授業中に限って別の作業が捗る、というたわいもない話がきっかけだったと覚えている。高校時代のことだ。
 授業を一時限分録音して、作業中の環境音楽代わりに使う。拙い思いつきだった。一昔前の、大した機材を使ったわけでもない素人の録音。そのままでは没入感など得られるはずもなく、それらしく加工して使えるようにしたのはつい最近のことだ。モノクロ写真の着彩にも似た、どこか遠くて近い奇妙な現実感が改めて立ち上がった。
 実際、作業は捗った。現実/過去と違って罪悪感を覚えることもない。使う道具に変化はあっても、書き仕事との相性はやはり良かった。
 ただ、こういったものは概して別の要素も含有してくる。
 作業は捗る。
 そして、授業中は眠くなる。


 まどろみの中、やたらと精度の上がった記憶が立ち上がる。サラウンド、立体音響、表面を撫でるような浅くふわついた理解の中、夢という万能の溶剤を継ぎ足され拡張された感覚が確かな密度の空間を紡いでいく。夏を伝える音。
『――で、E-3、この文の訳は』

 ――――……

 音が入った。入った、と思う。
 記憶にない音だ。今まで聞いてきた記憶にも、薄れて久しい録音当時の記憶にも無い。場にそぐわない、イレギュラーな音だ。
 反射的にヘッドホンを外して周囲を見渡す。イレギュラーな音、つまり、繰り返された録音ではなく、今、ここで鳴ったはずの音の源を探して。だが、周囲にそれらしき形跡はない。
 一気に目が覚めた。夏の午後が霧散して季節感のぼやけた夜半に帰る。若干鼓動が早くなる。
 夢の側の出来事だったのだろうか。完全に覚醒した意識で先の音を思い返す。
 ものが落ちる音だ。


 些事がきっかけで切り開かれる記憶というものはある。
 当時、窓際の席だったのを思い出した。意識したこともなかったが、少なくとも先の夢の中でもそうだった。そして、左手側の壁一枚、窓一枚隔てた向こう側から音はした。夏、田舎の公立校に冷房などなく、窓は開け放たれていた。外部へと開かれた、その向こう側から。
 いや、違う、当時の話ではない。そんなことはなかった。あったのは今で――今だったのか? おそらく違う。何もなかった。では夢の話なのか? 分からない。夢と現実と過去と現在が、音を通じて癒着と分離を繰り返す。
 寝覚めで混乱しているのだ。考えすぎている。
 再度、音源を確認する。
『――で、E-3、この文の訳は……』
 問題の場面に、該当する音はない。
 過去に何かあった記憶はない。
 今、先ほど、この場で何かが起きたわけではない。
 ならば、夢の中の話だった、それだけのことだ。



 だが、ほとなくしてまた同じ箇所でその音は鳴った。前と同じ、眠りを誘い水にして曖昧な体感の中、不意に窓の外に落ちる。
 同じことが何度か起こり、そのたびにヘッドホンを外し、前と同じように音の源を探す。
(ここにはない)
 目覚めた先の現実にはない。もちろん過去にだって無かった。音源も無傷。
 夢の中の出来事だ。
 だが、それにしては同じ場所でばかり起こる。まるで、そこに在るかのように。
 どこに?


 ◆

「妙なことを考えるもんだな、作家先生ってのは」
 注文した生ビールを受け取り、つまみに手を伸ばしながら、倉内はそう評した。大学時代からの友人で、現在の仕事を打ち明けている数少ない人物でもある。
「そういえば俺の友人にも学校机と椅子買って使ってた奴いたよ。集中できるからって。型落ちとかしてるのかな、安く売ってたんだと」
「いいなそれ、昔ならやってたかもしれない。今だと腰やるから」
「よくあの環境で勉強とかやれたもんだ。まあでも、不思議な空間だったな学校って、改めて考えると」
「だな。……最初は教室の効果音でやろうかと思ってたんだ。そういう専用のCDがあって、演劇部から借りた。でもやっぱり馴染みが悪くて」
「知らない記憶だもんな。そこは仕方ない」
 倉内はそこで一旦会話を止めた。飲み屋の喧騒が通り過ぎ、隣の席の学生が爆笑する。
「前後で音声(なかみ)いじったりは?」
「していない」
「妙な話だな」
「不気味なら使わなければいいことではあるんだ。ただ、とにかく妙な話で」
「まあものが落ちる音ってのがそもそも妙だわな。ヒューっとでもいうのか。いわないか」
 漫画みたいな話だ。倉内は笑う。言われてみれば、落ちる音という認識しかない。具体性がない。口真似してみせろと言われたら答えに窮するだろう。
「というか、ドスン、とかではないんだよな? 地面に、ええとこの場合は地面だよな、窓の外だし――とにかく、地面に衝突した音ではなく、通過した音というか。落ちた音でなく、落ちていく途中の音? ってことだろ?」
 ここまで言って、倉内は急に黙った。
 理由は何となく分かった。ものが落下した先の生々しさが不意に実感として訪れたのだ。倉内だけではなく。
 そのまま、なんとはなしに話題は別の方向ににずれていった。
 逆だったりしてな。
 会計を前に、ふと倉内はつぶやいた。
「逆?」
「実際にものが落ちたから落ちた音だと思った、というのはどうだ? 何かが落ちたのを見たんだよ」

 なにが落ちた?

 根本的な疑問だった。なにが落ちたのか。落ちていったのか。


 ◆

 音の正体も、場所までも分かっている。それなのに抜け落ちている情報が山ほどある。いかにも夢の中の感覚だった。
 聴覚ばかりが肥大して、それだけで場の全てを拾いきれていた、あのまどろみの中で、窓の外を一度も見ていない。全ては音から展開しているのだから、そちらに気を取られていたのだろう。なにが落ちたのか。
 落ちる音を、眠気を意識しての作業はこれが初めてだった。
 昔のことを思い出しなから進める。夏。夏の教室。三階だった、上には屋上しかない――
 眠気はほどなく来た。
『――でE-3、この文の訳は……』
 いつものように、音は窓の外からする――はずだ。
 窓を見る。見ようとする。だがうまく焦点を合わせることができない。逸らそう逸らそうとする妙な力が自分の内側からかかる。意志に反した己の意志だ。
 視界の隅から覗き見るようにしても、そこにあるのは光の壁で、はっきりと捉えることはできず、逆光、違う、何もない、何も? 眩しいのか、なにもないのか、見えない、見えない、
    目が合った。
 異様に長い一瞬を力ずくで振りほどき、伏せた面を上げる。無理やりな動作が夢と現を繋いでしまい、意識を急浮上させた。そして、

 ――――……■■

 窓の向こう。音に合わせるように。何か、決して小さくはない何かが落ちた。今、現実の、デスクの左手側、カーテンを挟んだこの窓の向こうだ。
 ここは一階だ。
 音の記憶にあの時の光景が重なる。何かあったのか。何があったのか。いや、何もなかった。そうでなければ、証拠になり得る音源を呑気に何年も手元に置いていない。
 発想が飛躍している。過去に何かが落ちた証拠。そんなものはない。後付けの記憶だ。だから、音は今、ここで起きたはずで、実際起きた。
 窓一枚、カーテン一枚、ドアの向こうに、それがあるかもしれない。落ちていった音。地面を叩かなかった音。それとは少し違った音。
 今、現実に、ここに落ちたのか。開ければ分かるのだろうか。
 なんとはなしに窓は避けた。
 チェーンを外し、ドアノブに手をかける。

 ――どこに在るのか分からなかった音を、なにかを、今、現実に着地させてしまったのではないか。

 ふと、そんなことが頭をよぎった。
 ドアノブは半ばまで回っている。