"恋"と呼ばれるものを、自分は一度たりとも抱いたことがない。
他愛ない雑談のさなか、軽い気持ちでそんなことを言えばマイヤはその大きい目を更に見張った。
こいつが兄貴以外の事で驚くのは中々珍しい。
「え、本当に?一度もないの?一度も?」
首を縦に振る。
しかし、そんなに驚くようなことだろうか。
「信じられない……じゃああんたつまり童て」
「おいコラ待て、それ以上言ったら流石に殴るぞテメェ」
──思わずドスの効いた声になった自覚はあった。
女の子にキレるとかホント意味わかんない、とぼやきつつマイヤは一礼すらすることなく部屋を後にした。
童貞だのなんだのを躊躇いなく口にする奴に意味がわからないと言われる筋合いはない。
むしろこっちが言いたい。
言ったら燃やされるのがわかっているから言わないが。
ふぅと一つ息を吐いて奴が兄自慢のついでに置いていった報告書に目を通す。
(……相変わらず、仕事に関しちゃ出来がいいからタチが悪いなあいつら兄妹は)
その情報を仔細までしっかりと頭に刻み付けた後、紙をオイルランプの炎へと翳す。
ジワジワと末端から灰になっていくそれを横目に見ながら、先程のやり取りを反芻しては何とも言えない気持ちを抱いた。
(信じられないって言われてもなぁ、知らねぇもんは知らねぇよ)
そう、知らないものは知らない。なぜと言われても大層な理由などありもしない。
自分にとって大事なものはほんの僅かだ。
自分と、主である桐ノ葉と、彼が大事に思うこの国の安寧、そしてラスフールら数人の仲間、ただそれだけ。
──大事なものをあまり増やしたくない、敢えて云うならばそれが理由だろうか。
どんなに大切にしていても、自分にそれだけの力がなければあっさりと失ってしまうものだ。
三年前、それを骨身に刻まれた。
"氷"との戦乱の、ただ中で。
自分はいわゆる戦争孤児だった。
物心ついた時には既に親は亡く、小さな孤児院で暮らしていた。
友達は少なかった方だと思う。昔からひとりの方が好きだった。
それでも皆同じような境遇で、同情し合う面倒くささも無くて、普通の子供として、それなりに幸せだった。
ラスフールとマイヤとも、そこで出会った。
同輩の中でも特にしっかり者だった自分や彼ら兄妹は、大きくなってくると買い物などの仕事を任されて街に出ることが増えた。
そして、街には当然"噂"が付き物だ。
自分たちの孤児院が"氷"の国に近いこと、"黒"と"氷"両国の仲が昔から良くないことは孤児院で教えられていたから、積極的にその噂に耳を傾けた。
嫌な、噂ばかりだった。
──"氷"はまた不作だったそうだよ。
──いくさが起きるのも時間じゃないのかい、物騒だよねえ。
──"黒"の軍がいくら強くとも、奇襲でもされたらこんな国境近くでは……。
──聞いたかい、"氷"の国境近くで最近警邏隊の連中が略奪騒ぎを繰り返しているそうだよ。
いつからだったろう。かたちのない不安が日増しに大きく暗くなっていったのは。
そのくせ孤児院の大人達は何を聞いても答えてくれなかった。
きっと、理解していたのだ。近い先にある結末を。それでも彼らは逃げなかった。
いいや、乳飲み子も幼児も多い子供達を連れて逃げられるところなど、端から無かったのだ。
馬鹿な人達だと思う。
あの日、自分らを見捨てて逃げたって、きっと誰も恨まなかったのに。
そうして今から三年前、自分が十六の時だった。
夜中に突然叩き起こされ、ただ一言、「逃げなさい」と告げられた。
煙のにおいがしていた。
肉の焼けるにおいと、近づいてくる乱暴な足音。
状況を把握する間もなく、ラスフールとマイヤ、そして数人の仲間を連れて追い出されるように裏口から逃げた。
訳もわからず泣き叫ぶ子供たちを駆り立て、細い枝が足を切るのも構わずに。
けれどやはり、幼児連れの自分らの速さは大の大人の速さに及ばず、追っ手にあっという間に距離を詰められた。
「待てや、餓鬼共!!」
「……ラス、炎で撹乱しろ!!」
言うが速いか、腰の短刀を抜き放つ。
生まれた時から持っているただ一つの、慣れた得物。
手に馴染んだはずのそれが、その時はひどく重かった。
──これが命を奪う重さかと、ふとそんなことを考えた。
だが獣は獣らしく生への執着は貪欲で、殺す恐れよりも殺される恐れの方がその時は遥かに勝っていた。
ラスの紫の炎が敵の視界と動きを奪うその瞬間。
体を屈め、その懐へ飛び込んだ。
自分は獣だ。命の奪い方は教わらずとも心得ている。
一人目は肋骨の下から突き上げ。
二人目は抜きざまに首筋を裂き。三人目は銃を振り上げた手首ごと切り落とし、喉笛へ深く突き刺した。
三人目が動かなくなったのを見て安堵してゼイと息を荒く吐いた、それが大きな隙だった。
「バル、もう一人いる!!」
はっと顔を上げた時には既に遅く、振りかぶられた剣がいやに綺麗に煌めいて見えた。
「危ない!!!!」
悲鳴のようなマイヤの声を、どこか遠くに聞きながら衝撃を覚悟して目をきつく閉じた。
けれど、待てども待てどもそれは襲ってこなかった。
恐る恐る目を開けるとそこには。
剣を掲げた姿勢のまま首と胴体を切り離されて地に伏した四人目と、恐ろしく冷たい目とをした軍服の男が立っていた。
「生きているか」
淡々とした声で、その人は問うた。
ゆっくりと頷くと、変わらないトーンで「なら、さっさと走れ」と、自分の腕を引いて立ち上がらせ、背中を押した。
頭は状況に付いて来ていなかったが、不思議と足は動いた。
そのまま先導されて街へ逃げ延びた先で、彼は「桐ノ葉」と名乗った。
その頃はまだ、准将だった主人との、これが最初の出会いだった。
「……生き延びたのは君等だけのようだ」逃げ延びた先の宿の一室で、やはり淡々と告げられた言葉は、しかしわずかに気遣う響きを帯びていた。
「……覚悟はしてました」
ラスが答えると、彼は僅かに片眉を上げた。
しかしその視線から逃れるように、ラスは顔を俯ける。
「……街に出ることは多かったから、俺達は噂も色々聞いていた。
"氷"の警邏隊が最近略奪騒ぎを繰り返してるのも、この頃付近のあちこちで"氷"の人達と小競り合いが起きてたのも」
代わりに自分が答えると、今度はその眉間に皺を寄せた。
「警邏隊……?」
おや、と思う。
「知らない、のか?」
「……我が軍は未だこの付近での情報網を確立していないからな。しかし警邏か……その噂、間違いではないのか?」
それには確信を持って答えた。
「ああ。……最後に死んだ、頬と額に傷があった奴。"氷"の国境で顔を見たことがある、間違いない」
実は内緒で、何度か国境すれすれまで行ったこともあった。無論こんな形で語ることになろうとは予想していなかったが。
「……そうか」
口に手を当てて考え込んだその人が、何を思っていたのかその時は遂に知ることはなかった。
その僅かな証言と死体を頼りに、かなり強引ながらもそれが"氷"の警邏であることを証明し、停戦協定をこちらに有利に進めるカードとしたのだと、後に本人の口から聞かされた。
そして、桐ノ葉が宿を後にする間際。
彼は見送りに来た自分に向かって、こう問いかけたのだ。
「少年、お前はこれから何を望む」
一瞬それに目を見開いて、けれど答えは既に身の内に在った。長い間じりじりと燻っていたそれは、躊躇うことなく口を突いて出た。
「力が、欲しい。己の身一つ守れないような無力な自分は、許せない」
「……そう、か」
血を吐くように漏れたその声にも、彼はまた眉を僅かに動かしただけだった。
死んでいった者達を、心苦しく思わない訳ではない。悼まない訳でもない。
それでも、死んだ者は還らない。
ならば自分はせめて、力を持たなければならないと思う。
身勝手だと言われようと何だろうと、もう自分に出来るのは死に物狂いで生きていくことだけなのだから。
「……お前にはその"耳"があり、"牙"があり、"爪"がある。それを、力とする気はないか」
顔を上げる。
桐ノ葉の眼差しは値踏みするようで、けれどそれでも真っ直ぐに自分を射抜いていた。
「俺は、この国の軍に諜報部隊を設ける。その隊を率いる力が、欲しいと思うならこれを持って城に来い」
そうして一本のナイフを渡された。
誰にも話さず行く気だったのに、出立の日にはなぜかラスフールとマイヤが悪びれることもなく僅かばかりの荷物を持って宿のロビーに立っていた。
「えー、ほら、だって軍属の方が食いっぱぐれ無さそうじゃないか」
「大丈夫よ、死地に臨んでも生き残る覚悟はしてるわ」
"死ぬ覚悟はあるよ"と言われたら意地でも置いていくつもりだったが、悪びれもなくそう言われては、「好きにしろ」と言うほかなかった。
もしかしたら彼らは、自分なんかよりずっと強かなのかもしれない。
そうして着いた城の先、再び合間見えたあの人は、そこでもう一度自分に問いかけた。
「この国と、ストラウド公の為に命を賭する気はあるか」と。
「あなたに命を賭するなら、それは同じことになりますか」と、自分は問いを返した。
初めて僅かに目を見開いて、彼は頷いた。
「ならば、そうします」
覚悟でさえない、それは確定。
それから僅か一年あまりで、自分達は"黒"の国の"耳"となり、黒のみならずイッシュ全土に情報網を敷いた。
時に内憂に"牙"を突き立て、また外患には"爪"を立てて引き裂いた。
全ては敬愛する主の為に、そしてより強い力を得る為に。
ああそうだ恋など、知る由もないはずだ。
他者の屍を踏み台に生き延びることを是としたこの自分が、己を犠牲にしてでも誰かを欲する想いなど、そして。
「……今日は随分と懐が甘いのですね、バル様」
長椅子に座した自分を不思議そうに覗き込む"彼女"が、自分に執着する理由など。
「お前、どっから入ってきた」
「窓からですわ」
「……俺の記憶が正しければここは4階のはずだが?」
「見くびらないで下さいませ、高さなど私のバル様への愛の障害には到底なり得ませんわ」
自慢げに言うべきことではないだろう、と内心で呟く。
するりと頬を挟んでくる嫌に白く細い両手が、夜の薄闇から覗き込む碧眼が、無駄に綺麗に見えるのは何故だろう。
(……気まぐれだ)
そう、これは気まぐれ。
普段は近寄られることさえ良しとしないのに、触れるのを許してみたのも、まじまじと見てみるのも、ただの気まぐれ。
そう思うだけで口元に嘲りの笑みが浮かぶ。
「俺のどこに恋なんてしたわけ?」
「それは勿論、すべてですわ」
半ば予想していた通りの答えは、あまりにあっさりとしていた。
「自分とその主以外を歯牙にも掛けぬ気高さも、それを良しとする潔さも、かぶる血を恐れず刃を握る手足も爪も、私を拒絶するこの瞳さえも、余すことなく総てが、私を惹き付けてやまないのです」
「……お前は、おかしいよ」
おかしいと、馬鹿だと思うのに。
どうして心のどこかで、嬉しいと思っている自分がいるのだろう。
そんな徒に絡まるばかりの思考ごと灼こうとするかのように、突如として薄闇の部屋に明るい紫の炎が翻る。
「……今日は調子が悪いご様子。出直して参りますわ、バル様」
「そうするといい。もう一度外してあげる気はないからね」
呆れの滲む声は、ラスフールのもの。
そうして音も立てず消え去った闖入者に一瞥もくれることなく、彼は薄く笑って向き直る。
「珍しいね、君が彼女を近付けるなんて」
「……気まぐれだよ」
そう返したにも関わらず、ラスフールは僅かに目を見張る。
その動作は、不思議を通り越して呆れ返るほど先程のマイヤと瓜二つで、それがますます自分を苛立たせた。
「何だよ?」
「いや、今日は本当に調子が悪いみたいだねバル」
「はぁ?」
「随分と、負け惜しみじみて聞こえるよ」
言葉を失う自分を余所に、ラスフールはひどく優しい目をしていた。
「まるで、恋でもしたみたいだね」
「……馬鹿を言うな」
恋などする訳がない。
死んでも誰か一人に心を傾けるのは御免だ。
自分は、気まぐれな"猫"なのだから。
──それなのに。
それなのに、今日はひどく、この夜を持て余してしまいそうな気がする。
恋
満つは薄闇、夜は濃い
密