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こんな夜に

NHKで清志郎の追悼番組をやっていた。録画していたのでとりあえず流す程度に見ていたが、復活した時のステージのパフォーマンスと表情、演奏している曲の歌詞に熱くなった。メッセージをもらった。

最近へこむことばかりで心が折れていたのだが、ポジティビティをもらった。
年をとることにネガティブなことしか思えなかったし、最近切実に悲観的に思っていた自分だが、かっこいいポジティブなじじいになりたいなと。


清志郎が逝ってしまう直前に、ロッキンオンのフジロックの特集の中、清志郎が復活のステージに立ってくれたらいいな、なんて記述を読んだばかりだったのに、亡くなったのを何気無く人から言われたのを聞いて絶句した。
確かに年をとったし、前にもガンをわずらったし体調が思わしくないのも知っていたが、まさかね。変な話、死なないものかと思っていた。
言い方は変だけどそれくらいちょっと信じられなかった。
もともとファンでもないし、曲もそんなに知らない。だから多くも語れないし、よくも知らないのにわかったふうな軽はずみなことも言いたくもない。
だけど思いをはせてみると、80年代からロックを聴いてきて、改めて思うが、当時の清志郎の存在は特別であり日本のミュージシャンの中で異質だった。べたな言い方だがロックミュージシャンだった。カッコだけや不良なイメージではない生き方としての。
清志郎が年をとって、そしてそのままで死んでいったのを思うとなおさら実感する。
生き方がすごくいいし、枯れてなくてカッコよく逝ってしまった。これも変な言い方だがふさわしい、いい死に方だと思う。いいタイミングというかね。最後まで闘いながら死んでいって、そして惜しまれて…

勝手な心理だけど、ロックミュージシャンはもうろくした姿なんぞ見たくないのである。死ぬまで闘っていたり苦悩していたり馬鹿であったり色気があったりスケベであったりしてカッコいいままで見る側に夢を与えて欲しい。
生身の人間だし社会人として生きてるわけだしそんなのいい年の人間に求めるのは非常に無責任で身勝手で子供っぽいけど、実際にそういうのを生き方として提示したり体現してるのを見ると、なんというか、勇気をもらえる。うまく言えないけど。

年をとってくると若い頃には考えなかった死に方とか年をとってからの自分やらオヤジ的な生き方なんぞを考える。
そんな中、今日は少し救われたようなこれからの進み方を漠然とみつけたような気がしてる。

打ちのめされることや限界を感じることばかりだけど、誇りをもたないとね。


しかし、今の日本のアーティストと呼ばれる人に、これくらいロックな人はいるのだろうか。若いやつらの中には皆無のような気がする。
尾崎豊みたいな人はもうでてこないと思うけど、人気を持ち合わせてそんな生き方をしてる人はいるのかな。大変困難なものだと思うし流行らないかもしれない。尾崎の時みたいに時代が求めていないし、あの時はそんな風潮があった。あの人は人生は不幸だったかもしれないが時代性はある意味幸福な時に生きていたのかもしれない。

自分の中でこれから死んだらショックなミュージシャンていうと…ロックとか関係ないのも含めて、陽水、桑田佳祐、甲本ヒロト、山下達郎あたりか。そんな熱心なファンではないが存在そのものがそう思わせる。

海外だとトムヨーク、ボノ、スプリングスティーン、モリッシー、ギャラガー兄弟、プリンスあたりか。


例えばカートコバーンのようにロックシーンに深い衝撃と悲しみを与えたようなことはあったが、俺は自分の中でロックヒーローはいないから、誰か死んでも驚くけど客観視できると思う。
死に方にもよるけど。


これからいろんなミュージシャンが死んでいくだろうけど、その時に自分はどう感じるんだろう。

人の生き方って、人の死に方ってどうなんだろうね。



浮かんだまま思い付きでまとまりも関係なく一面的に書いてしまったけど、これが今日の瞬間的な思い…


また明日が来る…
社会にのみ込まれていく
人との摩擦に消耗する

明日もしっかりやっていこう
一生懸命生きてやる



今日は清志郎を聴きたかったが音源がないので、スミスとドアーズを聴いている。
今度清志郎を借りてこよう。





雨上がりの夜空に/RCサクセション


ご冥福というより、やっぱりありがとうと言いたい


泉谷、あんたも最高のじじいだよ
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