スポンサーサイト



この広告は30日以上更新がないブログに表示されます。

ああそうそれだ


まどろっこしいことはなしだ

私は本気のぶつかり合いを
どうしようもなく求めてしまったのだ

それが私が何度望んでも手に入れられなかったもので、どこまでもどこまでも羨んでしかたないもので、泣いても泣いてもたどり着けないスタートラインなんだと
掬い上げる手でも、包み込む安寧でもない
私はその激流のごとく、正面から向き合う嘘偽りのないそれに、ずっとずっと焦がれていたのだ



今考えてる話ィ


忘れないようにね

続きを読む

誉めよ讃えよ



私褒めるの不得意なんですよね。まあ褒めてもらうことが人生でほぼなかったし、認め合えるなんてこともなかったし、報われることも無かったからには無かったからなんですけど。
でも多分、人のいいとこを見つけるのは得意なんですよね。多分羨む感情の派生なんでしょうけど、正直そこは得意だと思う。この人がどう視点をもって、どうしているのか。そこから何がみえるか、何がよくてそれがどう活きると思われるか。そういうのを見つけるのは多分、得意。
まあそれが上手く伝えられるかと、私が伝えることで相手に受け取ってもらえるかは別の話。拒絶とか無意味になることの方が圧倒的に多い。

それでも言うのは、なんでですかね。言葉自体の美しさにひかれるからなのか、私が報われなかったそれを、誰かが報われてくれることで、この思いを晴らそうとしているのか。

好意の返報性じゃないですけど、返ってくるいつか、誰か、同じ位置に立てる、そんな人を求めているのかなと。面倒な性格のわりに、その面倒さを諦めているからまあ無理だと思うんですけど。
それでも思うだけなら自由ですよねえ。


善意の見方を教えて



たとえばその言葉を向けられたとき、
私はそれが
「私のことを思って私のために言っている」
「その人自身のことを思ってそうであってほしいという希望で言っている」
「その人の大切な人を思って大切な人を守るために言っている」
「大切な人と私が、もしくは、懇意にしたい人と私が、関わっているために、仕方なく私にもそれを言っている」
とか、どこに重心を置いて言っているのかが分からないんだ
だから私に言葉を向けるの、無理しないでねって思うんだけど、それは多分受け取り方が間違ってるっぽくて、どうしたらいいかわからない。

ひねくれてるとか歪んでるとか、まあそれならそれでいいんだけど、何故そう言い切れるのかという明確さがないと、私には多分、言葉を、特に善意の言葉を理解するのは難しい。


私に向くのは、いったい普通のひとはどんな感情なんだろう。嫌悪とか、拒絶とか、見下したり無視したり、どうでもいいものとして興味が無かったりとか、そういうのが多いから、そういうのはすぐに判断できるんだけど。
私に、そう言葉を向けてくれるのは何を思ってなのかが分からない。
分からないし、多分、教えてもらうことが難しい所なんだと思う。



世界が明るくみえるたび



自分の薄汚さを再認識する
どうしたら人と並んでもいいようになれるのだろうかと
この卑しい感情を消し去れるのかと
死んだところでこの根底の泥は消えない
一生抱えるのが生温いほど何生でも抱えて償わなくてはならない

馬鹿だ
本当に馬鹿だ



前の記事へ 次の記事へ