かつて北海道のお土産といえば、木彫りの熊が定番中の定番だった時代がありました
そういえば実家の玄関に飾っていたなぁと懐かしく思い出す人も多いのではないでしょうか
実は、木彫りの熊は農村の暮らしを支える民芸品として誕生した経緯があります
八雲町が木彫り熊発祥の地ということで、さっそく八雲町に行ってきました
話を聞くために訪れたのは「八雲町木彫り熊資料館」です
八雲町木彫り熊資料館は、それまでの「林業研修センター」をリニューアルして、2014(平成26)年4月1日にオープンしました
八雲町で木彫りの熊が発祥した経緯を調べていくうちに、八雲について知っておく必要があることがわかりました
八雲は、明治維新で侍という職を失った旧尾張藩士たちが、新天地を求めて移住し、開墾した土地です
その当時の当主徳川慶勝(よしかつ)が、開拓使に払い下げを求めたことにより実現しました
開墾された土地は、尾張徳川家十九代当主の徳川義親(よしちか)の尽力により、1910(明治43)年、士族移住者には無償で譲渡されました
義親は、1918(大正7)年から熊の生態を調べるため、また熊による農作物などへの被害を減らすため、毎年のように八雲に熊狩りに訪れていました
その際、経済不況などの影響で貧しい生活を強いられる農民たちの姿に出会いました
1921(大正10)年からヨーロッパ旅行に出かけていた義親は、スイスのベルンで農村美術品(現在の民芸品)を目にしました
冬期、農作業ができなくなる八雲での副業として、農村美術品を制作し販売することで、生活の向上につながるのではないかと考え、いくつかをお土産として持ち帰ったのです
義親は帰国後、持ち帰った農村美術品を届け、それを参考にどんどん作るように奨励しました
さらには、農村美術工芸品評会も開催しました
品評会にはたくさんの工芸品が出品されていましたが、その中に2つの木彫り熊が出品されていたのです
それは、酪農家の伊藤政雄(1884年〜1936年)が、スイスから持ち帰られた木彫り熊をモデルに製作したものでした
これが、木彫り熊の第1号です
それ以降、八雲を代表する作品は何がいいかいろいろ試した結果、木彫り熊を中心に作品を作るようになっていきました
そして、1928(昭和3)年に、農民美術研究会が作られ、講習会が開かれるように
第1号木彫り熊を作った伊藤政雄と、静養のために八雲を訪れていた日本画家の十倉金之(とくらかねゆき)が講師として技術を教えました
このようにして盛り上がっていった木彫り熊ですが、八雲の木彫り熊には特徴があります
それは、熊の毛の流れを表現した彫り方「毛彫り」です
中でも、日本画家十倉の影響を受けた「毛彫り」は背中の一部が盛り上げられ、そこから四方八方に毛が流れるのが特徴で「菊毛型」と言われています
これは、実際の熊にはなく、日本画の表現方法なのだとか
一方、毛を表現しない「面彫り」という手法も新たに表れました
その「面彫り」をはじめたのは、農民美術研究会の講習会で十倉金之から学ぶとともに、指導者的立場であった柴崎重行ではないかと言われています
このようにして八雲の木彫り熊は民芸品として人気を得ていきますが、太平洋戦争がはじまるとその状況も一転します
木彫り熊は贅沢品扱いを受け、売れなくなっていったのです
寂れていき、このままではその文化が途切れてしまうとまで思われた八雲の木彫り熊
しかし、そんな逆境の中、木彫り熊を彫り続ける人がいました
茂木多喜治です
茂木多喜治は、十倉からはじまった菊型毛にこだわり、戦後も制作を続けました
また、戦争中は彫っていませんでしたが、戦後に柴崎重行も木彫り熊の制作を再開し、自分流の彫りを追求しました
この二人のあとも何人かが制作販売し、伝承されてきた八雲の木彫り熊ですが、現在では職業として木彫り熊を彫る人はおらず、ごく少数の人が趣味で彫っているのが現状です
誰もが知っている北海道の木彫り熊
八雲以外の地域では制作販売されていますが、八雲の伝統が途切れかかっています
惜しいことですが、お土産として買う人が少なくなった今、木彫り熊制作を職業にするのは難しいのかもしれません
現在(2017年7月)、八雲木彫り熊資料館では「熊をモチーフとした木彫家 柴崎重行の世界」という、企画展示を行っています
単なる民芸品としてだけではなく、芸術と呼べる域にまで達した木彫り熊は、一見の価値ありです
興味を持った方は行ってみてはいかがでしょうか
八雲町木彫り熊資料館
●所在地
北海道二海郡八雲町末広町154番地
●TEL
0137‐63‐3131
(教育委員会代表番号、郷土資料館または内線231)
●開館時間
9時〜16時30分
●休館日
毎週月曜日・祝祭日
12月29日〜1月5日
●入館料
無料