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歌詞の意味合いと目に視えないソレの話。

 
今日は創作が出来ない日のようだ。何も変換できない。
仕方ないから、モノ語りでもしようかと思う。
 
 
 
何年も前から、いつか綴りを本として残したいと長らく思考を記録してきた、
これも見ようによっては作品作りの一部だと思っている。
 
以下、完全に持論なので間に受けないでください。
完全に持論です。
 
 
 
ここ数日は、歌詞を書いている。
 
昔は、それなりにこだわりはしたが今ほど自分の感情に直通するものは書けなかった。
暫く経つうちに、自然と出来るようになっていたのは多分、文章力と言うより感性が深くなったから、のような感覚はある。
1つの物事に対して色々と考える、その深さが前より伸びた。
 
とてもこだわって書く。
けれど反面、敢えて分かり易い具体的な言い回しは避けている。し、
そもそもはっきり聞き取る事によって伝わって欲しいとは微塵も思ってない、というのが今回の話題。
 
そもそも、言葉で伝えたいならこんなジャンルでは歌ってない。
こんな、暴れ散らした挙句完全に地声が消滅した叫びで言葉を聞き取らせて伝えたいとか、少し無謀だと思う。
 
 
何で自分は、激情がモノを言いそうなこんなスタイルの中で
聞き取らせるつもりもない(聞き取れても一見意味のわからない)歌詞をここまで拘って書いているのだろうと
ふと思って考えてみて、結論に至った。
 
 
多分、これは私にとって
真言(マントラ)とか呪文とか、そういう類なんだ。
 
徳の高いお坊さんや能力者は真言を唱えずに術を使うのがセオリーなんだがその前に、
この真言というのはそもそも、その術者が上手く集中して術を発動させる為の導き的なものの役割が大きい。
 
良く勘違いされているけど
本来は呪文を唱えるから呪いが勝手に発動するのではない。(と自分の中で完結している)
(言葉の作用に引っ張られた無意識や、他からの意思が関係してる場合は結果的にこれに見えてしまうけれど)
大事なのは思いを言葉に乗せる事でより輪郭を持たせて力の具現化を図っている点。
こう言った場面では思いが根源であって呪文はツールでしかない。
 
私にとって
文字自体がどんな意味を持っているかの重要性よりは、
文字の意味が、それを唱える己の感情をどう導くか。であるから
 
あまり人から見て視覚的に分かり易い物語は書く必要がない。寧ろ邪魔。
断片断片で聞き取らせつつ、あとは
完全に感情と念任せにパワーを放出させる、それこそが私の真骨頂なのかと
考えてみたら納得が行ったここ数日の事。
 
 
でもまぁ、せっかくここまで拘って書いている訳だし、
読む人によって色々解釈出来そうな面白い言葉に仕上がると思うので
それはそれ、これはこれとして
追々作品として曲が出たら、好きな楽しみ方をして欲しい。と願う。
 
 
 
 
 
そう言えば全く関係無いようで有る話。
 
 
低級霊は、柏手とか大声が効く、って聞いたことあるでしょ。あれ、結構本当。
これもツール的な話で、霊体は念とかの類だから気迫で大概のものは追い返せる。
気迫が根源で、柏手や覇気声はそのツール。
 
幽霊が信じられないなら、「幽霊と呼ばれた、連鎖的に負を呼び寄せる自分自身のネガティブ」と置き換えて読んでもらえば良い。
私も視えない人間だから、完全に信じてる訳じゃない。見えないだけでいないとは言い切れない、と期待しているだけ。
 
 
多分ね、昔空襲のあった霊山(霊道がやたら通っている)の麓に部屋を構えていたかの時期、
自称霊感のある複数の知人が口を揃えてヤバイと近づいてくれないアパートに住みながら
周りの親しい人間が憑かれたの何だのとあちこちで声が上がる中
けろりと生活して「鏡さん最強説」なんてものが持ち上がった原因ってのが
 
単に自分が激情系ボーカリストで、全身全霊でとんでもなく声の放出で荒れ狂ってたからなんだろうなぁとほのぼの、思う。なんか笑える。
力放出しすぎてステージのあとは大体倒れてました。
 
 
 
 
 
そう言えば、ここまで綴っといて今更だが
人に対して冷めてると言われることも多いから
逃げて行ってるのかお互いの無関心で共存できているのか。
 
覇気声より後者が原因だったら笑える。逆に最強すぎる、いや笑えん。。

でも実際私は己の器が小さいことは自覚しているから

何も見えずに表面上の平和主義だけであれもこれもと抱えたがる人間よりはマシだと思っている。
中途半端に救おうとすれば
逆に地獄を味わわせるって事、知っといたほうが良いと思うの。

「死と共に生く」



人間は、限りなく自然死が出来なくなった生き物だと
どこかの宗教の人が言ってたっけ。




_____________________




そう言えば、来月は誕生月だ。
いつも、少し前までは覚えているのに
直前の休日申請を出す頃には忘れてしまっていて
変わらぬ仕事の日々を毎年過ごしている。


とは言っても、誕生日は非公開でずっと来たから祝ってくれる人もいなかったし
敢えて仕事を入れて人と過ごした方がまだマシなんだが。




誕生日は生まれた事を祝う日だから

自分が生まれた事を怨んでいる私には

触れて欲しくない行事だ。


少し前までは長らくそう思って生きて来た。


変わり者のように思われるだろうが、広い世界を探せばこういった思考(誕生日を祝われたくない)の人は意外といるものだ。

その広い世界はネットと言う名で皆の生活圏内にいつもあるのだが。



あれから色々ありまして
ようやく祝って貰えたなら素直に嬉しいなと思えるようになりました。
死というものは、相変わらず身近にあります。

というよりは私の生に寄り添って生きている死というものを見る目が養えたのかもしれない。

人は生きている限り死と共に行く。
それが、現実的に見えているのか、見えていかいのか、違いはそれだけ。


年をとる事は、身体的にも衰えを感じるし
自分自身の誰かが先に逝ってしまう要素で
悲しさである事には代わりはないが


手を伸ばせばそこにいつでも在る死という概念の傍らで
ここまで生きて来れた事もありがたいと思うようになった。
生きる程に死にまみれた人生の中で、
良くもまぁここまで生きたものだと思う。


死にたいと切実に思いつめることは無くなったが
私もそちらに逝きたいと、ただ純粋に
哀しみに暮れる事は以前よりも増えた。

それは、思いつめていた頃よりもその概念との距離を実感する。
より、現実的に。


哀しみに暮れる程に、
生きている事の方が神秘的で、貴重で、不思議だと思う。


(余談だが、ありがとう=有り難い の語源は「なかなか無い」モノに対しての感情らしい)


現代において人間は他の生物とは違う生き方をし過ぎていて
医療がどんなに発達しても
寿命を全うする事自体の貴さ、目出度さは変わらない。

そもそも肉を食うくせに火を通さないと行けません(その規制はどんどん厳しくなる)、他の動物が平気で飲んでいる水は菌がいるから飲めません、床に落ちたものは食えません

まずそこから人間って物が生物としておかしいだろう。
人間は人間の群れに塗れているからそれが当然だと思ってしまいがちなだけで。


もっと、死というものが身近に見えていて良い筈だった。

最近解ったことがある。

人や己の人生を怨む末、ではなく
人から見れば嘘のように終りを受け入れてしまう人の事。


解ってしまった。
同じ色をした人間は、なんとなく言葉を交わさずとも解る。

それは、
拭えぬからなのだと。











今年の誕生日は、世話になった友人に声をかけてお礼パーティーをしよう。
そうしよう。
母親の出産記念も祝ってやらないとな。






私もそちらの世界に逝きたいと思う。が

その想いは、こちらにまだいられる現実感と共に在る。
だからこれは自分にとって大事なことなのだと思う。


命を全うしたい程に、そちらに逝きたくて
それ程に、こちらにまだいたい。

ただそれだけ。

夜中に独りでしゃぼん玉をしていた。

緩やかな風に吹かれて舞い上がっていく姿が美しくて、悔しくて

少しだけ癒えた気がした。錯覚。



人は、あれもこれも
普通はそう言う事はしなくて、
こういう事をしていると
寂しい奴とか
おかしい奴とか
怖い奴とか
そう言う目線を真っ先に送ってくる事ばかりだ。
いつも。



君は

どうしようもなく哀しくて
何年経っても拭えぬ喪失があっても、

寂しいものや寂しい影に魅せられる事無く、
常に明るみと賑やかさの価値をこそと、
求めていられるのかな。


楽しさだけで拭えるものなんて数が知れている。
何をしても拭えない。
日が差すほどにそれは浮き彫りになってしまう。



美しい世界だ。
幸せに溢れた、世界。
暖かくて、眩くて。


その日差しが、人に生を拒否させる。


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