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名前という呪


名前がある。
「鏡」と描いて「あきら」と読む。それが私の名前。
押し付けられた夢に従うことしか許されなかった子ども時代。
だからこそ、自分の思いを、自分の本当の願いの姿を
見つめる事を忘れてはいけないと刻んだ名前。

その少し前、高校時代にもあきらと名乗っていたけれど、その時は「晶等」と書いていた。
ふざけて「しょうら」と名乗ったりもした。
音が良かったし、何より文字からその印象が強かったからただそれに従った。


あきらという名前。「晶」。
これは、私が生まれる前に、母が私につけた名前だ。
ひょんな事でこれが戸籍に登録して貰い損ねてしまったのだけれど
この名前を聞かされた時から、私は「これだ」と違和感なく、とれも気に入ってしまったのを覚えている。


結晶や、透き通った物を見ると
追いかけてしまう。
あまりにも綺麗で。好きで。


よくよく考えれば私は、晶を手に入れ損なった人間だったのだ。




今は専ら哀哭と名乗って「あいこくさん」の愛称を頂いているけれど
こう名乗り出した時にはどこか馴染まない感じがあったものだと思う。
自分にぴったりの言葉を探した。
呼ばせ名的な、つまりこの人は何者なのかを掲げる名義だ。

歌の人?絵の人?写真の人?
悲哀と慟哭の歌を歌って、悲哀と慟哭の絵を描いて、悲哀と慟哭の写真を求めて
つまり悲哀と慟哭の人なんですね、と。
所属バンドを失ってから、幾度となく腰を落ち着かせるバンドを見つけられなかった私が
名刺としての手段として生みだした名義だった。
名前があるだけでは足りなかった。
いや、バンドの世界では、バンド名こそが名前だった。
名前を持たない存在に、存在としての力は無かった。私はそう感じた。
だから私は意味のある1つの言葉を、名前とは別に名乗り始めた。

あれから暫く経った。
多くの人に呼ばれて、この人がそれだと、そう解釈されていくうちに
ようやく私は「哀哭」になれたのだとおもう。

名前は、人を縛る呪(しゅ)だ。悪い呪縛という意味ではなくて。
人がその人で在ると示す、存在力そのもの。
人がその人で在ると証明して貰う、周囲の人たちの祈りや願い。
人がここに縛られ、つなぎ止められるための。


少し前に、自分は「ボス」と言う突拍子もない呪を貰った。
貰ったというより、半ば無理やり決定されてしまった。
人前で萎縮してしまう私に、お前は、そうでありなさいと。
縛りを与えられ周囲の人間にそう呼ばれ、そうであることを求められ
そして私は気がついたら「ボス」になってしまっていた。
正直当初は、ふざけた名前で真面目なシーンでもそう呼ばれるのは恥ずかしいような気さえしたけれど
私がボスになってからは、とても大切な縛りになっていた。
これを与えた奴は、確信犯だったに違いない、やられたなぁとおもう。


今の時代、そう気にするような事は一般にはないけれど
大昔は高貴な人間の名前を唱える事は大変な罪であったらしい。

なんとなく、解る。

昔から外出先などで、大きな声で親に名前を呼ばれるのが嫌だった。
親に呼ばれる事が嫌だったのではない、周りの人間に聞かれるのが嫌だった。


名前を公表するには嫌悪は無かったけれど
私を知る人間、特に私に近い人間程
その人が「呼ぶ」「名前」を他人が握る事に
本能的に恐れを抱いたものだ。



それほどに、「呼ぶ」事には力がある。

使い方を誤ってはいけない力、。

存在を左右する、言霊。






私をそう、呼んでくれますか。


私は鏡。私は哀哭。



帰省。

帰省の最終夜には日記を綴りたくなる。
今回もそうだった、けれど
最近はあまり文章を綴ることがしっくり来なくて
書き始めては序盤でやはり辞めてしまうことの方が増えたかもしれない。
帰りの電車に乗り込んで綴る。


今回の帰省は1月3日〜7日までの5日間だった。

3日の前半は、家の支度に費やしてから家を出た。洗濯、それから、だらだらと掃除。
早い時間に出発して、道中初詣を済ませてから実家に帰ることも考えた。
農業は定期的に纏まった休みを取れない職業だ。
1度実家まで帰ってしまうと、こちらの都合ではなかなか町まで出掛けられない。
作物の出荷に合わせて上手く車に乗り込んでいった方が賢い。
店が在る所まで徒歩30分はかかるし、
町までは自力で歩いていけたとしても、その先の街へ出るには私鉄に乗るしかない。
料金はやたらに高く、昼は1時間に1本とか言う田舎あるあるの、私鉄。
時間がもったいない。

けれど帰ってきた時に片付けるべきものが沢山ある状態で遊びに行っても気が休まるものではない。
後回しにした時のツケは人の良き時間をを少しダメにしてしまう。用は気持ちの問題なのだ。


年の瀬を東京で過ごし、連勤が終れば正月、と思い込んでいたから
いざ帰省してみた所で三賀日も終わり落ち着き始めた空気の中で、そこまではっきりとした年越しは味わわなかった感覚がした。

去年は手作りでそばを打った。
筑前煮を作ってあげたのはこの歳だったか、もう一年前だったか。

一昨年は小屋から鉈を借り出して小ぶりの門松を自作した。
母の好きなニューイヤー駅伝(地元群馬なので)の観戦にも付き合った。 車で先回り、降りて応援を繰り返して
1日かけて追いかけ回すものだからヘトヘトになった。

それ以前は年末年始の連休などは無いのが常識の職場だった。
この頃になって初めて年末年始独特の空気を知った。
仕事を休めて「能動的に」気持を切り替える事の気持ち良さを知った。
何も言わなければ、いつも通りシフトに入って、いつも通りに淡々と時が過ぎて行って
それが当然、でもそれも大切なことだった。ただそれだけだったけれど。


両親が歳を取るのが早くなった。
1年1年、噛み締めざるを得ないのだ。
一年経つだけで、あれも、これも
膝も、耳も、内蔵も、顔なんて驚くほどに
目に見えて衰えて行く。

父などは、少し前まで「やーい、年寄り!じじぃ!笑」と投げ掛ければ
「何おぅ!?」と必ず言い返してきたのに。
のに、今は。

あぁ、少し前などと言っても、
もう何年も、前のことなのかと
指折り、過去を数えてしまう事が増えた。

両親は、大切だ。
感謝もしている。

けれど、気持ちの底でいつまでも決して消える事の無くなってしまった怨みや哀しみも沈んで、触れれば一瞬で今すらも仄暗く染めてしまう、毒の底だまりになっている。

元々人として価値観が大きく違うのだ。
今だからこそ、決して分かり合えない部分には触れずに、いざとなれば逃げることだって出来るけれど
逃げる力もない、顔色伺って従うしかない、それでも成果を出せなかった代償として追った学生時代の傷は
未だに悪夢として現れては私を喰らおうとする。
少し挫けそうになる度に、あの時の言葉が蘇って追い討ちをかけてくる。
いらない子供、ダメな子供、−−−人殺し。

忘れられない、
目を閉じれば追いかけてくる。
自由と責任を手にしても、いつまでも、変わることなく。

相変わらず両親が怒鳴り合い、ヒステリックに叫び合うのも嫌い、
周囲の悪口をただひたすらに話され、何十分も止まらずに聞いてやらなければならないのも嫌い

私は理解者だと思われているかもしれないから、普段不満を聞いてくれる人がいないから、ここぞとばかりに不満を爆発させるのだろう
解ってる。わたしも同じタイプの人間だから。
だから、何も言わない。
けどね母さん、 そんなことを聞きに帰ってきたのでは無いんだよ。

私が本当に涙を流す事には、この母の理解は一生及ばない。


感謝はしている。
世間を気にしてとは言え、彼女の価値観なりにも必死に育ててもらった事実は違いない。
掛け替えのない親だと思っている、
だからこそあの頃から辛かったし
だからこそ笑ってくれと外に連れ出す。


東京に旧友がいて良かったと思う。
上京の時は初めて東京でバンド活動をするという光があった。

東京にも地元にも、友も仲間も疎遠になっていた時期に、帰りの電車で涙が止まらなくなった事がある。虚ろだった。

孤独には勝てない。
東京に向かう電車内で大荷物を眺めながらなんとなく思う。

友人には会えなかった。
連絡が付かない人すら多い。
連絡をしたら、きっと困ってしまうだろう友人も多い。
連絡をしたくても、恐ろしくて出来ない人も沢山いる。
相変わらずだった。
言い合いも怨みも沢山聞かされた。

けどそれなりに悪くない帰省だったかもしれない。
写真を嫌がる母も含めた両親の笑顔の写真も取れて。絵も1枚仕上がって。


今回の年越しも企める事はたくさんあったけれど、今年の活動に向けて大量の作業道具をカバンに詰め込んで来てしまったから
そちらが優先となってしまった。
時間が惜しい。

スケッチブック、画材、パソコン、ボーカル機材に一眼レフと換えのレンズ…
数泊分の荷物と、お土産、更に両親の誕生日用に自作した陶芸品を包む新聞紙と箱の包装、これがまた嵩んで仕方がない。

一回り大きなキャリーが欲しいと思う。
数年前のバンドのパスが無造作に貼ってある。もうそろそろこういうものはやらない心境。

こういう時は小ぶりのリュックもあまり役に立たない。
あまりにも纏まらない事が原因。


次は、夏頃になるかな…?
明け方のあの蜩が聴きたい。


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