冗談だろ。
徹夜続きの頭をドライアイスで殴られて、凶器消失アリバイ完璧、完全犯罪にでも出会したかのような衝撃だった。日野の口からは前の言葉が漏れ、最早立つことも儘ならない程の脱力感が襲ってきた。もし少しでも身体を動かす力が残っていたのなら、データだけでなくこの世からオサラバするところだ。日野は成す術もなくその場に呆然と座り込んでいた。
少しして、日野の精神を繋ぎ止めるかのごとく携帯が鳴った。ボタンすら押さなくても、最近の機種は優秀で、日野がか細く答えた声をしっかりと聞き、自動的に通話モードへと移る。
「もしもし?……その様子だと、状況は芳しくないようだね」
電話の相手は日野の沈黙を即座に解釈し、諦め混じりに声をかけてくる。松江、と名前を読んだ日野は、思い出したように涙を流し、嗚咽混じりに泣きわめいた。
「しょ、しょう、松江、データが。データが吹き飛んだ。1ヶ月ほぼ寝ないで、まともに飯も食わず作ったデータだ。つまり俺の1ヶ月の生命そのもの。寿命とやらをそれに費やしたようなものだ。金よりもよっぽど簡単に消えちまった。もう間に合わない。俺は悪くないのに」
「はいはい。こっちも3日分のデータがおじゃんだ。うちの独自サーバへのウイルスだな。追跡調査をしてるが、相手はいい腕してるぜ。俺が見つけられないなんて」
「たかだか3日で同じなんて言うなよ。お前の3日に俺の貴重な1ヶ月が同じ比率なんてそんな話はない。いいか。1ヶ月あったら俺は世界征服だってできる。それだけ重要なデータだ。国家機密なんて十分の一の額で買えちまう」
「だったらその腕でウイルス対策なりなんなりすればいいのに。自信だけじゃ飯は食えないぜ。攻守揃わなきゃ、マウンドに上げてもらえないのがうちの業界だ」
「へっ。わかってるさ!寝て起きたらそれくらいやってやる。もう疲れた。俺は疲れてるんだ。お前はこっちの様子なんて盗み見てないで、さっさとちまちま情報を集めとくんだな」
「りょーかい」
日野は生気を取り戻したかのように最後の方はほとんど怒鳴るような声で捲し立てると、どかどかと自室へと歩いていった。接続を切ることもなくその騒音を聞き届けた松江は、携帯端末の画面越しに肩を竦める。
いつものことだが、今日は特にタイミングが悪かった。話すらできないとは。
「参ったな、日野。今回は厄介だ。お前の意見が聞きたかったのにな。実態のないウイルス。まさかここまできてるとは」
松江のパソコン画面には、文字化けのようなものが全体を埋める、毒々しい色をした画面が広がっていた。最近話題の幽霊ウイルス。その噂の特徴が、文字の端々に現れていた。
「わが社も死ななきゃいいがね」
松江は酷く複雑そうな顔をしながら、苦いコーヒーを飲み干した。