忘れてはならない日


あの『戦争』を実体験した人達が年々少なくなってゆく。
考えてみるまでもないことだが、自分はもちろん両親も『戦争を知らない子供達』だ。


清水で過ごした3度の夏。
広島の原爆で父方の親類の大方が亡くなっている話をすると、殆どの人は言葉を失った。
実を言えば、島根・広島の県境に住んでいると原爆投下当時の広島を知る人というのはそれほど珍しくない。
近い…というのはそういうことだ。
たとえは悪いかもしれないが、神戸に阪神大震災を実体験している人が多いのと同じことだと思う。


俺は、父方の親類が極端に少ない。
親父は飯南で生まれているが、祖父が中学生の頃までは広島の市街地に暮らしていたそうだ。
体調を崩した母親を親戚を頼って疎開させるため、中学生になったばかりの祖父が付き添って飯南を訪れたのが1945年8月5日。
翌朝、広島へ戻る途中でキノコ雲を見たという。


広島の家に残っていた父親が被災、ついに遺体もみつからなかった。
親類の殆どは広島市内に在住、残ったのはあの朝飯南にいた祖父とその母親(曾祖母にあたる人だ)、出征していた祖父の兄や従兄弟が数名、疎開していた一家族。


祖父は、父親や知人を探して直後の広島へ何度も訪れた。
除染などされたはすもないあの頃の広島の町…今でこそ二次被爆などと取り沙汰されるが、どんなに体調不良を訴えても被爆者とは認められなかった。


戦争、と口にするのは容易い。
現に、今も世界のどこかで内戦があり、テロがおこっている。
大国と呼ばれる国々は地球を何度でも滅ぼせる数の核兵器を保有する。
あの夏、人は誓ったのではなかったか…過ちは繰り返すまじ、と。
許すまじではなく、怨みを忘るべからずでもなく。
広島・長崎で劫火に焼かれ、一瞬のうちに奪われた十数万の命は、その悲劇によって戦争のたどり着く先の地獄を我々に教えてくれているのに。


憲法改正でもなんでもいい…靖国参拝もどうでもいい。
でも、頼むから『国防』の名の下に人々を争いの場へかりたてることだけはしないでほしい。


幼い俺と妹に、泣きながら空襲の話をしてくれた曾祖母。
広島の焼け野原や、被爆者の悲惨な姿を言葉少なに語った祖父。
体中を癌に冒され、痩せ細りながらも「生きてこその命だ」と笑った祖父を、俺は忘れない。


68回目の終戦の日。
戦争を知らない世代ばかりが集って盂蘭盆を迎えた今年。
年々増える小さな子供達の姿に、平和を享受出来る幸せをかみしめる夏の昼下がりだ。