ますために、少し、散歩して帰るよ。片付けとか…任せちまって、悪いな。」
「いえ、それは構わないのですが…」
「ありがとう、じゃあ…………本当に、ごめんな……。」
ガイは最後までこちらの顔を見る事なく、後ろ手に手を振って玄関を出て行ってしまう。
逃げるように、避けるように自身から離れていくその姿が、寂しくて、苦しかった。
(…目を合わせてもらえないのが、こんなに辛いとは…)
こちらの思いに気付いただろうガイの口から最後に呟かれたごめんの意味は、考えたくなかった。
翌日になり、仕事で会う事もあるのにどんな顔で会えばいいのか、そもそも顔を合わせてくれるのか等考えながら仕事をしていると、特に気まずい雰囲気もなくいつもの調子でガイが話しかけてきた。
「ガイ、昨日は……大丈夫でしたか」
「ああ、ちょっと飲み過ぎたせいか少しだけ頭痛はするけど、問題ないさ。心配かけて悪かったな」
頭痛のせいなのか、少し声が固い気もするが、心配をかけまいと困ったように笑うガイの表情はいつも通りだ。
ガイは昨日持って帰るのを忘れた料理のタッパーを取りに来たいと言うので、日程を決めて今日は別れた。
こちらの好意に気付いて気味悪がって避けられる。という最悪の事態は回避出来たが、気付いたうえで友人として接してくれているのか、それとも酔っていたから記憶がないのか、はたまた別の理由があるのか…それを判断するには今は材料が足りなかった。
後日、タッパーを取りに来たガイに心の内でだけ恐々としながら「晩酌に付き合ってください」と言うと、意外にもあっさりと「いいぜ」と返事が返ってきた。
しばらく他愛ない話をしていたが、ガイの口からあの日の話題が出る事はなく、ジェイドも意識して話題に出す事はなかった。
それから何度か家で飲みましょうと誘ってみたが、ガイは変わらず誘いを断らない。今もこうしていつものようにつまみを持参し、ジェイドの用意した酒を口にしている。
ガイの態度も言動も、まるであの日の事が無かった事のようだ。変わった事と言えば、ジェイドがガイを口説かなくなった事くらいだろう。
(さて、どうしますか…。)
ガイはおそらく、酔っていた時の事を覚えていない。真剣な告白をなかった事にされた虚しさはあるが、こちらを避けたくなる感情も一緒に忘れ去ってくれたのは救いだ。また以前のように口説いてみるかとも考えるが、次もあの時のように拒絶されたらきっともう今の関係には戻れない。かと言って、この恋を諦める事もしたくなかった。
自分はどうするべきなのか、そんな事を考えながら何気ない会話を重ねていくと、ガイの表情が次第に曇っていく。
そして痺れを切らしたように「なぁ」と不機嫌そうにガイはジェイドを睨んだ。
「あんた、まだ告白してないのか」
「……覚えてたんですか。」
「覚えてるに決まってるだろ。あんたのあんな真剣な表情…初めて見たし…。」
忘れているだろうと仮定していたものが一気に崩れ去る。どうやらガイはあの告白が自分に向けられたものだとは思わなかったようだ。ならば何故彼はあの時、別れ際にごめんと言い残して逃げるように帰っていったのか、何故彼は今こんなにも不機嫌なのか、違うと思われる仮定をひとつずつ取り除いて、残った仮定に希望を見る。
「でもあんたはちっとも女性と噂される事もないし、ここ数日で告白の結果でも報告されるのかと思ってたけどそれもない。本気で好きなら、なんで告白しないんだよ」
あの日、告白をしてから測り損ねていたガイの心情が、ひとつの仮定を埋める事でしっくりと埋まっていく。
まるでパズルのピースが一つをきっかけに次々と埋まっていくような、爽快で黎明な感覚があった。
今もこうして苛立ちながら苦しそうに話すガイの心理も、今なら理解出来る。
好きな相手には、自分ではない好きな人が居る。けれど、好きな人だからこそ、好きな人と幸せになってほしい。
そんな失恋の苦しさと、相手の幸せを願う愛の深さがないまぜになっての感情からだろう。
「…俺は、あんたに幸せになってほしいんだよ。ジェイド」
ほら、と思わず口にしてしまいそうになるガイの言葉に、ジェイドの口角が僅かに上がる。
先程まであった虚しさも不安も、今は跡形もなく消え去っている。代わりにあるのは幸福感と高揚感だ。はやる気持ちを抑えるように、ジェイドはゆっくりと息を吐いた。
「告白なら、もうしましたよ」
ガイは驚いた後、気まずそうに視線を泳がせて焦りながら「すまない」と言い淀む。
「その…まさかあんたが振られるとは思ってなくて…」
「振られてもいませんよ」
「……ん?どういう事だ?返事待ちって事か?」
「いいえ、酔っていたのでてっきり忘れられてると思っていたんですが、どうやら違ったみたいなので…まだ気付いてないんだと思います。」
「はぁ?なんだそれ、思っていたけど違ったみたいって…まるで今知ったみたいじゃ、ない……か……………うん???」
ガイが「ん???」「あれ???」と混乱したように頭を抱えて右に左に頭を捻る。
ジェイドは(やっと気付いてくれましたか)と、久しぶりに悩みではなく安堵のため息を吐いた。
「えっ…?あんた俺のこと好きだったのか?」
「そうですよ」
まだ混乱しているのか、ガイは驚くでも喜ぶでもなく目をぐるぐると回しながら「えぇ…?」と沢山の疑問符を浮かべて戸惑いの声をあげている。
「ところでガイ、まだ告白の返事をもらっていないのですが」
「え?あ…あー、そういえば、そう、だな。」
回していた目を今度は泳がせて、ガイはしどろもどろになりながら口を動かした。
「えっと……お、俺も好き…かな」
「おやぁ、そういうのは相手の目を見てするものだって言ってませんでしたか?」
あの日、ガイに出されたダメ出しをそっくり返すと、ガイは悔しそうに歯を噛み締めて「うぅ…」と唸った。
顔を赤くして、泳ぎそうになる視線を堪えながら見つめてくるガイを見る。ああ、そうやって此方を意識する顔がずっと見たかった。心が満たされていく感覚に、自然と笑みが深くなる。
「お、俺も…愛してる…よ。」
「言葉に対して気持ちが感じれませんねぇ」
やり直しです。意地悪くにっこりと笑って言うと、ガイは「ああもうわかったよ!」と叫んでから、喝を入れるように自身の頬を二度叩いた。
胸に手を当て深呼吸をしたガイの、覚悟を決めた真剣な瞳にジェイドの心臓が跳ねる。
「あんたが好きだ。」
この一言を引き出すために、今まで散々苦労してきた。口説いても流されて、口説かれて振り回されて、挙句の果てには勘違いしてすれ違った。それなのに、このたった一言で全ての苦労が報われていく。
「上出来です」
報われるどころか、泣きそうになるくらい幸せなのだから、恋愛とは恐ろしいものだ。
そう感じながら、ジェイドは目を細めて笑みを深くした。