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過ぎる言葉のなんと儚い



どこかで自分を強く打つ言葉があったとして、それは長い年月で自らの変化とともに薄れていくのかもしれない。
勿論そうでないものもある。
言葉自体が消えるか、残るか。内包する意味が変質するか、混濁するか。
どちらにしても、受けとる感情や衝撃は、出会ったその一瞬のみに許されるてするならば、素敵な言葉には何度でも出会いたいと思いますな。
同じ言葉ですら、また出会うことができるのが生きているものの許された権利なのですから。



涼しくなりましたね



このまま秋になるのでしょうか
蝉が時折襲い来るんですよねぇ…
生きやすい気温ではあるのですが


白月の讃歌

タイトルまるで関係ない

何かを得ようとして、行動するとするならばこれまで持っていたものの何かを捨てなくてはならない。とするならば、必要なのは取捨選択か、それとも行動自体が本当に必要なものかという考えか。
変化の値は大きくとも小さくとも関係なく、何かを行うということはある意味では自身の提示であって、他者の評価から逃れることはできない。自分一人で行うことであっても?いやいや、露見するのが行動したそのタイミングとは限らない訳で。

言葉は自らを映す、と私は考えております。扱う言葉は結局のところ、消せない足跡のようだなと。それは知識か、経験か。それを扱うタイミングも内包する意味も、裏に隠した正体すらも、自分を超えては出てこないのですから。
持論なんて大層なものではないですが、律するのに明確な形を持たせるのに、言葉というのは便利なのです。勝手は別として。

主題なんてあったかしら。散文は得意だぞ。あっちにいったりこっちにいったり、私など伝えたいことひとつすら自分のなかに留め置けず、表すには仮に千の言葉を持っていたとしても不可能なタイプなので、思ったことをたかたか打ち込むことしかできないのです。

さて、この行動と言葉、人格というものに含まれるとするならば、私という人間はどこでその人格を理解されるのでしょう。常日頃の行い、などまさしくと思いつつも、結局のところ常日頃というほど長く見届けるには相手との錯誤が大きくないほうがいい。常という言葉の中には、一時一瞬の誤解やら食い違いやら差異やらの積み重ねが隠れている。

ゲームオーバーの尺度は測りようもない。けれどそれを見誤ると凄惨なバッドエンドが待っている。不可能なことを可能軸に置いて持論暴論真実混ぜ込み清濁混合なんかでもっともらしく言うとどちらかが食い潰されることが往々にしてあるわけだ。まあ、そこまでの関係が築けるだけでも拍手喝采と思わんでもないですが。
私の目標値はとても低い。生きるということへの消化速度を抑えておかないと、先に体力尽きてしまうのでね。生きる術を考慮しながら、死ぬことに憧れる。この葛藤は別に、死にたがりとかパフォーマンスなんてものじゃないのですよ。プラスマイナス全てはバランス、でしょう?
天秤の上に乗せるものは人それぞれであって、比重も違うですしね。

さて、考えることをほぼほぼ止めてから、何を見ても前のように文への構築へ向かうことが無くなってたのですけれど、多少は言葉の繰り様を思い出せるようになったかな。ということは、脆く揺れやすい感情も引き連れてくる訳だけれども。

ちゅうに結構浅学上等。私にできることで示すしか、後にも先にも今にもできることはないのです。残念ながら格好もつかない。
それでもある関係には感謝でいなくては。いたい、と思うことに、いられる、という高揚に、歪んでしまうほと純粋にね。

いろはもしらぬはなんとしよう



初めてのことに挑戦するのは大変苦手な私ですごきげんよう
サイト立ち上げたときのバイタリティー思い出して…という感じです。
やってると大変楽しくなるのに開始までの時間があまりにも長すぎるのはモチベーション維持の体力がないからですかね?飽き性極めてしまったのかしら。
落ち込みやすい性格なのであんまり右往左往しないために手広くやらない質ではあるんですけど、まあ失敗の恐怖ばかり学んでくるのほんとにいくない。新しいことは難しくても楽しいことがいっぱいなんだな!って感じです。

何が言いたいかって何も言いたいことはないんですけど、こう、たったひとつが波及して何もかも投げ捨ててしまうのはよくないですよね。私なんか極端な性格だからやってしまいがちなんですけど。ここまでこの性格が変わらなかったということは今後一生変わらんだろ…と思うのですがこの不安定さだけは何とかしたい。積み上げろ経験。とはいえ失うものの方が多くなるようになりましたので逃げ腰なんだなあ。

何だかんだ言うは易いが行うは難しってなことでございまして、頭でっかちで実感のない言葉を繰るのは私も不本意ですので、もうちょっとメンタル強くいきたいよね。まあこうしてる間にもやらかして実はもう見限られてました我慢させてましたなんてありそうだけど。あるだろうな。

さて、たまに出て来てこの内容というのも残念至極って感じですね。小話のひとつでも引っ提げてきておれば弁解のしようもあったものを。誰にだという話。需要なくても書くのは私の気持ちの話なので弁解は自身にかな。これぞ無意味といったところか。まあ自分を納得させておくのは生きていく上で必要だけど。行き過ぎはよくないよね、何事も。

さて夏の暑さも彼岸まで。彼岸ていつだっけ。
また今年も生きてしまったので半期分の反省をしとこうかな。心の中でね。
それではまた会う日まで。
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