2016-5-31 04:12
今日は創作が出来ない日のようだ。何も変換できない。
仕方ないから、モノ語りでもしようかと思う。
何年も前から、いつか綴りを本として残したいと長らく思考を記録してきた、
これも見ようによっては作品作りの一部だと思っている。
以下、完全に持論なので間に受けないでください。
完全に持論です。
ここ数日は、歌詞を書いている。
昔は、それなりにこだわりはしたが今ほど自分の感情に直通するものは書けなかった。
暫く経つうちに、自然と出来るようになっていたのは多分、文章力と言うより感性が深くなったから、のような感覚はある。
1つの物事に対して色々と考える、その深さが前より伸びた。
とてもこだわって書く。
けれど反面、敢えて分かり易い具体的な言い回しは避けている。し、
そもそもはっきり聞き取る事によって伝わって欲しいとは微塵も思ってない、というのが今回の話題。
そもそも、言葉で伝えたいならこんなジャンルでは歌ってない。
こんな、暴れ散らした挙句、完全に地声が消滅した叫びで言葉を聞き取らせて伝えたいとか、少し無謀だと思う。
何で自分は、激情がモノを言いそうなこんなスタイルの中で
聞き取らせるつもりもない(聞き取れても一見意味のわからない)歌詞をここまで拘って書いているのだろうと
ふと思って考えてみて、結論に至った。
多分、これは私にとって
真言(マントラ)とか呪文とか、そういう類なんだ。
徳の高いお坊さんや能力者は真言を唱えずに術を使うのがセオリーなんだがその前に、
この真言というのはそもそも、その術者が上手く集中して術を発動させる為の導き的なものの役割が大きい。
良く勘違いされているけど
本来は呪文を唱えるから呪いが勝手に発動するのではない。(と自分の中で完結している)
(言葉の作用に引っ張られた無意識や、他からの意思が関係してる場合は結果的にこれに見えてしまうけれど)
大事なのは思いを言葉に乗せる事でより輪郭を持たせて力の具現化を図っている点。
こう言った場面では思いが根源であって呪文はツールでしかない。
私にとって
文字自体がどんな意味を持っているかの重要性よりは、
文字の意味が、それを唱える己の感情をどう導くか。であるから
あまり人から見て視覚的に分かり易い物語は書く必要がない。寧ろ邪魔。
断片断片で聞き取らせつつ、あとは
完全に感情と念任せにパワーを放出させる、それこそが私の真骨頂なのかと
考えてみたら納得が行ったここ数日の事。
でもまぁ、せっかくここまで拘って書いている訳だし、
読む人によって色々解釈出来そうな面白い言葉に仕上がると思うので
それはそれ、これはこれとして
追々作品として曲が出たら、好きな楽しみ方をして欲しい。と願う。
そう言えば全く関係無いようで有る話。
低級霊は、柏手とか大声が効く、って聞いたことあるでしょ。あれ、結構本当。
これもツール的な話で、霊体は念とかの類だから気迫で大概のものは追い返せる。
気迫が根源で、柏手や覇気声はそのツール。
幽霊が信じられないなら、「幽霊と呼ばれた、連鎖的に負を呼び寄せる自分自身のネガティブ」と置き換えて読んでもらえば良い。
私も視えない人間だから、完全に信じてる訳じゃない。見えないだけでいないとは言い切れない、と期待しているだけ。
多分ね、昔空襲のあった霊山(霊道がやたら通っている)の麓に部屋を構えていたかの時期、
自称霊感のある複数の知人が口を揃えてヤバイと近づいてくれないアパートに住みながら
周りの親しい人間が憑かれたの何だのとあちこちで声が上がる中
けろりと生活して「鏡さん最強説」なんてものが持ち上がった原因ってのが
単に自分が激情系ボーカリストで、全身全霊でとんでもなく声の放出で荒れ狂ってたからなんだろうなぁとほのぼの、思う。なんか笑える。
力放出しすぎてステージのあとは大体倒れてました。
そう言えば、ここまで綴っといて今更だが
人に対して冷めてると言われることも多いから
逃げて行ってるのかお互いの無関心で共存できているのか。
覇気声より後者が原因だったら笑える。逆に最強すぎる、いや笑えん。。
でも実際私は己の器が小さいことは自覚しているから
何も見えずに表面上の平和主義だけであれもこれもと抱えたがる人間よりはマシだと思っている。
中途半端に救おうとすれば
逆に地獄を味わわせるって事、知っといたほうが良いと思うの。