かつてユーフラテス川上流の地域に遊牧生活をしていたヘブライ人=イスラエル人は、紀元前18世紀頃当時カナーンと呼ばれた現パレスチナ地方に移住
飢饉から一部はエジプトへと渡ったが、新王国からの虐待を受け紀元前13世紀にモーセに率いられ出エジプト、40年間のシナイ砂漠での流浪を経てカナーンへと再び合流
紀元前11世紀の末に王政へ
サウルを初代王とし、ヘブライ王国=イスラエル王国となる
サウルに仕えたダビデは、紀元前13世紀よりエーゲ海から入植していた戦士ゴリアテ擁するペリシテ人を討ちイスラエル全土の国王となり、エルサレムを首都とする
その息子ソロモンはユーフラテス川からガザにまで領地を広げ、エルサレムに第一神殿を築くが自身の出自であるユダを贔屓、一方で他宗教を黙認した事から国内に軋轢が生まれ、彼の死語王国は北のイスラエル、南のユダに割れた
イスラエル王国は前722年にアッシリアに下され10部族の追放
ユダ王国もアッシリアに臣従、アッシリア滅亡後は独立を果たすも、前586年に新バビロニアに征服され神殿は破壊、ユダ王国民はバビロンに強制移住させられた(バビロンの捕囚)
前538年アケメネス朝ペルシアが新バビロニアを討ち移住させられた民はエルサレムに帰還
自治は認められずとも、神殿の再建に至る
前332年アレクサンドロス大王率いるギリシアの支配を受ける
アレクサンドロス死後彼の帝国は分裂、後継者(ディアドコイ)間の戦争が始まる
パレスチナ地方もセレウコス朝シリアとプトレマイオス朝エジプトの紛争の地となった
セレウコス朝の支配下でユダヤ教は迫害され神殿は破壊、ゼウス神の神殿が建設される等の屈辱から祭司マタティアがその子ら(ヨハネ、シモン、ユダ、エレアザル、ヨナタン)と共に蜂起
前165年エルサレムを奪還しハスモン朝下でほぼ独立を成した
前103年アレクサンドロス・ヤンナイオスが即位
ヘレニズム(ギリシア主義)への傾倒や祭司たちからなるサドカイ派との癒着から、厳格なユダヤ教徒を自負するファリサイ派と内戦
またプトレマイオス朝エジプトとの戦争の後ガザを破壊、再び占領下に置きソロモン王以来の領地拡大を成す
前76年死去、ファリサイ派に権力を認める遺書を残し妻であるサロメ・アレクサンドラが女王に、長男のヒルカノス2世が大祭司となる
これを苦々しく思う次男アリストブロス2世は反ファリサイ派と手を組み支配権を争う
前67年、疲弊の内にアレクサンドラが死去
その頃諸外国からの干渉により脱け殻化していたセレウコス朝シリアにローマ帝国ポンペイウス軍司令官が遠征し、ユダヤの内紛にも介入
前63年にはエルサレムを占領した
前37年ローマ帝国ヘロデ大王がイスラエルを支配し、ハスモン朝は滅びた
ヘロデの父アンティパトロスはヒルカノス2世の側近であったが、ローマ帝国の軍行を援助していた事からユリウス・カエサルにユダヤのプロクラトル(行政官的な意)を任命されるに至る
これはヘロデが親ローマ派として元老院より「ユダヤの王」と宣言されるまでの礎となった
彼ら父子はハスモン朝下で強制的にユダヤに改宗させられた元イドマヤ人であった
前20年〜19年、神殿の改築に着工
基礎工事等も含まれていた為完成はヘロデ死後の西暦62〜64年頃であった
また小アジア等に点在するユダヤ人の為の公共施設も築きギリシア系の人々はこれらに称賛を寄せるも、ヘレニズムを危惧したユダヤ系の人々には反感を持つ者も多く出た
ハスモン家出身の妻を始め疑わしき者はみな処刑する事、飢饉の際には私財を擲つ事などで治世を保ったが死後ユダヤの地を受け継いだ息子のアルケラオスは失政を重ね西暦6年頃に解任の上追放される
ユダヤはローマ帝国の直轄領となった
西暦66年〜74年第1次ユダヤ戦争、131年〜135年第2次ユダヤ戦争にあたるバル・コクバの乱を経ても長い独立が叶うことは無くエルサレムは破壊され、新たな市街地には立ち入りを禁じられた事からユダヤ人は地中海の各地へ離散(ディアスポラ)していった
先のヘロデ大王の死去は前4年であるが、それ以前の前6年〜4年にナザレのイエスが誕生したとされる
従来のユダヤ教に反する教えを説いた事、また一度は信望したもののローマ支配からの救い主では無かったという落胆からユダヤの人々はローマ帝国にイエスの処刑を望み、彼が率いる内乱を危惧した事などから帝国もそれを承諾した
やがてそれがキリスト教が広まるにつれてユダヤの人々がイエスを処刑した者たちと目される原因となってしまう
ディアスポラした先の地で自由に職に就く事も難しくなり、キリスト教では賤業とされた金融業に従事する事となるが、それが結果的にユダヤの人々に富をもたらす
第一次世界大戦によりパレスチナの地はオスマン帝国からイギリスの支配に下った
当時のパレスチナには多数のアラブ人、少数のユダヤ人、更に少数の民族が複数暮らしていた
ユダヤ資本に目を付けたイギリスは「協力してくれたらパレスチナにユダヤ国家の建設を支持しますよ」との書簡を送る(バルフォア宣言)
その一方でイギリスはオスマン帝国からの独立を目指すアラブ民族主義をも利用すべく「独立を支持しますよ」と協力を仰ぐ書簡を送った(フセイン・マクマホン協定)
更には同盟国であるフランスと「終結したらオスマン帝国領山分けしよ」と秘密裏の条約を結んだ(サイクス・ピコ協定)
これが所謂三枚舌外交であり、現在も燃え続けるパレスチナ問題の火種となっている
エルサレム(別名シオンの丘)に帰ろうというユダヤ人悲願のシオニズムは1948年のイスラエル建国により果たされた
しかしそれによって元よりその地に暮らした人々は故郷を追われ、一括りにパレスチナと呼ばれた土地の内イスラエルを除くガザ地区とヨルダン川西岸にて、国を持たぬままイスラエルの占領下に置かれている
非常に雑であるし理解しきれていない部分も多いがこれがユダヤ人を軸として調べたパレスチナ問題の個人的なまとめです
何がなんでももう故郷を失いたくないという気持ちを少しでも理解してみたかった