例によってまた朝食がてらお兄さんと会話してました。最近の名前について話していました。
管理人「ココアちゃんとかって婆ちゃんになってもココア婆ちゃんなんですよね」
お兄さん「ですねぇ。最近の名前かなり怖いですよね」
管理人「ココア婆ちゃんとかカントリマームに出てきそうですよ」
お兄さん「(笑)」
矢張り管理人は年上の方と話す方が楽しかったりしますね。両親や姉と話すのとは違いますね。家族は家族としてでしか話せませんから、子が云う事は結局子が云うことになってしまって、正されるだけになってしまうんです。我が家の場合は、ですが。離れて暮らす祖父とは沢山話せるのですが、元々私が哲学やらの理屈云々言い出したのは祖父の影響ですからね、話し合いが楽しい訳です。理論的なのは祖父で、母は人情的なのですかね。嫌がられるのですよ、哲学を話すと。人間は理屈だけじゃないの!と言われてしまいます(´∀`)はははっ
だから話さないようにしています(苦笑)
人生半分も生きていない人間ですから、云うことは穴だらけですし、半人前ですから、目上の方と話せば話すほどスッキリするんですよね。料亭のお兄さんは、凄く話が上手かったので、纏めて易しく話してくれたんですよ。矢張り他人と話していると、視野が広がりますし楽しいです。
さて、スーパー屁理屈タイムです。
精神病の人を見たとき、丸で自分が精神病ではないし、遠く掛け離れたものと思いがちです。例えば、気持ちが滅入った時に精神科医に行けば「(重さに関わらず)精神病」と言われてしまいます。外傷とは違って、目に見えない心の痛みですからね。それでは単純に言ってしまえば、私だって精神病です。人のざわめきや囁きが誹謗中傷に思える時があります。この角を曲がれば、ナイフを持った人間が居るかもしれない、と思ってしまいます。けれど、大抵は皆様も考えた事があると思います。断っておきますが、二十四時間考えてはいませんよ。一日のほんの一瞬です。
お察しの通り屁理屈です。
だからその基準で話せば、全ての人が精神病であり、成りうると思えてしまうわけです。
勿論、言葉の通じないような人もおりますが、精神病や神経衰弱、鬱病や抑鬱症等の名を聞いたときの、私達の反応は余りにも冷ややかです。けれど私の屁理屈からすれば、誰にでも可能性は有ります。心の中での批判よりも口の批判が一番惨いです。
もう一つ、私達は宗教と聞くと危ないものを想像してしまいますし、私も宗教は苦手です。けれども例えば憧れの人を目前にした時、私達はそれに近付こうとします。変な話、それも一種の信仰と宗教の体型です。媒体(信仰対象)を憧れの人とし、心酔し崇める訳ですね。だから、宗教とは決して全てが全て悪いものではないのですよ。ただ自分が無いと呑まれてしまうのは有りますが。
私が気に食わないのは、そうですね、信仰が全てになっていることですか。宗教を使って自分を高めるのではなく、宗教が全てに成っているような気がしてしまうのですよ。宗教は間違えでは無いですが、それに呑まれることを私は良しとしたくありません。魂の救済を他人だけには押し付けたくない気持ちもありますし(苦笑)
間接が切れた時に間接を繋げるのは他人ですが、完治させるのは自分ですからね。魂に於ける目標は使いますが、それに基づいて行動するのは私です。別に目標が価値ではなく、行動することに価値があるのだと思っています。この考え方でいくと、宗教に価値があるわけではなくて、それに基づいて自分を形成することが大事ということが言えます。
回りくどい……、簡単に云えば、信仰や宗教に価値を置くのではなく、使おうよという話です。
それに、自分の魂を信じるよりも、肉体を信じた方がシンプルで確固たるものです。そして肉体が信じられないのならば、コギト・エルゴ・スム、そう考えている自分が居ることに変わりは無いです。
肉体と魂を分ければ分けるほど遠く成ってしまいますからねえ。むつかしく考えないで、楽に構えたいです。
ふむ。無い頭をつかったせいと隣の姉様の香水がきついせいで頭が……。しかもバスの最後尾、盛大に揺れる。
うぇっぷ|||orz|||
胃薬何回目だ……。これから私は宿の人に恩返しせねばならない……!倒れるわけには!←
倒れるわけにはいかない!
嗚呼でも酔いには敵わない……。