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記憶 3.11


話題:東日本大震災

話題:原発トラブル


あれから今日で
一年が経ちました

記憶はだんだんと
薄れていっているように感じます



福島県いわき市にて、

地震がおきたときは
茶の間でパソコンを開いて
ひたすらYouTubeで
るろうに剣心を見ていた
ワタナベですが、
なかなか治まらない
大きな揺れに
不安を感じて
外に出て塀にへばりついてた


揺れが治まってからは
とにかく情報を
得なければと思って
ラジオをつけるも
地震の規模と
津波についての
同じ情報が何度も繰り返されるだけ


母はその日
仕事があったので
そんなラジオを聞きながら
家でひとり
母の帰りを待っていました

母の職場の
すぐ目の前は海で、
でもなんとなく
大丈夫だろうと
思ったりしていたわたし

携帯なんてつながらなくて
少し不安にもなったけれど
ただただ待つしかなかったよね


やっと母が
帰ってきたと思ったら
今度は雪が降りだして
しかもその雪も
ここじゃ珍しいくらい
大雪になりそうな雪で、

何かが起きるのかと
不安になったのを
よく覚えてる。


そのうちラジオから
津波がどこまで来たか
って情報と
原発の情報が入った


聞き慣れない言葉が
飛び交って
ごちゃごちゃな情報
昼夜かまわず続く余震に
よく眠ることもできない

いわきでは水がとまって
生活水を確保することも大変

放射能のこともあって
なかなか外にも出られない

ガソリンを求めて
みんな行列を作る

スーパーの出入口にも
開店時間前から
すごい行列

一人何品までと
買うことのできる
品数が限られて、
また地震があって
被害がでたら
大変だからと、
商品を選ぶも
会計するも全部屋外


地震があって
原発問題が
報道されるようになってから数日、
わたしたちは
神奈川県横浜市の
親戚のところへ避難して
10日間そこで
お世話になりました



個人的ではありますが
地震後のわたしは
ざっとこんな感じ

書き出してみると
なんだか長くなりそうなので
今回はこの辺で、



最後になりましたが、
東日本大震災で
亡くなられた皆様に
どうかご冥福を
被災された皆様とこの世界に
たくさんの幸福がありますように。



ふりかえってみて


震災後の記事読みなおしてみて
今とあの時との
心情の違いに驚く。


だんだんと慣らされて
フツーの生活に戻っていく

いろいろなものを
失った人たちだっているのに


忘れていってる
恐怖も怒りも悲しみも、
何かが無いと
はっきりと思いだせない



3月23日(水)新聞より1

 

福島第一原発

双葉町・大熊町で

相次いだ事故を受け、

東電の副社長らが

避難所を訪れ

住民や町長に

謝罪した。

 

事故後、

東電社員が

地元住民に直接謝罪したのは

これが初めて

 

副社長は訪問後、

福島県内の

災害対策本部で

記者会見し、

原発設計段階での

津波被害に関する想定に

甘さがあったことを認めた。

 

 

認めたって表現のしかたに

疑問を感じる

 

認めたっていうと、

そうですよね?

って攻められて、

あ、はい。

調べたらそーでした。

すみませんって感じ

 

 

 

3月21日(月)個人名バレたらヤバイかなとか思うので、一応パス付けさせていただきますっ

3/20(日) 彼女は怖くて眠れないらしい

あたしも
福島にいた時は
怖くて
よく眠れなかった

一応形は寝てるんだけど
どっかの細い神経が
アンテナをたてっぱなしで、
少しの余震で
目がさめた


地震が起きた一日目の夜は
ラジオをつけっぱなしで寝た

家はボロくて
すぐきしむ

一度目のあの地震で
家が無事だったのは
本当によかった

あんなのがもう一度きたら
絶対につぶれるよ

少しの余震で
家がきしむたびに
不安になった

ここがなくなったら
あたし達の帰る場所は
なくなっちゃうんだなぁ・・
なんて思っていたんだけれども、
その後のことなんて
これっぽっちも想像できなかった


就職のこととか、
もう無理な気がする

あたしの就職先は
食べ物の製造だから
福島県産ってだけで
もう終わってるでしょ

会社がこの先
どういった対応をするのかは
まだ分からないけれど、
立ち直るまでは
大分時間がかかるだろう
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