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私の性犯罪に対しての意見を、書いてみようと思う。

思うところあって、自分が性犯罪者に対してどのような意見を持っているのか、自分で分からなくなってしまったからである。


ここに記すことによって少しでも自分の考え方がまとまれば、と思う。

ここで言う性犯罪者とは、迷惑防止条例とされる軽度の痴漢から、強姦殺人まで、いわゆる性的な犯罪という括りの中で事件を起こした人間という意味である。

今まで性犯罪者というのは、私の中で最も嫌悪すべき存在と言っても過言ではなかった。

自らの性癖の為に、他人を犠牲にする。実際に人が亡くなったり、望まぬ妊娠や怪我をしてしまったり、そういう物理的な"犠牲"がなくても、精神的な傷、恐怖、トラウマを抱える事は十分に「被害」と言えると思う。

一方で、被害の程度によってはあまり精神的なダメージを受けない女性もいる。
かくいう私もそういうタイプである。軽く太ももに(もちろん故意に)手を這わせられたり、股間を押し付けられたりした際は多少の怒りは湧いたものの、それは性犯罪への嫌悪感による怒りであり、よく聞く恐怖で電車に乗れないとか、男性不信に陥るとか、そういった影響の受け方はしなかった。

とはいえそれは現在の私の話である。
何も知らない中高生の頃であったら、痴漢にあったら涙の一つや二つは流したかもしれない。とはいえその頃には痴漢どころか日常的に電車に乗ることさえなかったので推測に過ぎないが。



しかし、私個人が痴漢されたことで大きすぎるダメージを受けない事は、痴漢を正当化する理由には一切ならない。

痴漢には、相手の女性がどんな女かなどわからないのだから。


上記から、性犯罪者の"罪"は、他人に被害を与えるという部分が一番大きいと考える。

自分の性欲・性癖の為に他人を犠牲にする。その事の罪の重さというのは、私の考える「性犯罪者への嫌悪感」の中で一番大きい部分を占めている。

他にも、リスクやら何やらを天秤にかけられない愚かさやその再犯率の高さなど、私からすると忌むべき部分しかないのではあるが、ふと、
「では友人が性犯罪で捕まったら?」
という考えに囚われた。


付き合いの浅い友人であれば、私は「あの人にはそういう本性があったのか」と思うし、その人間と接点のあった自分を恥じて、関係を絶つのだろうなと想像する。


では、それが一番の親友や幼馴染み、心の底から信頼していた友人であったらどうか?
きっぱりとその人自体を否定してしまえるだろうか?
その友人と過ごした年月や思い出、その人のいい所や優しさなどを、全て嘘だとして騙されていた自分を恥じるだろうか?

恐らくではあるが、答えはNOである。

縋るように、「出来心だったんだよね?初めてそんな行動を起こしたんだよね?」「冤罪なのでは?」「誰かに脅されたのでは?」と、問いただしてしまうかもしれない。

更正や社会復帰、治療の手助けをし、一刻も早く元通りの友人を取り戻したいと願うだろう。反省する友人の支えになりたいと、思うだろう。



ただし、それはその犯罪者の、犯行に至った経緯によるのではないだろうか。


痴漢を目的に電車に乗る、という人間がいるらしい。論外である。他人に嫌がらせをするためだけに公共の移動手段を使用していると言っても過言ではない。ここまで来るともはや病気で、そんな人間が捕まった時点でまず「初めての痴漢」ではない。家宅捜索を行えば痴漢モノがたくさん出てくるのではないだろうか。AVで済めばまだ良い。盗撮や、痴漢行為に最適な車両(もちろんそんなものは実在しない)に関しての情報も沢山出てくるかもしれない。
一昔前の埼京線にはそんな輩がウヨウヨいたらしいが、全員まとめて去勢するか、ロボトミー手術を施すべきである。私が執刀してもいい。
もし知人がそのような人種であることが判明したら、たとえ命の恩人でも縁を切らせてもらう。


そして、いわゆる「魔が差した」という人達も沢山いるものと思う。
例えば酔っていたとか、仕事で追い詰められ途方もないストレスを抱えていたとか、そういった人たちが「今までそんなことしたことなかったにも関わらず犯行に及んでしまった」というタイプである。こちらは、痴漢願望という病気に侵されている人種とは異なるものと私は感じている。

混雑した車両の中、ふと女性の尻が荷物を持った自分の手に当たる。どかそうと思えばその手を上にあげることも出来るが、「不可抗力だしな」と鼻の下を伸ばしあえて手を動かさずにいた所、捕まってしまった。そんなケースもあるだろう。

まあ、こちらのケースも私からすれば「スケベ心に負けた大バカ野郎」ではあるのだが、「元々あった病的な犯罪欲求に負けた犯行」よりは、いくらか救いようがあるのではないかと思っている。




「スリルを楽しんでいる窃盗犯(万引き)」と「その日食べるものに困って盗みを働いた貧困者」くらいの違いはあるのではないだろうか。

「快楽殺人を目的としたシリアルキラー」と、「親の敵を殺めた復讐者」とでは、例え殺した人数が同じでも受ける印象は異なるのではないだろうか。

どれも目的のために犯罪に手を染めた人間であることには変わりはないが、個人的にはその経緯をもってして「許せる」「許せない」の差があるようにも思える。

(もちろん 許せる、というのは罰するべきではないという意味ではない。)



要は、本当に自分が親友だと思っていた人物が性犯罪をおかした場合、その経緯や理由や背景がどうであったのかによって、その人物を支えていく決心をするのか見捨てて縁を切るかが変わってくるのではないか、と、思ったのである。


しかしてこれは結論ではない。
これからも暫く、この疑問に関して私は考え続けるのだと思う。

性犯罪者への自分の気持ちを明らかにするというのも些か妙な試みではあるが、もしかしたらこれは私の人生においての大きなテーマのひとつなのかもしれない。

前回の記事において、


"今、この状態の私が自分で抱えきれないストレスを受けてしまった場合、どうなるのだろうか?という不安がある。

鬱になる、または自殺してしまうだろうか?はたまた、人を殺してしまうだろうか?"


という文章を、私は記した。

運命のいたずらというのか、むしろその文章を読んだ誰かが「なら試してみましょうか」とでも思ったのか、現在、私は今までにない大きさのストレスを抱えている。

具体的な文章にする事も出来ず、友達にも同僚にも親にも絶対に相談できるような内容ではない。かつ、ほぼ100%自分の責任ではない出来事が私に降り掛かっている。

誰を責めることも出来ず、自分を責めるのもおかしい様な、かと言って他人に口外もできない。人生にはこんな事も起きるのかという驚愕が、ただただ私を攻め続ける。


例えるとしたら、ある日突然母親が自我を持ったまま豚になってしまったとか、自らの職場である営業課に出勤したら「今日からここの課は風俗店になったから。ほら脱いで」と言われるとか、ペットの犬が隣の奥さんを孕ませたとか、そんな種類の衝撃である。


まず、その出来事が起きてから約3日が経ち、それが私を揺さぶり始めてから2日程が経とうとしている。
この3日近く、固形物をあまり口に出来ていない。

正直な所もう、1口分たりとも食欲が湧かないのだが、それでも仕事には行かなければならない。無理矢理パンとコーヒーを口に押し込んだが、吐き気と胃の痛みの前にその気力も失せ始めている。

普通に日常生活を送りながら餓死を迎えるというのはありうるのだろうか?
自分の体を以て経験してみたい所だが、最終的な結果が確認できないまま死んでしまうという可能性はなんとも皮肉である。

基本的に、私は怒らない。

怒らないというより怒れないのである。

過去、私はかなり短気な方だったと思う。

同級生や教師が私の悪口を言っていると聞けばすぐに本人を問い詰めたし、気に入らないことがあればすぐに口にも、態度にも出した。
手を出した事もないと言えば嘘になる。

しかし、社会に出て私は初めて挫折を経験した。
初めは、男関係。次に、仕事関係で。

その時の私といえば酷いもので、家に帰ればヒモに金をたかられ、盗まれ、持ち物を売られ、捨てられ、時に殴られ、手を出されずとも精神的な攻撃は常に受けていると言っても過言ではなかった。そのまま寝不足の目を擦り職場に付けば、上司のヒステリー気味の叱責を受けるのである。

上司の手口は今思えばずさんなものであるが、例えば書類の置く場所を間違えようものならすぐさま怒鳴りつけられ、謝らせた上で「お前の為を思って言っているんだ」と正当性を認めることをこちらに要求する。その謝罪も、相手の言い分を認めることも、強制された訳では無い。頭を押さえつけるなどという"非常識"な手は使わずに、正論のみで相手をやり込める。そもそもの発端は私のミスであるので、私も自分の非を認め疲れた頭で反省するしかない。その後で、「嫌なら良いんだが、」と残業及び休日出勤に協力して欲しいという「お願い」をしてくるのだ。当時その上司と私の間には倍ほどの年齢差があり、社会経験の長さにおいては数十倍の違いがあった。単に私の経験不足ではあるのだが、「ミスしたのはすみませんが残業はできません」などと言うことは、当時の私には選択肢に挙げることすらできなかった。

そうして、当時の私のひと月の勤務時間は300時間ほどになる事もあった。未払いの給料もあった。勤務時間や連勤の数はどんどん長くなり、要求される「従順さ」のハードルも高くなっていった。しかし私は「社会人とはこういうものなのだ」という洗脳に見事に染まり、ヒモと上司の間を行き来するゾンビと化していった。

しかし私は過労に倒れたり、心労に負けて自殺することはなかった。
ある時、目が覚めたのである。


ある日、私が13時間の勤務を終え帰宅すると、そこではヒモとその「飲み友達」のどんちゃん騒ぎが繰り広げられていた。
酔いの為に回らぬ呂律で何かをいうヒモを押しのけ、私のクローゼットの前でくだを巻いている飲み友達という名の浮気相手を無言で退かし、着替えを持ち出し職場に戻り、眠った。
そして、初めて「浮気」をした。

もはやヒモと私の交際は破綻していたのでそれを浮気と言うのかはかなり曖昧になるが、とにかくそこからの期間、私は数年ぶりに(ヒモ以外の)複数人の男性と関係を持った。

ヤケになっていた訳ではなく、「自らを洗脳から解く手段」として、私は"遊ぶ"ことを選択したのである。


洗脳というのはヒモからの、そして上司からのである。


そのような生活を始めて家にあまり帰らなくなり、程なくして私は驚くほどすんなりとそのブラックな職場を辞め、ヒモを家から追い出すことに成功した。


しかし、その2重の洗脳を受けていた頃からそれを抜け出すまでに、私は「怒りを人に向ける」という機能を失ってしまった。

俗に言う「溜め込むタイプ」という性格になっている状態である。
現に、どうでもいい様な愚痴も何かに昇華することが出来ず、これは良くないとこのブログを開設した次第でもある。

今、この状態の私が自分で抱えきれないストレスを受けてしまった場合、どうなるのだろうか?という不安がある。

鬱になる、または自殺してしまうだろうか?はたまた、人を殺してしまうだろうか?

「怒らない」という事は「いい事」ではないのだろうか?

まだ、私は答えを出せない。
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