カリスマ

 歌唱と楽曲に定評のあるマルチクリエイティブ歌うたい、とりあえず便宜上はアイドルの眞久(まさひさ)の元に悪魔が現れた。真夜中過ぎのことだ。
「なんか一つ願いを叶えてやろう」
 すげーざっくりとした提案に、眞久はほんの少しだけ目を細めると、淀みなく答えた。
「俺のファンは皆無病息災になり健康寿命が伸びて金銭にも人間関係にも苦労をせず健やかに幸せに生きるようになってほしい」
 割と殊勝なことをいう。いや、全然殊勝ではない。むしろスゴイ図々しいが、自分や特定の誰か(例えば恋人とか)ではなく不特定多数のファンに向けられるのはちょっとなかなかない事例だったので、悪魔はその意外さに目を細めた。奇しくも眞久と同じ挙動だった。
 そして悪魔らしく利己的に解釈した。
「なるほど、健康を餌にしてファンを増やすわけだな」
「違う」眞久は即答した。違うのだ。
「ではなぜ?」
「俺はストレスに弱い。ファンが、いや、ファンに限らず人が不幸になったりする話を聞くだけで辛くなり悲しみに引きずられてパフォーマンスが落ちる」
「よくそんなんで芸能とかできたな」
 悪魔は半ば呆れつつ感心もした。不老不死の神々に似たようなところがあったのを思い出した。自身が不老不死であるがゆえに、お気に入りの人間が死ぬと尋常ならざるショックを受けて嘆き悲しむのだ。自分たちが死なないせいか耐性が低い。超人的ウエメセといえる。
「『俺の歌で皆を幸せにするぜー』みたいなやつじゃねえの? 向こうさんだってお前への気持ちを一本心の柱にして頑張ろうってなってるだろうし、信じてやりゃいいじゃん」
「そんなものは当たり前だ。その上で言っている。俺の都合の話をしているんだ」
 眞久は何かを握りしめるように両手のひらを握り込んだ。「俺は弱い」「マジでよくそんなんで人気商売とかできたな」
「俺のファンには幸せは義務くらいの気持ちで臨んでほしいし、俺もこんな独善を望むならばそれ相応のことをしなければならないと思っている」
 やはり大分無茶苦茶なことを言っている。が、悪魔はその願いを叶えた。「お前のファンは皆無病息災になり健康寿命が伸びて金銭にも人間関係にも苦労せず健やかに幸せに生きるようになるだろう」
 そこからはもう伝説である。聴くだけで体調が整い多幸感に見舞われ脳みそが活性化しコミュ障は会話が弾み仲間ができる鉄板の話題を得てQOL爆上がり、ストレスはかき消え空は晴れ渡り景気は回復し経済は回り医療費は抑えられた。おこぼれに預かろうと近づいてきた有象無象は、逆にわけわからんのめり込み方をして周囲を驚かせた(実利に弱いので)。眞久もまた、無病息災になり健康寿命が伸びて金銭にも人間関係にも苦労せず健やかに幸せに生きるファンの前で最高のパフォーマンスを見せた。とても良いサイクルだ。その規模は次第に増していき、気がつけば一億総ファンみたいな勢いを得ていた。これはもう国の中に国を建てられるまである。
 そんな眞久がある日突然倒れた。大騒ぎになった。なんせ国中がストレスフリーの空間にどっぷり浸かりきっていたから、皆久々のストレスで目を回していた。それでも今こそ戦わねばならぬ、と、人々はそれそれの立場から動いた。直接的には医療従事者が、間接的にはもっとさまざまな人々が。
 原因不明の病はとりあえず眞久病とされた。
 眞久は病院のベッドの上でひとりごちた。
「無病息災になり健康寿命が伸びて金銭にも人間関係にも苦労せず健やかに幸せに生きられる中に俺が含まれていない、という落とし穴なのかな。これが悪魔の罠か」
「いや別に」と悪魔。
「わざわざそんなことしなくても問題には限りがないってのが最近の定説だ。何やったってどっかで詰むし、詰んでからが本番だ」
 実際、ストレス耐性とか増長とか詐欺師の跳梁跋扈とか医療関係とか思想とか多様性とか同調圧力とか、水面下からいくらでも不安要素は掘れるし、そんな中でも皆それぞれに動くし動いたのだ。
「そうか。まあ考えてみれば俺は俺のファンではないか。無茶を言ってすまなかったな」
「謝るようなことじゃねえよ」
 そうして眞久は生かされたし生きた。最終局面では、この歌と存在は貴重だから何が何でも生きながらえさせねばならない、たとえ人倫にもとるようであっても、みたいな案は出たし、そんなんなくてもおれたちは眞久から確かな幸いをもらったんだと利己的で無理な延命に反対する者がぶつかり、混乱と衝突の続く中、眞久は不思議なほど穏やかな心で見つめていた。
 彼の死後、その歌の音源から然るべき力は失われた。だがそこに何かを見出す者は残った。それは過去の感謝であったり幸福であったり未来への指標であったり、人によってさまざまな形をとった。不定形の神のように。

無題

 学校の屋上で昼飯を食べている。遠くに北山を臨み、間に挟まるように伸びる高架を二両編成の電車が走る音を聞いている。夏で、日差しが強く、落ちる影が心なしか濃い。
 これは嘘の記憶だと思う。屋上はずっと前からどこだって出入り禁止で施錠もされていて、努めてそれを破ったこともない。風景からすると高校。ただし実際見たことのある光景ではない。土地勘からの推測、それに間接的な他の記憶が混じっている。手元の調理パンは多分購買で買ったものだが実際は弁当が殆どだった。この時間に電車はなかったはず。一時間に一本あれば御の字で、そもそも電車ではなく汽車だ。便宜上電車と言ってはいたが。太陽の位置もおかしい。それに付随する影も。デタラメに伸びる様は手癖で描いた絵にも似て、それっぽいようで全然らしくない。とりあえず日陰に入れているのはありがたかった。
 すべてを通して嘘。たた、すべてこの光景のためにつかれた嘘であり、数珠の種類はばらばらでも通す糸に迷いはない。
「坂木は屋上好きなの?」
 隣で篠原がチョコミント味のドリンクに付属のストローを差しながら問う。当時はまだ発売されていない。限定として展開して、そこから定番になった。ずっと後のことだ。
「屋上は一度出てみたかったんだよな、俺」
「禁止されてたよね」
「なんか駄目なんだよな。駄目だけど、漫画とかドラマでは割と出てた。古いやつはまだ禁止される前に描かれたものだったのかな」
「実際どうなのかはあんまり関係ないんじゃないの。ロマンってやつ。良いシーンになる」篠原は間延びした口調でそんなふうに評する。
「でさ、現実風だけど盛ってるなって何となく感じとる時ってあるよね。屋上に限らない。漫画とか特に」
「中学生でこんなに体格いいかあ? とかな。あとなんか実際より大人っぽい。思考がしっかりしてる」
「しっかりくっきりしてる。おれはもっとふわふわしてたよ、すごい適当だった」
「自分がその年に近くなったり――あと兄弟とか、とにかく近くの現実が見えてくると、ああ、盛ってんだなって。フィクションだもんな、当たり前なんだけど」
「いや分からないよ、もしかしたら田舎のおれたちが馬鹿なだけで、そういう舞台になるような場所に住んでる人々は皆あんな風に……ないか」
「どうなんだろう、こんな話他人としたこともないし」
 夢の中で夢を語るような感覚が根の部分にずっとある。ひんやりとした違和感。それは今もそうだし、昔からずっとそうだった。
「そういうのは分かるんだ。分かるし、飲み込める。でも」
 急に何かが膨れ上がる。具体性のない何かが。
「いつからか忘れたけど、フィクションと向かい合う時に、何か別のものがふわっと見えてくるようになってきて。あれはさ……」
 風が吹いてきた。温度のない、何かを揺るがせるだけの風。開襟シャツが軽くはためき、何かがざわめき始める。
「現実との区別がつかないとかでなくて」
 空の明るさが一段落ちた。そこにない流れ雲が太陽にかかったように。翳った町の俯瞰に、様々な住宅様式が重なっては消えていく。平屋、アパート、瓦屋根、学校、大型店舗、密集、閑散――そして、農地であり、空き地であり――これはある側――無い――ある――ある、無い――
「俺が見えてくるんだ。俺の、立っている場所が」
 篠原はじっとこちらを見ている。表情はない。
「余計なことを考えてしまう話は、なんか見れなくなる。現実に近づいた分だけそうなる。きっと他人のことを見てる時もそうなんだろうな。なんでこんな、俺は俺のことばかり」
 篠原は何も答えない。言葉が形にならなくなり、沈黙だけになった後も。


 午後の授業が近づいてる。夏にしては穏やかな空として、場が収まりを見せている。
「篠原」
 立ち上がって埃を払いながら、名を呼んだ
「ありがとな。こんな、しょもない話」
「いえいえ」
 篠原は紙パックを丁寧に畳んで小型の買い物袋に投げ込んだ。ごみは全部まとめて、あとで校内のごみ箱に捨てる。
「有料になったなあ袋」
「エコは大体経費削減のためでしょ。……ずっとこんなんばっかりだな俺」
「実際はどうなんだろ」
「どうだろ。分からん。……そろそろかな」
「じゃあ、またね」
「うん、また」



  ◆◆

 坂木悠輔は仮眠から覚めた。夢を見た気がする。内容はよく覚えていない。少し気分が軽やかになっているのは感じる。睡眠は大事だと昔誰かに言われた。誰だったか。
 マンションの向かいのコンビニでチョコミントアイスを買い、袋を断ってテープが貼られるのをぼんやりと眺めながら、何かを読みたい、と思った。
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