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今ほとんど数も減り必要なくなってしまって、ODもしなくなったのですが、まあなんかあった時というか自決用にやっぱ病院周りしといた方が良いのかなあと思いました

薬じゃしねないし死ねなかったけど、薬でラリって飛び降りる恐怖は緩和出来るかなあって思ったので

なんかあった時の為に

タイトルなし

中学に居た頃の良い思い出、今思い返そうとするとひとつも思い出せないことに気付いた。
いつでも虐げられて誰かが人気になったり楽しむための踏み台になっていた。

曲にしようとする時、いつでもあたしは綺麗な曲が良いと思っていたから、なるべく綺麗に作ろうと思ってやってたけど、最近それをすっぱりやめてみて、歌う時も綺麗な声じゃなくしてみたら、普通に歌ってる時より人が集まってくれて、拍手もお金ももらえた。
綺麗じゃなくても良いんだ。やっと気付いた。

ていうか、小中学校時代の刷り込みがあって、自分がこの世で一番きもいって言われ続けてたから、そういう風にしか思えなくなってて、なんかもう、綺麗になろうとするだけ無駄なんだろうとか色々考えた。

3月に旅行にいった子が「顔は大事だよ」って言ってたから、きっとあたしはこの子の中では友達でも何でもないんだろうなって気付いて、ずっとにこにこしてた。煙草が吸いたかった。

大学教授

教授に呼ばれて、「デリケートな問題ですから一緒に面と向かって話をしたい」って言われたのに、ドア開きっぱなしで精神疾患のこととかリストカットとか自殺未遂とか全部聞かれた死ねよカスが
だったら電話越しの方がずっと良かったよ
死ねばいい

死ぬために

200錠とお酒でも死ねなかったから、生きるしかないんだなって思って、「死」にずっと絶望してた。首吊りはおにいちゃんとおじさんと同じ死に方で、お葬式とか納骨のこと思い出すと凄く悲しいからやっぱり出来なくて。
今月の頭ぐらいに、事前事後の指導の先生と話してる時、久しぶりに電話越し以外で人の前で泣いた。お母さんに嫌われていることとか、リストカットしてたこととか、死にたいとか、人が怖くて仕方ないこととか、指突っ込んで吐くみたいにげろげろ話してた。先生は「死んだって何にもならないよ」と言っていた。あたしは、もし自分が自殺しておにいちゃんとおじさんに会えて、川崎のあの中華屋さんで食事することが出来たらどんなに幸せだろうって思っていた。死んでも会えないんだろうか。

バイト先の女の子が「誰も私の気持ちなんてわかってくれない」って、ぽろっと横に口にしているのをみて、「あ、かっこいいな」と思った。多くの人が思ってるだろうけど口に出せないことを、本当にすとん、と胸に落ちてくるみたいに言うから、かっこいいと思った。素直でかっこいいと思った。こんな風に素直に生きたいと思った。


もうすぐ夏が来るけど、3年前みたいに長袖を着るのはやめて、今は半袖で過ごしてる。皮膚科の先生に「色を抑えることはできるかも知れませんが、凹凸をなくすことは出来ません」って言われた左手のピンクのケロイドは、今はもうちゃんとした肌色になってて、目立たなくなってる。黒いカッターでベッドの横に血溜まりが出来るほど深く切った傷も、それはやっぱ大きいけど、嘘みたいに綺麗な肌色になってた。人間の治癒力とか生きる力って凄い。200錠飲んでも生きてるし、ずたずたの手首も綺麗になるし。でも、死ぬ時は絶対に自分で決めたいから、やっぱり生きようと思った。
約束は取り付けられたらそれを果たさず死ねば裏切りになるから、それだけはちゃんとやろうと思った。40代ぐらいには自分のやりたいこととか欲しい物とか全部買い終えて、それでコンパクトに人生を終えようと思った。
人知れず、虫のように草陰で弔われずに、孤独に死んで行くのはとても美しく尊厳のある死に方だと高校の時読んだ本の影響でずっと思っているから、そうやって死にたいと思った。
より良く死ぬ為に、生きたいと思った。

知らないうちに消えてる

毎日の通る道にある和風パブが潰れていた。工事のおじさんやお兄さんが解体作業しているのを、長い横断歩道の信号が変わるまで、ぼうっと見ていた。

あのお店の客引きのおじさんが、やる気無く煙草を吸っているのを見るのが好きだった。
田舎だから人も全く通らないのに、冬でも外で寒そうに立ってるおじさんが、情緒があって好きだった。
もう会えないのかと思うと何とも言い難い気持ちになった。

そう言えば今年、教育実習に行きます。病弱なあたしでも行けるように念を押してあげるって先生が言ってた。ありがとうって思った。
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