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静観塾?/一日目・6

●静観塾?/一日目・6

  「では不動心というような、、他からの影響によって動かされなくなるような心を作ることは可能なんでしょうか。
  無理してポジティブになるんではなく、いつも自分を平常心に保てるようにすることは出来るんでしょうか。」
  私は二人に答えを求めるという口調ではなかったが、香奈が口を開いた。
  「お坊さんのする坐禅のようなことをして、精神修行みたいなことをすれば出切るんではないでしょうか?」
  確かに香奈の言ったことは当たっている。
  しかし、私は形や技術的な方法論を問題にしている訳ではない。
  人体科学的に、心に変化を与え、それを人間性にまで高めることが出来るのか、そして、気功はその問題に何処まで迫ることが出来るのかという問題提起なのだ。
  「気功では『入静』ということが重要だと聞いたことがあるんですが、それと関係あるんじゃないでしょうか?」」
と京が言った。
 すると、香奈も続いた。
  「私も、入静のない気功は気功に非ずってこと聞いたことあります。」
  「そう、気功で言う入静への取り組みが不動心を作ってくれるんではないかと、私も考えているんですよ。」
  そして、私たちは「入静」について考えていくことになった。
  「永い間、気功の修行をしている人が練功している時、彼の体は入静状態になっています。
  私たちも練功の時には入静状態を目指さなければならないんですね」
と、私は話した。
  「入静状態というのは、自分で判るんですか?」
  香奈が訊いた。
  「練功の最中にそんなことは考えていないとは思いますが、多分、判ると思いますよ。」
  「それはどんな状態なんですか?」
と、京が訊ねた。
  「幾つかの条件があるとは思うんですが、私が重要視しているのは『体感への没頭』という点なんです。」 
  私が応えると、香奈が身を乗り出して訊いた。
  「体感への没頭って、どういうことですか?」
  「そうですねぇ、その話は、実習を伴って、それこそ『体感に没頭』する取り組みによって体で判った方がよいと思いますので、それは次回にし、今日はこれで終わりましょう。」
  私が言うと、二人は少し残念そうな顔をしたが、もうかなり夕方になっているのを知って、諦めたようだった。
  私は二人を玄関まで送り、気をつけて帰るようにと告げた。
  「ありがとうございました。
  次回を楽しみにしています!」
と、香奈が言い、二人は愚庵をあとにしたのである。

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