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Life StylE

意味もなく、理由もなく、あてもなく


ただただ

ひたすら

道を歩く。

冬の肌寒い風を感じて。

大地を踏みしめる感覚を一歩一歩感じて。

お気に入りの靴で。

下や横、前をみて歩く。



時には景色がキヲクとデジャブる。

舞い戻る思い出。今の自分の位置、現状。

いまと昔のクロスオーバー。足し算、引き算。

ふるいにかけられ、

残されたものを握りしめ

君に会うため

君に渡すため


歩き続ける。

座標の摘出、軸の破壊。

兄が今月末に結婚する。

兄とは何なのか。

多分僕ら兄弟はそこまで仲良い訳ではない。

思い出はいつも一方的に負ける喧嘩のことばかり。

彼は自分の分身でもなければ、目指すそうなりたい対象でもなく。

ただその年齢ごとに達するべきレベルのサンプルというか手本というか、

自分の遺伝子レベルではどんなことが出来るか、まわりにどんな影響を与えることができるか。

それらを自分より先に経験し、失敗を見せたり、また成功の証明をしたり、

道標になるような存在なのか。

多分ぼくは彼の過去を重ねることができ、

また彼は僕の未来を重ねることができるのかもしれない。

過去と未来の概算。

時に互いがプレッシャーやストレスになりながら、

より大事な人生における階段を上り下りする際に

互いの存在を確認し合う。




彼の結婚式で

ぼくは

この人生におけるラストダンスを踊る。


学生時代やっていたダンスとは程遠いが。。。


今出来る全ての力を持って。

彼を祝福しよう。

世界五分前仮説


世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。そうした知識は、たとえ過去が存在しなかったとしても、理論的にはいまこうであるのと同じであるような現在の内容へと完全に分析可能なのである

― ラッセル "The Analysis of Mind" (1971) pp-159-160: 竹尾 『心の分析』 (1993)

より
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