・園家誠二(1960年ー)
 園家誠二は富山県出身の抽象日本画家である。1984年に東京学芸大学卒業後は複数の展覧会に出品し、また複数の個展も開催している。現在は個展は開かれていないが、日本経済新聞本社ビルにて「月光」「うつろい」の二点が展示されている。

 私が園家誠二の作品と出会ったのは中学一年の頃であった。当時は絵画作品への興味は殆どと言って良いほど無く、"抽象絵画"というものがどんなものかという事やその良さについては何も知らなかった。その頃の私が園家誠二の抽象日本画を見て思ったのは「何を描いているのかわからない、黴の絵みたいだ」という事であった。
現在は多少の絵画の知識も関心も有るため、改めて園家誠二の作品について考えてみたいと思う。

 園家誠二の作品はどれもアクリル絵の具、岩絵の具、墨、雲母、金泥などをエアブラシを用いて木枠に張った紙に吹き付け、柔らかなタッチで描写している。作品製作をする際に取材する事は無く、それまで見てきた風景、光景の中から目に浮かんだものやイメージ出来たものを描き出しているという。画面は横長のものが多い。

 作品のタイトルは「山 川」や「星月夜」、「月光」など具体的なものをイメージさせるものもあるが、「うつろい」のように抽象的なものも存在している。園家自身は、作品をどう観るかは鑑賞者に任せ、自らは総体的に作品名をつけていると語っている。
 「山 川 3」を見てみる。「山 川」シリーズは画面が全体的に暗い印象が強いが、「山 川 3」は画面内に白を用いた部分も多く比較的明るいイメージである。「星月夜」ほどではないものの、画面上部の左右の隅には墨の使用が少なく、地のままの色に近い明るさである。私はこの風景を川の様子ではないかと考える。この作品からは冬の冷たい空気のような、夏の森の中での朝もやのような冷たく澄んだ空気を感じる。園家の作品にはどれも言えるかも知れないが、霧雨のなか、もしくは上述したように朝もやの中から向こう側に広がる景色を覗いているかのような不思議な気持ちになる。「山  川 3」は特に、画面中央付近に散らされた白の岩絵の具の存在が、山の上、崖から落ちてきた大量の水が下に落ち弾けとんで発生した細かい水しぶきが、画面内の空間に充満する様子をよく伝えてくる。この白の岩絵の具の有無で、この作品全体に感じる印象は大きく変化するのではないだろうか。これが無かったとすると、静かに滴り落ちる水というような印象に変わるのではないか。この水しぶきは自然の激しさ、力強さなどを感覚的に伝える役割も持っているように思う。
 同じシリーズの「山 川 4」を見ると、こちらも縦の動きが強い"水"の表現であるように見えるが、こちらは「3」と違って穏やかな滝の裏側から外の風景を眺めているような静けさがある。左端に見える黒っぽい縦の筋は傍らの古木のようにも見えるし、岩肌のようにも見える。
 こうして園家の「山 川」シリーズのみを見ているだけでも、園家の表現する風景が鑑賞者によって本当に様々な見え方をするのだろうという事を実感する。今回これだけ観察し考察した「山 川 3」も「山 川 4」も、また明日見直してみると全く別の風景に見えるかも知れない。実際「山 川」の残りのシリーズを見ても、山の形のように見えはするものの「絶対にこの絵は○○を描いている」という確信は持てないし、人によって様々なものに変化するのだろう。雨の降る中遠くに見える山を見ているようにも、静かな池や湖の水面に映る風景を描いているようにも見えてくるのだ。
 園家は「こういった風景を表現したい!!」「この場面を人に見てもらいたい!!」と思って描いているのではないのかも知れない。見る人見る人それぞれが考える美しい風景を想像させたいのではないだろうか。画家自身が表現したい事を作品に表し、鑑賞者がそれを受けとるという一方的な美術鑑賞の形ではなく、画家が示した非常に抽象的なビジョンの中から鑑賞者がそれぞれの美術を当てはめていくという相互に影響しあう美術鑑賞と言って良いのではないだろうか。イメージを押し付けてくる作品ではなく、園家の作品はどれも鑑賞者(受け手)がつくりだすアートと言えるだろう。
 私以外の様々な人々が園家の作品を見て、どのような印象を受けるのか、どんな気持ちになるのかが気になってくる。全く違うものに見えるとしたら、これほど興味深いアート作品は無いだろうと考える。